そして彼らはその場所へ
夕方にもなれば、日中騒がしかったアブラゼミなどは鳴りを潜め、今は悲しげなヒグラシの声だけが響いている。空はトキ色に染まり、夜の帳が訪れようとしていた。
ちょうど校舎口が西に向いているせいで校舎を出ると西日が眩しい。目が眩んでしまう。
咄嗟に目線を落とすと既に自分の役目を終えた蝉が誰にも気にされることなく横たわっている。これからその体は様々な生き物の糧となり、本当に誰の記憶にも残らなくなるだろう。
それは少し悲しい。
光に慣れてきて空を見やれば、カラスの集団が自らの巣にでも帰るのかみんな一様にどこかに向かって飛んでゆく。聞こえてくるその鳴き声はまるで仲間に別れの挨拶をしているように寂しくも思えた。
「そう言えば、今度Maker'sが久々にライブするらしいぜ」
「あ、知ってる! もう、ほんっと嬉しい!!」
少し先を歩く健二と美枝がすっかり仲直りしてそんな話題を語り合っている。
Maker'sとはハヤトたちの間で流行っているバンドの名である。その独特で清涼な音楽に三人共魅了されて、初めてその曲を聴いて以来三人の話題から消えたことはない。それだけ心に残る演奏だった。
そして最近はなかなかライブがなかったが、やっと次のライブが決まったのである。
因みにライブといってもMaker'sはずっと横浜駅で路上ライブをしていてそろそろデビューしてもいい実力なのに声が掛からないバンドだったりする。しかもCDも一度きりしか販売されず、本人たちもデビューしようという気さえないようにも思われる。
あまりにももったいない。
「ハヤトも行くよな?」
「ああ、もちろん。あ、でも小遣い足りるかな?」
「CDか? そん時は俺が奢ってやるよ」
「じゃあ、頼んだ」
CDが販売される可能性は低いが、もしもその時にお金がなかったら買おうにも買えなくなってしまう。でも実際のところは父にでも頼んでお小遣いを前倒しにしてもらうとかするだろうけど、話の流れに合わせて言ってみた。
それでも本当に最近小遣いの貯蓄が足りないからそろそろ見直さないと。
逆に健二がお金がないのならこちらが出してやろう。
会話は比較的近い最寄り駅までの道中尽きることなく続いた。それはホームに上がってからも続き、電車がやってくるまで他愛のない話に花を咲かせたのだった。
因みに既に横浜駅は使えるようになっているらしい。意外と小さな暴動だったようだ。
「でもさぁ、やっぱり修学旅行は海外が一番だと思うんだよ。沖縄は流石にないって」
「いやいや。健二、お前はもう少し社会を学ぶべきだぞ? 色々勉強になるんだから」
「そうよ。勉強は楽しいわよ?」
「いや、全然分からないわ。そういうの」
健二はやれやれと言った感じで肩を竦める。
彼の将来の夢は料理店のシェフになって自分の店を開くことだ。だから学校の勉強はあまり重要視していない。
その代わりに自分で料理の勉強をしていて、前に調理実習で食べた彼の料理は確かに美味しかった。しかも味を一定にしながら何度も作れるから本当に凄いと思える。たまにハヤトも夕飯を作るがどうしても一定の味付けにはならない。
健二が店を持った時は美枝と一緒に食べに行こう。
そんなこんなで会話していると軽快な音楽が流れ、駅に電車が滑り込んできた。
「じゃあ、明日な」
「またね、ハヤト」
「ああ、じゃあな」
ハヤトと、美枝と健二は逆方向の通学路だ。だからここで二人とはお別れ。横浜駅方面の電車はやはり混んでいる。それで横浜駅にこれから降りなければならないのだから座れそうにない。少しげんなりしてしまう。
ハヤトが狭苦しい車内に乗り込み、振り返ると向かいのホームにやってきた電車から美枝が手を振ってくれていた。それにハヤトも手を振って答える。けれど、それは短い間の時間だけで電車が走り始めると直ぐに互いが見えなくなってしまった。
「《アサヒ》。会社に着くのは何時くらいだ?」
父には8時に来なさいと言われていたが、今は17時30分頃。どう考えても早く着いてしまう。
そう思って確かめるために聞いてみたのだが、返事は返ってこない。
「……?」
少し待ってみても返事はない。訝しんでメガネ端末を胸ポケットから取り出してみる。充電は十分、電源はオン。マイク機能でも壊れたのだろうか?
