警戒
家に帰ってきたハヤトは家の中に満たされた冷気に身を包まれて幸福感を味わっていた。両手を広げ、普段は通気の悪い脇の下などにも冷気が送られるように心がける。ついでに自分の分のミルクオレンジ寒天アイスを頬張って体内からも冷やそうと試みる。そうすれば外に出て体温が上がっていた胴体と四肢がだんだんと冷えていくのが感じられた。
それらが本当に心地好い。
やっぱり家はいいなぁ……。
そんな引き篭もりになりそうなことを思っていると、唐突に後ろから思いっきり抱きつかれた。
しかし。
「ただいまぁ――っ!そしておかえりぃ――っ」
「ぐっ!?……く、苦し……ッ」
い、痛い!?
苦しい……っ!
え?
力……おかしいだろ……っ!
「あ、ごめーん」
息が詰まりそうな――実際止まっていた――ほど強く首を締められて目を白黒させていたら軽い感じで謝ってきて、しかしその抱きついてきた本人はあまり詫びれた様子もなく身を離した。
振り返って非難めいた目を向けると案の定そこには燃えるような紅色の髪をした少女、ハルカが今日も楽しそうに立っていた。満面の笑みで本当に詫びれているようには見えない。
こっちは一瞬死を覚悟したと言うのに。
「あのさぁ、いつも言ってるだろ?抱きつくなって。毎回冥界が見えそうなんだけど……」
「ああっ!ハヤトが厨二病を患った!」
「ちっがーう!」
ハルカのおちょくりに思わずハヤトは叫んでいた。
ハルカは何かあると必ず抱きついてくる。家族に限定されるが、嬉しいことがあったり、ただの挨拶だったりと手近なヒトに抱きつくのだ。お前は欧米人か、と突っ込みたくなる。いや、本当にハルカにパーソナルスペースがあるのか疑問に思ってしまう。しかし彼女なりの愛情表現なので強く言えないのだが。
ただ、そこまでは少し恥ずかしいくらいで許せる。しかし彼女の腕力が問題だ。彼女の筋力はその細い四肢からは想像も出来ない怪力を秘めており、抱きつかれる度に内蔵が圧迫され、骨が軋み、血流が滞り、あらゆる管が締められるのだ。下手したら脳に酸素が送られなくなって脳死になってしまう。
世の中には首を締めて遊んでいたら――チョーキング・ゲーム、若しくは失神ゲームで――本当に脳死や死亡事故になってしまった悲劇が沢山あるのだ。死なないからと言って首絞めを甘く見てはならない。
「本当に死ぬからさ、止めてくれない?」
「ええ〜?」
ハルカは嫌そうに唇を尖らせる。その仕草がまた子供ぽかった。
でも頭は良いんだよなぁ。
実はこの間なんてエレナと数学の宿題を教えあっていたらいきなり現れて答えを暗算でズバリと言い当てるなんてこともあった。ただ一緒に遊びたくて早く宿題を終わらせるために答えを言ってしまったらしい。やはり人間ではないからか頭の回転は異常に速いようだ。
でもこうして接していてもそういう片鱗が全く見えないのが不思議だ。
そう言えば、とそこでハヤトはあることに気づいた。
「午前中いなかったよな?どこ行ってたんだ?」
ハヤトたちが出かける前、ハルカはどこかに出かけていたようであった。しかし特に予定も聞いていなかったので、少し気になったのである。
「ああ、バイトしてきたんだよ。なんだっけ?デリバリー代行サービス?とかいうの」
「マジかっ。バイトなんてしてたのか?」
「ずっとしてるよ?今日はだいたい5千円くらい稼いだかな?」
高校生からして1日、というより午前中の2、3時間だけで5千円も稼ぐなんて羨ましい以外の何者でもない。そろそろ自分もアルバイトを始めようかなと考えているハヤトはハルカのアルバイトも候補に入れてみようかとも思ってしまった。
因みにハルカがやっているアルバイトはデリバリー代行業者というもので宅配をしていない飲食店の食べ物を注文した家まで届けるものを言うのだ。確か昔アメリカから来たサービス業で、今でもかなりの人が副業とかアルバイトでやっているらしい。主に自転車で街中を走り回っていて、この横浜でもよく見かける。体力だけは底なしのハルカにはぴったりな仕事だろう。たぶん迷子もないだろうし。
ただ事故が多発してきていて規制とか、自転車の免許を全国規模で作ろうという動きもあるとかないとか。つまりその仕事は交通事故に巻き込まれる恐れのある危険なものなのだ。
まあ、手軽にお金を稼げるから結構人気である。
そこに汗を流しにシャワーを浴びてきたエレナがリビングに入って来た。まだ少しその髪は濡れていてタオルで丁寧に乾かしている。
「ハヤト。次いいよ」
「あ。ありがとう」
普段は夜に入っていて昼間に入るのは違和感がある。それでも早くこの汗を流してしまいたかった。
そして自分もシャワーを浴びるか、と立ち上がった時だった。リビングに設置されたインターフォンから来客を知らせるチャイムが鳴ったのである。
「誰だろう?誰も何も頼んでないよね?」
「うん。頼んでない」
特に宅急便が来る予定はない。そして誰かが訪ねてくるとも聞いていない。
では誰が来たのだろうか?
