第8話 押し寄せるのは、仄暗い独占欲。
オスカーは、アリシアの部屋の椅子に腰掛けていた。
鏡台、大きなクローゼット、明るい色の壁紙。どれもオスカーの部屋にはないもので、女性を感じさせるこの部屋は、妙に落ち着かない気分にさせられる。
もちろん、この身体もだ。感覚が違うのはもちろんなのだが、オスカーは決して下を向けない。
下を向いた瞬間に、嫌でも見えてしまうからだ。
入れ替わってすぐの頃、何気なく下を向いて、その瞬間に頭をはね上げる動きを何度も繰り返したことで、まだ首に微妙な痛みが残っている。
アリシア・アディンセル。
愛してやまない、元婚約者。
初めてあったのは、雰囲気の欠片もないが、婚約のための顔合わせの時だった。綺麗な娘だと思ったけれど、心は動かなかった。
人に比べて、感情が薄い方だというのは分かっていた。
怖い、と様々な人に言われた。ぴくりとも笑わない8歳児など怖くて当然だと、成人した今は思う。
だが当時は、それが辛かった。
アリシアに会った時も、怖がられると思っていたのに。彼女は違った。
――誰よりも優しい方ですから。
そう言って微笑んだアリシアの表情が信じられないくらいに綺麗で、愛らしくて、オスカーはあっさりと恋に落ちた。
照れ隠しで顔を逸らしてしまっても、彼女は怒りはしなかった。それどころか、照れ隠しと見抜いて笑った。
俺に、こんなにも激しい感情があるとは、と自嘲する。
婚約破棄が決まった今でも、アリシアが愛しくて堪らない。抱きしめたい。触れたい。そんな衝動とオスカーが日々戦っていることを、アリシアは知らないだろう。
騎士団ではアリシアへの愛を隠さなかった。牽制のつもりだった。オスカーが溺愛している女性に手を出す輩は、この騎士団にはいない。
そんなことをしても意味はない、と分かっていた。
肝心のアリシアの心は、オスカーの方を向いていないのだから。
――私、ずっと、結婚するなら好きな人がいいと思っていたのです。
だから、あなたと婚約なんてしたくなかった。
そんな言葉など聞きたくなくて、オスカーは逃げた。涙を溢れさせる彼女から。彼女の優しさを好意と勘違いして浮かれていた自分から。そう、逃げたのだ。
無表情の子供。怖いと言われ続けた自分。そんな男との婚約を、彼女が心から望んでいるとは思えない。そんな当たり前のことさえ、分からなくなっていたなんて。
どれほど後悔したか。きちんと話し合うべきだった。アリシアと話して、彼女がオスカーとの婚約を望まないのなら、手放すべきだ。
そんなことは分かっていた。
だが、誰にも渡したくない。他の男に抱かれる彼女など想像したくもない。
押し寄せるのは、仄暗い独占欲。
自分の腕の中に囲っておきたい。無理やりでも繋ぎ止めたい。
自分の愛が重すぎることは分かっていた。その愛が、アリシアを幸せにすることができないとも。
だから、冷たく接した。もしアリシアが限界を迎えたら、アリシアから終わりを告げられるように。
アリシアの家は、オスカーの家に比べてずっと位が低い。オスカーがアリシアのことを愛せば、オスカーがアリシアとの婚約を続けたいと意思を示せば、アリシアは決して婚約破棄を言い出せないのだから。
このままではいけない。そう思い続けて、ある日、きちんと手放そうと決めた。アリシアの意思に委ねる、という名目で彼女との婚約破棄から逃げ続けることはやめようと決めた。婚約破棄を言い出そうとした。
そしてわずか数日の差で、アリシアに先をこされた。
あの時のことを思い出すと、今でも心が冷える。
オスカーは、軽く視線を落とした。机の上に置かれたアクセサリーケースが目に入る。
蓋が少しだけ開いたままになっているのが気になって、閉めようと手を伸ばす。
くっと軽く力をかけるものの、蓋は閉まろうとしない。よく見れば、蓋の隙間から金色のチェーンが見えていた。
閉めるだけだ、と言い聞かせて、蓋を開ける。
そこには、ネックレスがひとつだけ入っていた。
見覚えのあるネックレス。婚約した晩に、アリシアに贈ったアリシアの瞳の色のネックレス。
なぜ、これがここに。
アクセサリーケースの中に、たったひとつだけしまわれたアクセサリー。それは、明らかに大切な物をしまっているようで。
宝石の表面に、微かに指紋が残っていた。渡した時に、アリシアがそっと撫でた時と同じように。机の上にあったということは、その指紋がついたのは比較的最近ということで。
アリシアは、このネックレスを喜んでくれていた?
まさか。
すっと顔から血の気が引く。
あの日、あの後続けようとした言葉。
だから、私は嬉しいです。だとしたら?
もしそうなら、自分はどれだけアリシアを傷つけたのだ。なぜそこに思い至らなかったのか。なぜその可能性を切り捨てたのか。
都合の良い妄想かもしれない。だが、確かな証拠らしきものに心が震える。
もし、そうなら。許されることではないけれど、
まだ、間に合うだろうか。
まだ信じられない。だから、これからアリシアに真摯に向き合って、アリシアの表情を見て。
それでも、彼女が自分のことを嫌っていると確信したら、その時は、潔く手放そう。
そう、オスカーは少しだけ浮かれていた。
長年初恋を拗らせてきた相手からの想いのようなものを見つけ、舞い上がっていた。
ネックレスをつけたアリシアを見たい衝動に、駆られてしまったのだ。
オスカーが贈ったネックレス。アリシアがオスカーのものである証。それを身につけたアリシアを。
今、自分の身体はアリシアだ。
ネックレスに手を伸ばした。微かな重みを伝えてくるそれを、そっと首にかける。婚約の時に自然に首にかけるために、金具ではないそれは、不慣れなオスカーでもあっさりとつけることができた。
そう、魔が差した、としか言いようがない。
姿見に向かって歩き出そうとしたオスカーの足を、遠慮がちに叩かれたドアがぴたりと止めた。
心臓が飛び跳ね、激しくなり始める。
「オスカー様。失礼します」
アリシアに声をかけられ、開きかけたドアに焦る。こんな姿を見られたら、一体どう思われるか。
きぃ、と音を立ててドアが半分ほど開いたところで、
オスカーはなりふり構わず胸元を手で押さえた。
手に触れる感触からはできるだけ意識を逸らす。とりあえずネックレスを隠す方が重要だ。
部屋に入ってきたアリシアがオスカーの姿を認め、何かを言おうと口を開きかけたところで、その身体が固まった。
アリシアの視線は、真っ直ぐにオスカーの手元を見つめていた。
アリシアの胸を押さえつけている、その手を。
「……ぁ」
あっという間に、その頬が赤く染まった。
すぐにアリシアは身を翻して部屋に飛び込み、ばたんと勢いよくドアがしまる。
「離してください!」
ドア越しに、悲鳴のような声が響いた。