第2話 「その……着替えていいのか?」
「なんでしょう?」
自分自身の声に自分の名前を呼ばれるのは、強烈な違和感がある。
普段はオスカーのそばにいるだけで真っ赤になり、落ち着いて考えを巡らせることができなくなってしまうアリシアも、自分の姿と声を持つオスカーならまだ冷静に話すことができた。
「その……着替えていいのか?」
着替えていいのか。
着替えるということは当然夜着を脱ぐということで、夜着を脱ぐということはその下を見せるということ、で。
「き、着替えないでください!」
「そう言うと思ったから着替えてない。適当に1枚羽織っただけだ。……アリシア」
出てきてほしい、とオスカーは言った。
こんなことがあったから仕方なく呼んでいるのだろうかと思いつつも、懇願するようにアリシアの名を呼ぶ彼に、心の柔らかい部分が優しく刺激される。
好きなのだ。どうしようもないほどに。
完璧な令嬢、たおやかで優美な姫と散々に謳われたはずのアリシアなのに、オスカーの前に立つとあっという間にただのアリシアにされてしまう。
「はい。……申し訳ありません、少しお待ちください。準備をします」
こんな酷い格好で出歩かれるのもオスカーは嫌だろうから、できるだけ目を細めて軽く身を整える。といっても脱ぐことは当然できないので、皺を伸ばして髪を梳くくらいなのだが。
服の間から見え隠れする細身だが筋肉質な身体に、頬はあっという間に赤く染まってしまった。
何も、見なかったことにしよう。
気持ちを切り替えようと、強く頭を振る。普段だったら目の前を踊る長い髪がないだけで、妙に落ち着かない気持ちにさせられる。
まずは、この入れ替わり問題をどうにかすることが先決なのだから。静かに深呼吸をする。
「申し訳ありません、お待たせいたしました」
そう言って歪んだドアから外に出ると、オスカーはドアのそばでアリシアを待っていた。
だがその姿勢が……なんというか、男らしい。当然の話ではあるのだが、伯爵令嬢であるアリシアの姿で壁にもたれ掛かり、足を組むのは、正直やめてほしい。
向こうも同じ気持ちだったようで、その眉が微かにひそめられていた。普段は仕事をしないオスカーの表情筋も、アリシアの身体なら少しは動きやすいらしい。
「……その優雅な所作はどうにかならんか? 自分の身体で美しく動かれると違和感しかない」
「すみません。幼い頃からの癖でどうしようもなくて。できるだけ普通に歩こうとはしているのですが」
「まあ確かに、アリシアの身体でやれば綺麗なんだが、俺の身体だとな……」
落ち着かない、と呟いてその頭を振る。
だが、アリシアはそれどころではなかった。
優雅。美しい。綺麗。怒涛の勢いで叩き込まれた褒め言葉に、意味もなく指先をいじる。きゅっとスカートを握ろうとした手は、虚しく空を切った。
オスカーも冷静なように見えて、実はそうでないのかもしれない。
だが、オスカーが自分のことをそう思ってくれているという事実に、心はふわりと軽くなる。
その間も、2人は黙々と歩を進めていた。食事でも取りながら話そうということらしい。
大股で歩く伯爵令嬢と、たおやかに足を進める騎士。傍からみたらかなり奇妙な光景だと分かっているが、癖になった仕草が抜けないのはどちらも同じだった。
オスカーは、婚約破棄には一切触れようとしなかった。それどころではないのは彼も分かっているのだろう。オスカーの態度は普段と全く変わらなかった。
正直、安堵している自分がいる。永遠に続く訳ではないとは思うけれど、少しでもオスカーの婚約者でいられる期間が長いなら、それは間違いなく嬉しいことだった。
目的の部屋に着き、2人は腰掛ける。なんとも言えない沈黙の後、先に口を開いたのはオスカーだった。
「この後のことなんだが……一体どうする?」
一体どうする。それ以外に言いようがないのは、アリシアも一緒だった。
「どう……しましょう」
途方に暮れ、そのまま言葉を返すことしかできない。
それはオスカーも同じなようで、彼は無言で頭を抱えている。そんな風にオスカーが感情を分かりやすく出すのはひどく珍しいことで、彼も途方に暮れていることがよく分かった。
「とりあえず……しばらく、お茶会やお仕事は欠席するしかないかと思います。同じ家に暮らしていますし、2人で風邪になってもそこまで怪しまれないのではないでしょうか」
仮病を使う、と暗にほのめかすアリシアに、オスカーは無言で頷く。
「説明したところで信じてもらえるとは思えない。その方が良いだろうな」
「それではまずこの家の皆さんに事情を説明して連絡してもらいましょうか。私たち自身で連絡したら間違いなく怪しまれますから……」
「そうだな」
そこから、集めた執事に侍女、料理長と使用人たちに納得してもらうまで、数刻を要した。何度目かになるその説明を終えるころには、アリシアもオスカーも疲れきっていた。
「これで事情説明は終わりましたが、私たちの間ではどうしましょうね……」
「というと?」
「いや、その……着替えとか、お風呂とか、ですが」
その瞬間オスカーはうっと言葉につまり、諦めたように宙を仰いだ。
「……ああ、それも考えないといけないな」
「その、お風呂はしばらく浄化魔法でなんとかしましょう。少し気持ち悪いですが仕方ありません」
「それしかないか。着替えは……目隠しか」
「はい、同じことを考えていました。目隠しをして侍女の方に着替えさせてもらうしかなさそうです。あと……」
そこてアリシアは言葉に詰まる。もうひとつ、確認しておきたい重要な事があったものの、婚約者の前で堂々と口にするには躊躇われる単語だったためだ。
口ごもり、困ったように視線をさまよわせるアリシアを見て、オスカーはひとつ頷く。
「大丈夫だ、察した」