第1話 「……婚約破棄してください」
「それで、オスカー? 愛しの婚約者殿には会わせてくれんのか?」
「そうだ、堅物無表情女嫌いのお前が天使だ女神だと騒ぐアディンセル嬢だぞ。俺も見たい」
……え?
アリシア・アディンセルは心底驚いて、ぴたりとその動きを止める。
その瞬間、んぐっと喉から奇妙な音を立てて吹き出す金髪の彼。婚約者であるオスカーに聞いた話によると、彼はオスカーの同僚の騎士でエリックと言い、付き合いの長い友人らしい。
「オ、オスカー、お前がそんな感情を表に出すの初めて見たんだが。アディンセル嬢のこと、どんだけ好きなんだよ」
「……は?」
アリシアが精一杯、婚約者であるオスカーの無表情を真似すると、ベッドに腰掛けていた赤髪の彼が顔を片手で覆って肩を震わせる。確か、彼はローレンスという名だったはずだ。
「そんなに怒るな。嫉妬は醜いぞ」
笑い混じりの声で言われるが、自らの耳で聞いたことが全く信じられない。婚約者でありながらオスカーとの仲は冷えきっていて、甘い言葉を交わすどころか最近ではまともに会話もしていないのに。
幼い頃から決められた政略結婚だったのだから、仕方がないと言えば仕方がない。
「悪かったって。絶対手は出さないから、見せてよ、天使」
寸分の狂いもなく整った顔を期待に輝かせ、エリックがアリシアの方に身を乗り出す。その圧力から逃れるように、背中をベッドに押し付けた。ひきつりそうな頬を、必死で抑え込む。
どうしてこのような状況に陥っているのか。理由は簡単である。
朝起きたら、アリシアとオスカーの身体が入れ替わっていた、からだ。
話は数日前に遡る。
◇
真っ直ぐに射し込む朝日に、アリシアは目を覚ました。眠くてたまらなく、もう一度眠ってしまいたい欲望が襲ってくる。柔らかく良い匂いのするシーツがアリシアを捉えて離さない。
さすがにこのままでは寝坊すると、ぐっと強く目を瞑って、身体を起こそうとして。
違和感を覚えた。
なんとも表現出来ないが、例えるならば肌が広がったような。服の擦れる感触が伝わってくる範囲がとても広いというか。
「ぅ……ん」
それが、自分の口から出た声だと気がつくのに少し時間がかかった。朝の静謐な空気を震わせる声は、耳に心地よく響く艶めいた低音。
アリシアの声は女性にしては低めだとはいえ、いくらなんでも低すぎる。例えるならば、婚約者のオスカーのような――。
そこまで考えて、アリシアは大きく目を見開いて勢いよく起き上がる。跳ね除けられた布団が、ぱさりと情けない音を立てた。眠気など一瞬でどこかに消えていた。
視界に入るのは、見慣れない部屋。センスと高級感が溢れる、ダーク系で統一された落ち着いた部屋。見慣れない、ベッドシーツ。そして、
筋肉質で引き締まった、自分の足。
そろそろとその足に手を伸ばし、そっと触れる。
触れられた感触はあるのに、それは固く引き締まっていて、触れた手を跳ね返してくる。伯爵令嬢であるアリシアの肌とは似ても似つかない感触だ。
「な……んで」
思わず漏れた声も、低くて心地良い、オスカーの声そのもので。
まさか、と思いながら部屋の姿見に目を向ける。
そこで、かつてないほどに表情豊かな顔で見返していたのは、紛れもなくオスカーだった。
「う……わ」
身なりに構う余裕もなく、ベッドから勢いよく飛び降りる。慣れない身体にずるりと足を滑らせかけたが、心臓がふわりと浮く一瞬の心地とともに立て直した。ドアを叩きつけるように開けて廊下に飛び出す。
その瞬間、どかん、ともどごん、ともつかない不吉な音が後ろで聞こえて、アリシアは恐る恐る振り返る。視界に飛び込んできたのは、どこからどう見ても完膚なきまでに歪んだ、オスカーの私室のドアだった。重厚感のあるドアは、今は断末魔の悲鳴とともにその身体を波打たせている。
オスカーは騎士だ。しかも将来有望な。
つまり、力の強さはアリシアとは比べ物にならないわけで。
「オスカー様?!」
先程の凄まじい音を聞きつけたのだろう、執事のロジャーが慌ててこちらに向かってくるのが見える。オスカーが子供の頃から世話になっているというロジャーの、冷静沈着な彼らしくなく乱れた足音に、異常事態を再認識させられる。
逃げるべきか立ち止まって誤魔化すべきか逡巡している間に、ロジャーはあっさりとアリシアの元に到着してしまう。