端末を掛けて《アサヒ》を探す。探すと行ってもどっかそこらに隠れるなんてしないだろうけど。
「おーい。聞こえてるか?」
もう一度呼びかければひょこっと彼女が画面の端に現れた。
『今漫画読んでるんで、後にしてもらえますか?』
「漫画って、お前……」
人工知能が何をやっているのだ。漫画なんて読んで楽しいのだろうか。感情を持っているように見えても彼女はそれを演じているだけ。どんなに笑っても怒っても本当はどこまでも論理的に動いていて、悪い言い方をすればなんとも思っていない。
それが人工知能というモノだ。
しかも彼女のスペックからして漫画を読むなんて一瞬のことだろうに。
そもそもどういう理由で漫画を読むことになったのやら。
『少しは自分で考えるってことをしてください。そんなんだから最近の少年少女は、受動的だの、意志がないだの、依存症などと言われるんですよ』
なるほど。彼女が意図していることが分かった気がする。つまりは頻繁に《アサヒ》に頼る自分を見直して自律しろと言っているのだろう。今回はその意図を直に教えてくれたから自覚できた。今度から気をつけよう。
考えることを止めた人間はただの動物と同じだし。
「分かった。じゃあ、漫画読んでていいぞ」
「はい! 今度その漫画推薦しときますね!」
そう言うと《アサヒ》は姿を消してしまった。どうやら本当に漫画を読んでいたらしい。きっとその中にはハヤトが知るべき知識か教養でも語られているのだろう。
ハヤトは色々と彼女の言動が自分の行動や性格を形作っているようで、どこか得体の知れない畏怖を彼女に覚えた。だが、本当に彼女がハヤトのために動いているのは分かっているので気にしないことにした。
考えても仕方ないことだし。
とりあえず今はネットで検索して予想到達時間を検索してみる。一応頭の中でも計算してその結果と比較するという感じで。
予定として、父の会社に向かうには早すぎるので一度帰宅して早めの夕食を食べてから向かうことにした。学校から家に行って父の会社に行くまで1時間と30分。今は17時半なので諸々の準備も合わせると20時前には着けるはずだ。ネットで調べた結果を見ても頭の中の計算とほとんど一緒だった。
それでも万が一また電車が遅れれば間に合わない。だから、少し早めに着いてしまうとしても家をできるだけ早く出ることにする。そのために家でやることも頭の中でシミュレートする。
夕陽がビルの影に隠れて少し暗くなった。
†
これくらいの季節にもなると日没もだいぶ遅くなる。時計の短針が7を示し始めてようやく陽の光が消えようとしていた。地上には影が差し、街は夜に備えるべく電灯に光を灯す。それは段々と広がっていき、徐々に夜の横浜が姿を現した。
しかしこのビルディングの上部には未だに陽の光が射し込み、そこから眺める地上は、砂色の明るい空と相まってひどく暗いものに思われた。
だから少し、その光景を眺めていた少女は不安にかられる。
それでもこれからのことに、期待に胸を膨らませていた。心躍るような嬉しさに自然と鼻歌が零れ落ちる。
歌っているそれは気に入っている曲で、初めて聞かせてもらった時はその清涼さに感動したものだ。
いつかは彼にも聞いてほしい。
というか聞いてもらおう。
ほんとに綺麗だったから。
後ろに気配を感じて振り返ると彼女の生みの親である父がそこにいた。彼はいつも会社にいる時はなぜか白衣を常に着用している。
まるでアニメか何かで出てくる狂科学者の模範のようだ。しかも彼の考え方も普通と違っていてたまに何を言っているのか分からなくなることがある。
けれど実際は優しくて困ったことがあったりしたら何でも助けてくれた。もちろん全て任せっきりというわけではないけど、いつも頼りにしている。
6年前も、父のおかげで今の私がいるのだから。
私は父が大好きだ。
「もう6年か……。長いようで短かったな」
父が感慨深げにそんなことを言う。横浜の街を見下ろす彼はどこか哀愁を漂わせていた。
少女はその白衣の袖口を抓んで父を見上げる。
「不安か?」
上から父の優しげな言葉が降ってくる。
言われて初めて気づいた。父の袖口を抓んだ手が若干震えている。
私は、怖がっている?
何に?
