第7話 嫌いになんて、なれなかった。
「私、ずっと、結婚するなら好きな人がいいと思っていたのです」
恥ずかしくて顔が上げられなくて、アリシアは俯く。緊張からか、ひどく声が震えていた。
「だから、私、その、あの……」
今、すごく幸せなんです。
恥ずかしくて、でも勇気を振り絞ってそう続けようとした瞬間。空気が激しく動いたのが分かった。不意をつかれ、言葉が止まる。
オスカーが、もたれかかっていた壁から身体を起こしていた。その顔は、無表情、だった。
オスカーの表情を見るのに長けたアリシアでも一切の感情が読み取れない、本当の無表情。
ひゅっと喉から息の音が漏れた。心臓が、先程までとは違う音を立て始める。嫌われた。そう思ったらもう駄目で。ふるりと視界が揺れて、涙が零れてしまったのが分かった。
それを見たオスカーは、一言も口を聞かず、アリシアの方を見ようともせず、静かに立ち去っていった。
それで、終わった。
アリシアはオスカーの元に引っ越した。けれど、口を聞く数は今までよりずっと減った。
アリシアの顔を見る度に顔を背ける彼を見て、確信した。
オスカーは、アリシアのことが嫌いなのだ。
今までの優しさは、婚約者への最低限の礼儀のようなものだったのだろう。だが、あの日、それを好意と勘違いしたアリシアが口にしてはならないことを口にしそうになったから。
静かに距離をとったオスカーを、責める気にはならなかった。
でも、好きだったのだ。
嫌われても、無表情で見られても、ほとんど会話が続かなくても。
嫌いになんて、なれなかった。
だから、婚約破棄を決めた。
アリシアより、ずっとオスカーに相応しい人がいると信じて。彼が他の女性に触れる姿など見たくはないけれど、アリシアの元にオスカーを縛り付けるのも間違っていると思った。
婚約破棄が決まって、決定的に2人の関係は壊れたと思ったのに。
――たまにふわりと笑った顔が年相応で可愛いとも言っていたな。
――アディンセル嬢の話をする時だけすげぇ幸せそうな顔すんだよな。
ローレンスやエリックから聞いた言葉は、信じられなくて、まるで勘違いしてしまいそうで。
ぎゅっと手を握る。
「……どうして」
そう呟いた瞬間、勢いよくドアが叩かれた。
「アリシアー? いる?」
その弾むような声に、力がかくんと抜けた。
「マリー。いるわ」
「あれ、アリシア。声が暗いよ?」
「……ごめんなさい、ちょっとね」
アリシアの声を聞いて慌てて部屋に入ってきたマリー。腕に抱えていた様々な魔道具を適当に床に放り投げ、その薄い桃色の髪を揺らしながら、明るく笑った。
「何があったの? 言いたくなければ別に言わなくてもいいけど、聞くよ?」
「……ありがとう」
目の前が滲みそうになって、表情は崩さないまま慌てる。マリーはやはり良い友人だ。一番助けが必要な時に来て、一番嬉しい方法で助けてくれる。
「マリー。その、オスカー様が……」
ゆっくりと、今日あったことを説明する。
今までもマリーに様々なことを相談していたし、マリーはとても信頼できる。婚約破棄のことも事前に話していたほどだ。
アリシアとオスカーの次に、2人のことをよく知る人物だと思う。さらに、貴族ではないため派閥に縛られることもない。相談役としては適任だった。
「私、分からなくて……オスカー様が何を考えているのか」
「……あのバカ騎士っ」
「え?」
マリーの口から出たものにしてはあまりにも汚い言葉に、目を瞬かせる。
「ううん、なんでもない」
そう言うマリーの目は、笑っていなかった。これは相当怒っているときの顔だ、と確信する。
「こういうのは、部外者が言うべきじゃないと思ってたんだけどね……。アリシアは、オスカー様はアリシアのこと、どう思っていると思う?」
「……え?」
「あの惚気聞いて、それでもオスカー様はアリシアのこと嫌いだと思った? こっちでかいつまんで聞いただけで、砂でも吐きそうな甘さなのに?」
「そ……れは」
マリーの瞳は、至って真剣だった。
「あのバカ騎士が散々アリシアのこと無視したって? じゃあアリシアはオスカー様が嫌いだから婚約破棄したの?」
「それは違う!」
思いの外大きな声が出て、アリシアは慌てて声を潜めた。隣には多分、オスカーがいる。客が来るということで、急遽部屋に篭っていて貰うことになったのだ。
「それと同じ。オスカー様にも何か事情があるのかもよ」
「……」
小さく俯くと、見慣れない大きな手が目に入った。マリーの言葉を信じたいけれど、信じて傷つくのも怖かった。
「とりあえず、その惚気を聞いてオスカー様が好いてくれてるかもしれないって思ったんでしょ? だったら、その直感を信じてみれば?」
「……でも」
「傷つくのが怖いって?」
図星を指され、ぎくりと身体が震える。
「これこそ部外者が言いたくないんだけど……大丈夫だよ。私が信じられない?」
「そんなことはない! でもね」
「自分の直感を信じるのが怖いなら、魔術師のマリー様を信じてよ。傷ついたらいつでもおいで。責任取って励ましてあげる」
アリシアはこくりと頷いた。
「ありがとう……。信じて、みる」
「はい俯かない! アリシアの悪い癖だよ」
「そうね、ありがとう」
顔を上げて、マリーと顔を見合わせて、笑う。
明るい気持ちが湧き上がってきて、改めてマリーのありがたさを感じた。
怖い、けれど。
最後に、少しだけ、都合の良いことを信じてみようと思った。