第16話 どうにでもなれ。
「あの、オスカー様」
なぜかぐったりと疲れた様子で帰ってきたオスカーに、アリシアは声をかけた。
「なんだ?」
相変わらずの無表情だけれど、物腰が少しだけ柔らかくなったのが分かる。それが、嬉しくて。
アリシアは、震える手を握りしめた。緊張しているのがオスカーに伝わってしまうだろうか。
考えるのは、ひとつだけ。
――何とかして、甘い雰囲気に……。
まずは、この前のように、2人きりの状況を作るべきだ。でも、今すぐは心の準備ができていない。
だから、アリシアは。
「その、今夜、私の部屋に来てもらえませんか……?」
ぴしり、と音がしそうなほど完全に、オスカーが固まった。その顔が、一瞬にして赤く染まっていく。これほどオスカーに衝撃を与えるとは思っていなくて、アリシアは内心首を傾げた。
あらぬ方向を向いたオスカーが、恐る恐ると言うように聞く。
「……その、アリシア、いいのか?」
やはり、オスカーは拒否されたと思っていたようだ。ここで肯定しなければ、マリーが言ったようにオスカーは二度とアリシアに手を出してはくれないだろう。
そうなったら、あからさまにアリシアから頼むしかなくなる。その方がよっぽど恥ずかしい。
だからアリシアは、恥ずかしさを堪えて囁く。
「……はい。オスカー様なら、私は」
それを聞くや、オスカーは両手で顔を覆ってしまった。隠せていない耳が、赤い。
ふっとアリシアは微笑んだ。オスカーのそんな反応が嬉しくて。
「それでは、お待ちしています」
ふわりと浮き立つ心のまま、アリシアはその場を立ち去った。
後には、頭を抱えるオスカーだけが残された。
◇
オスカーは、アリシアの部屋のドアの前で途方にくれていた。
アリシアに、その気があるのかないのか。それが、問題である。
アリシアはかなり鈍感だ。そして恥ずかしがり屋だ。自分から誘えるとも思えない。ただオスカーと話したくて呼んだだけという可能性は十分ありうる。
だが、頬を染めて囁いた時の表情は、ただ話したいだけのものとは全く思えなかった。匂い立つような色気を漂わせるあの表情。清廉な美しさを持つアリシアだから、今までに見た事がないような表情だった。
もうひとつ問題がある。
アリシアがその気ではなかったとして、オスカーが何もせずにいられるのか。
正直、誘われたと思ったときはまずかった。かなり、危なかった。
オスカーは、ぐっと目を閉じる。
もういい。どうにでもなれ。
半ばやけくそになって、オスカーはアリシアの部屋のドアを叩いた。
◇
アリシアは、自分の部屋のドアの前で途方にくれていた。
オスカーの、気配を感じるのだ。
来てほしいと言って、夜になった。来るのが待ちきれなくて、ドアの近くに待機した。
そして、その気配に気がついた。
オスカーはまだ入ってくる様子がない。なぜか。実は嫌だったのか。
そこまで考えて、アリシアの頭にひとつの可能性が浮かんだ。
――その、アリシア、いいのか?
躊躇いがちに聞いたオスカーの反応は、いくらなんでも激しすぎると思っていた。
まさか。
誘われた、と思われた?
冷静になって考えれば、非常に語弊のある表現だ。というか、語弊しかない。夜に部屋に誘うなんて、普通はもうそういう意味しかないわけで。
かぁ、とアリシアの頬が一気に熱くなる。
……まさか、オスカー様、そのつもりで。
妙に念入りに身体を洗われたと思った。あの時のやりとりを使用人も聞いていたのだから、オスカーと密着しても大丈夫なように配慮してくれたのだと思ったのだが。
ま、さか。
アリシアが動揺して意味もなく手を握りしめていると、目の前のドアが叩かれた。
びくりと、過剰に身体を震わせる。どうしてこんなことに、と思うけれど、どう考えてもアリシアの自業自得だ。
「……はい」
ドアを開けてふわりと微笑めば、オスカーも微かに笑い返してくれた。ふっと身体の力が抜ける。
もう、どうにでもなれ。
そんな気持ちとともに、アリシアはオスカーを部屋に通した。
そして、数時間が立った。
……ならない、甘い雰囲気。
微妙な沈黙を何とかしようと、チェスを始めたのがまずかった。アリシアとオスカーの実力は拮抗していて、正直ものすごく楽しかった。
当初の目的を忘れて数戦し、一区切りついて我に帰った時には相当の時間が経っていた。
どうしよう、と顔を上げると、オスカーとぴたりと目が合った。
どきり、と心臓が震えた。躊躇う間はなかった。
アリシアは、そのままゆっくりと目を閉じた。
はっと、オスカーが息を飲む気配が伝わってくる。唐突に部屋に響いた、がたん、というのはなんの音だろうか。
するりと、アリシアの頬をオスカーの指先が撫でたのが感覚で分かった。触れられた場所が燃えるように熱い。温かい風が頬にかかり、すぐ間近にオスカーの顔があることを悟った。
そして、柔らかいものが、唇に触れた。
あ、と思うまもなく、もう一度口付けられる。オスカーの手がアリシアの髪の中に潜り込み、首筋を優しく撫で上げた。
ぞわり、と身体に震えが走る。
もう一度。
恥ずかしくて、でも心地よくて幸せで。
ふるふると震えるしかないアリシアは、目をつぶったまま手を伸ばし、オスカーにしがみつく。
かちゃん、と、机の上のチェスの駒が床に落ちる音がした。
もう一度。どんどん深くなる口付けに、ふわふわとした心地にさせられる。するりと腰を撫でられ、抑えようもなく身体が疼いた。
「……アリシア。綺麗だ」
合間に囁かれ、アリシアはぎゅっと目を閉じる。
「オスカー、さま」
途切れ途切れに囁いた声は、届いただろうか。
ぎゅっと折れそうな力で抱きしめられ、アリシアはふっと身体の力を抜いた。