わかりきっている。これから逢う彼のことに、少し不安を覚えているのだ。
ちゃんと私のことを忘れてくれているだろうか。
本当に逢っても、大丈夫だろうか。
それで彼に何かあったらと思うと、怖くて堪らない。
でもきっと父が大丈夫だと言うのなら、大丈夫なのだろう。
「大丈夫。信じる。……信じることにしたから」
「そうか」
眼下の街を眺めていると段々と夜の陰が下から迫り。ついには少女たちがいる場所も光が射し込まなくなった。前面に受けていた光は消え失せて、背後の有機照明の光だけが明るい。
そのせいでガラスに自分の顔が映って、少女は苦笑する。信じると言ってもやはり不安でその感情が丸出しだった。
でも、信じるより他に道はない。
そろそろ彼に逢うために下の階に行かなければならない。そんな時間だった。
一度自分の気持ちを落ち着かせるように息を吐く。
父にもそれとなく促したが、なぜか父は動こうとしなかった。
じっと街を眺めて何かを考えている。ここではない、どこか遠くを見ているようで、どこか悲しげだ。
時々そういうことがあって話しかけても良いのか分からなくなる時がある。それが今、顕著に現れていて言い表し難い不安にかられた。
父は何か隠しているのではなかろうか。
何をそんなに悲しそうに考えているのだろう。
父は今、何を思っているのだろう。
それを理解できないことがもどかしくて、少し寂しい。
力に、なりたい。
「お父さん。私――――」
少女の言葉は唐突に鳴り響いたサイレンの音で掻き消された。今まで聞いたことがないほど大きな音に少女は肩を縮こませて父の腕を掴む。
突然過ぎて声も出ない。混乱してどうしたら良いのかも分からない。
「お父さん!?」
父を見て、彼が片手で頭を押さえて何か苦しんでいるのが分かった。まるで酷い頭痛に堪えているかのように。
このサイレンと同時に父が苦しんだために少女はもはや恐慌状態になりかけた。
何が起きているのか。理解が出来ない。
父は、大丈夫なのか。
嫌なことが、最悪のことが脳裏を過る。
そして思い浮かべたのは、6年前のあの日。もうやり直せない、一度は失ってしまったあの時間。
私のせいで死んじゃった。
また、死ぬ?
誰が?
いやだ。
いやだいやだいやだいやだいやだ―――――……!!
誰にも死んでほしくない!!
「しっかりしろっ」
父に両肩をがっしり掴まれ、揺さぶられたことにより少女は我に返った。
父が少女の瞳をまっすぐ見つめて、サイレンの音に負けないように声を張り上げる。その額には汗が浮かんでいた。
「落ち着け! 今は下に避難するんだ!」
「お父さんは!?」
「後で行く!」
それでも少女は動けなかった。本当にそれで良いのか。ここで父と一緒に逃げた方がずっと良いように思えた。
それに今は離れたくない!
怖い。
不安で仕方ない!
「早く!」
「ぃやっ! お父さんも一緒にっ……!」
少女は白衣を掴んで身体を押し付けて縋るように父に懇願する。ここで今何が起きているのか、少女には分からない。
けれどもし危険なことなら意地でもここから離れるつもりは更々なかった。
後悔だけはしたくない。
すると頭の上に暖かな温もりが伝わってきた。それが父の手の温かさだと気づいて顔を上げる。
「大丈夫だ。必ず帰る。だからお前は守ってやってくれ」
誰を、なんて聞く必要はなかった。そんなの決まっている。
しかし少女は逡巡した。確かに彼を守らないといけないのは分かる。それでもだからといって父が心配で離れ難いのだ。
だが、少女はこうも思った。
ここでグダグダ動かないことは父を信じないことになるのではないか、と。
だから意を決して父をまっすぐ見つめ返した。
「……分かった。でも、必ず戻ってきて」
「ああ、また逢えるさ」
一度、少女は額を父の胸に押し当てて別れを惜しんだ。父も抱き返してくれる。
父は約束を破ったことはない。いつも優しくしてくれて、色々なことを教えてくれた。時に厳しいけれど、それが子供を思ってのことだということは伝わるし、なにより家族のためにたくさん努力していることを知っている。
だから、父を信じる。
「後でね」
「またな」
少女は下の階に降りるために駆け出す。
振り返ることはなかった。信じるのであれば、それを態度に表さないといけない。振り返るのは信じているとは言い難いと思うから。
†
少女を見送る父親は、その姿が見えなくなるまで見送り、一言呟いた。
「行ってしまったな。…………うん」
それを聞く者は誰もいなかった。
一体何が起きる――?
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