「オスカー様、どうしました? ……その格好は、どうされたのですか?」
「え……あ、ん……」
どう答えるべきか分からず、口ごもるアリシアを見たロジャーは、唐突に眼鏡を外した。そのまま上着のポケットからハンカチを取り出し、丁寧に拭う。彼の行動の意味が分からない。あっけに取られてロジャーを見つめるしかなかった。
眼鏡をかけ直した彼は、まじまじとアリシアを見つめる。
「オスカー様に表情が……そんなまさか……オスカー様、あなたは本当にオスカー様ですよね?」
やや迷ったものの、素直に答えることにする。彼も冗談で言ったのだと思うが、演じきれる気はしなかった。
「信じていただけないかもしれませんが、私はアリシアです」
「いや、オスカー様、冗談にしてもそれは……」
胡乱な瞳を向けてくる彼を、必死に見つめる。ここで信じてもらえなければ、どうしようもない。
その瞬間、隣のドアがゆっくりと開いた。半分ほどが空き、そこで止まる。その隙間から慌てて飛び出してきたのは、見間違いようもないほどに見慣れた顔、アリシアそのものだった。
「ロジャー?! ……それに、俺?」
「オスカー様……なのですよね?」
恐る恐る問えば、アリシア……ではなくオスカーが頷く。
その顔はアリシアのものであるのだが、自分でも見たことのないほどの無表情だ。いつもは淑女らしくあろうと柔らかな笑みを浮かべている唇は、真一文字に結ばれている。
その姿を見た瞬間にぴたりと身体の動きが止まる。アリシア……というかオスカーは、寝乱れて所々に肌色が覗く夜着を纏っていて、髪の毛は寝癖もそのままに乱れている。そんなはしたない姿を婚約者が見ていることに気がついたアリシアは、
「なんて格好で出歩いてるのですか?! 着替えてください!」
一言叫ぶや、一瞬で朱に染まった頬を隠すために、自分で歪めたドアの隙間から部屋に飛び込んだ。すぐに、布団の中に顔を埋める。淑女らしくない振る舞いに後悔するが、もう遅い。
「うっ……」
2人で婚約破棄を決めた夜から、ずっと見てもいなかったオスカーの姿に、胸が痛いほどに強く締め付けられる。恥ずかしくて、しかしそれだけでもなくて、訳もなく涙が溢れそうだった。
オスカーの姿を見るたび、わかりやすく熱くなる頬、訳もなく早まる動悸。その理由はずっと前から分かっていた。
オスカーが好きだ。初めて会った、幼い頃から。オスカーがそばにいるというだけで、頬は赤く染まり、まともに言葉も紡げなくなる。
だが、正式に婚約してから、オスカーがアリシアに笑いかけたことはなかった。愛の言葉とまで期待はしないが、話しかけても一言二言の返事で会話が終わってしまう。
嫌われているという確信を抱くのに、さほど時間はかからなかった。
嫌いな自分と結婚するより、他の素敵な令嬢と結婚した方がオスカーはずっと幸せになれる。そう信じて、婚約破棄を申し出た。
迷いに迷った。そんな心は捨てて、オスカーの妻の座に座ってしまえばいいかとも思った。
でもきっと、妻としてそばにおきながらも決してアリシアのことを見ないオスカーに、アリシアが耐えられない。彼のため、なんて言い訳をしながら、結局は自分のためなのかもしれない。
その思いに蓋をするように、自らの手を白くなるほどに握りしめた。
「……婚約破棄してください」
久しぶりに向かい合い、暖炉がぱちぱちと小さな音を立てる部屋で、静かにそう言ったアリシアに、オスカーは正式に婚約して初めて表情を崩した。目を見開き、唇を噛み締め、またいつもの無表情に戻って。
ただ、頷いた。
それだけだった。それだけで、アリシアとオスカーの15年間は終わった。
空気が澄み渡った、美しい月夜の日だった。
そして、婚約破棄を正式に神殿に申し出るのが、今日の予定だったのだ。
しかし、こうなった……にわかには信じ難いが、オスカーとアリシアの身体が入れ替わった以上、婚約破棄どころではなくなるのは目に見えている。
どうしよう、と頭を抱えたところで、遠慮がちに部屋のドアが叩かれる。
「……アリシア?」
ドア越しに声をかけてきたのは、アリシアの声……つまり、オスカーだった。
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