第10話 その顔から、目が離せない。
アリシアは部屋を飛び出した。
慌てて辺りを見渡し、オスカーの姿を探す。その瞬間、オスカーの部屋のドアが凄まじい音を立てて開いた。
真っ直ぐに、目が合う。
「……アリシア」
そう言ったきり、オスカーは固まる。すぐに目を背けた彼の耳がじんわりと赤く染まっているのを目にして、落ち着かなくなりそっと下を向いた。
瞬間、目に飛び込んでくるのは自分の肌。
つまり、アリシアは、髪も乱れ、夜着のままで、しかもその夜着も肩から落ちかけているという状態で、なんともはしたない格好なわけで、
「ごめんなさい!」
一言叫んで、アリシアは部屋に飛び込んだ。
着替え、身支度を整えたはいいものの、アリシアは部屋のドアの前で固まっていた。
どんな顔をしてオスカーに会えばいいか分からない。それに、
身体が戻った今、婚約破棄の保留はなくなったわけで。
暗い方に沈みかける思考を、首を振って追い払う。
信じると決めた。まだ見極められていない。
とん、と目の前のドアが叩かれた。
「アリシア?」
遠慮がちなオスカーの声。オスカーを待たせていたことに遅ればせながら気が付き、慌てて部屋の外に出た。
「すみません。お見苦しいところを……」
視線を合わせられず、アリシアはあらぬ方向を向く。
「……いや、俺は綺麗だと思った」
唐突に言い放たれた言葉に、ぴたりと身体が固まる。
綺麗。何が?
アリシアが。
「あ、ありがとう……ございま、す」
この変わりようはなんなのか。少し前までろくに言葉を交わさなかったのに。
――所作がたおやかで美しく花のようだって。
唐突にあの時の言葉が蘇る。もしかしたら、オスカーの本当の姿はこっちの方なのでは、と考えてアリシアは俯いた。
かぁ、と頬が熱くなる。
「行くぞ」
そう言ってアリシアをエスコートしながら歩き始めるオスカー。いつの間にか朝食も終わり、気がつけばアリシアは馬車に揺られていた。
馬車の中は狭い。そして2人きり。
恥ずかしくて、でも幸せで、もじもじと手を握り合わせた。
怒涛の出発に、婚約破棄のことを持ち出す余裕もない。かたかたと規則正しい揺れに身を任せながら、アリシアは半分呆然としていた。
すっと腰に手を回され、弾かれたように顔を上げる。硬い手の感触が、鼓動をどんどん速めていく。
「……馬車は揺れる」
そう一言だけ言って、ぐっと身体を引き寄せられた。伝わってくる熱に、硬い感触に、頭が真っ白になる。
本当に何なのだ。この変わりようは。身体が入れ替わったことと関係があるのだろうか。
さらに引き寄せられて、アリシアの身体とオスカーの身体はぴったりと密着した。至近距離で鼻腔をくすぐるオスカーの香りに、頭は沸騰寸前だった。
言葉が少ない。それは前と変わらない。
でも、馬車での旅の間、オスカーはアリシアに触れ続けた。髪の毛を梳き、頭に頬を擦り寄せ、優しく腰を撫でる。剣を握る無骨な指先がそっとアリシアの頬を滑り、びくりと身体を震えた。
なんで、こんなの。
まるで愛し合っている恋人同士のような。
期待しても、良いのだろうか。オスカーも、アリシアのことを想ってくれていると。
――オスカー様にも何か事情があるのかもよ。
もしそうなら。本当にそうなら。
それは、どんなにか幸せなことだろう。
心臓に悪い馬車の旅はあっという間に終わり、馬車は湖畔の別荘にたどり着いた。まるでそうするのが当然のことのように、オスカーはアリシアの手を取り、馬車から降りる。
そのまま別荘に入るのかと思ったが、オスカーの目的地は違うようだった。迷いのない足取りで進む彼に寄り添い、歩く。
「あの、オスカー様。どこへ向かっているのですか?」
「……ああ、せっかくの景色だし天気も良いから、外で昼食でもどうかと思って。いいか?」
「はい」
少しだけ弾んでしまった声は、分かってしまっただろうか。
たどり着いたのは、小さな東屋だった。ちょうど、2人が初めてお茶をした場所のような。
湖のほとりに立つその東屋には、もう昼食の準備がされていて、誰の姿も見えなかった。
オスカーに促され、用意されていた椅子に座る。そこからは、美しい湖が一望できた。
「綺麗……」
景色に見とれるアリシアだったが、ふと視線を感じて振り返る。
オスカーが、真っ直ぐにアリシアを見つめていた。その眼差しは柔らかく、普段纏っている冷徹な雰囲気はかなり薄まっていた。
「オスカー様?」
ふっと、オスカーが笑った。
ほんの少しだけ口角が持ち上がる、あの笑い方。
「オスカー様……」
アリシア、とオスカーは名前を呼んだ。歌うように、間違えようもなく甘い声で。
心臓がうるさい。頬が熱い。
その顔から、目が離せない。
「アリシア……」
伸びてきたオスカーの腕が、いつの間にか立ち上がっていたアリシアを抱き寄せた。アリシアよりずっと身長の高い彼に抱きしめられると、身体がすっぽりと包まれているような気分になる。
どくどくとなる心臓の音は、きっとオスカーにも伝わってしまっている。
そっと頭を撫でられた。さらさらと髪を梳き、耳朶を指先がくすぐる。
アリシア、と呟く声は甘く溶けていて。
ふいに、顔が持ち上げられた。間近にこちらを見下ろす黒曜石の瞳と目が合って。オスカーは囁く。
「……婚約破棄だが」
「はい」
びくりと身体が震えた。一気に固くなったアリシアの身体を安心させるように、オスカーがアリシアの背を撫でる。
「俺は、なかったことにしたい」