「ソフィア姉さんがまた何か本でも頼んだのかな?」
そう言いつつエレナはインターフォンに出た。
「はい。……え?」
モニターを覗き込んだエレナは目を見開き、固まってしまった。そして向こうからの声もないので何を驚いているのかさえ分からない。だから思わず訊ねていた。
「どうした?」
ハヤトの言葉にエレナは驚きを隠せないまま答えた。
「エリー姉さんが帰ってきた」
「「え!?」」
†
一階でインターフォンが鳴る少し前、ソフィアは自室で手にしたノートパソコンを眺め、それを操作していた。今やっているのは株などの証券取引状況のチェックと自作の人工知能に任せていた取引の結果の確認だ。それによればここ3ヶ月だけで1千万円近く稼いだみたいである。もはやこれだけで自立できてしまう。
しかしそのうちのほとんどは自分たち人工実存の生活のために費やされてしまう。例えば父がいなくなってしまう前から費用が嵩む食費、専門的な知識が必要とされる機械に近い身体をしているソフィアたちの部品交換、或いは家族の生活用品などだ。中でも身体の部品交換はとても高価なもので爪や髪、そして皮膚は一定期間ごとに交換しないといけない。エレナやその一つ上の妹のようなマナリウムで造られた身体に造り変えようかとも思ってしまうほどの出費なのである。
しかしそれには一つのミスも許されないプログラミング制御が必要で、しかもそのプログラミングの原版はCONEDsの機密の中ときたものだ。自分で最初から作成するのには結構時間が掛かる気がするからやる気が起きない。『管理者』に頼み込めばどうにかなりそうだが、絶対嫌な顔をされることだろう。交渉すればどうにかなるかもしれないが、はっきり言って優先順位は低いから時間を掛けたくなかった。
「ソフィアお姉ちゃん。これもう飽きたぁ〜」
そんな稼いだ1千万円の行き先を考えていると、後ろから声が聞こえた。その声の主は妹の花楓だ。今彼女が何をやっているのかと言えば。
「でも、それをやらないと何も出来ませんよ?」
「もう憶えるだけでいいじゃ〜ん!なんでこんなプログラミングみたいなことしなきゃいけないの?さっきから単純過ぎてつまらないよ」
「空が飛びたいんでしょ?魔法使って落下死したいんですか?」
花楓は今ソフィアに頼んで科学魔法を教えてもらっていた。なんでも花楓曰く空を飛びたいからという可愛げな理由のために科学魔法を習得したいようである。
そして彼女はソフィアの指示通り科学魔法を使うためのプログラミングを組んでゲームを作成していた。
まあ、ゲームとは言ってもソフィアがほとんど設定したもので、初心者でも作れる簡単なものであった。そして花楓がその機能を使って触れる立体的な3D人形を動かしているのである。よくあるプログラミング初級講座の内容のようなものだ。今はその3D人形が床の上を飛んだり跳ねたりしてソフィアが設定したゴールを花楓の意志に則って目指している。
しかしこれは普通のプログラミングではない。現実世界に多大な影響を及ぼす画期的なものだ。ならば、やりたいことをやるのが当たり前だろう!
それが花楓の考えであった。
「ほら、今その人形が経験したことを体験したいんですか?」
「……」
ちょうどソフィアが指摘したのは花楓の意識が疎かになったせいで天井付近から落下し、四肢がバラバラになるという現実では想像もしたくないような惨事になった人形だった。頭から真っ逆さまに落ちていたから頭部がめちゃくちゃになってしまっている。
それを見て花楓は何も言えなくなってしまった。その人形が辿ってしまったことを自分に当てはめて考えてしまったのである。もはや怖くて顔面蒼白になる一歩手前であった。
このソフィアの講義を受けなければ花楓に待ち受ける未来はあの人形なのだ。
「この人形みたいに再生できたらいいのになぁ」
「興味深いですね。なら花楓のその身体を全部捨ててマナリウムの身体に置き換えたらどうですか?そしたら幾ら落ちても再生出来ますよ」
「いやいやっ!恐いって!ソフィアお姉ちゃんってほんとサディストだよね!」
「今それ関係あります?」
しかし実際のところ幾ら全身をマナリウムにしたとしても脳に当たる中枢のコアが破損してしまえば流石に死んでしまう。それにそれ以前に脳を全てマナリウムに置き換えて身体もそうした場合、本当に本人かどうかはヒトによって価値観が違う。父は本人だと言っていたが、ソフィアにはどうしても本人には思えなかった。だって姿形も違って脳みそも全部違うなんて他人に違いない。ただ、そうすると生物の新陳代謝が説明できないから曲者である。
あと、サディストじゃなくてサイコパスでは?
「あ〜あ。もうやだ。アイス食べたい……」
そう言って花楓はカーペットの上にだらしなく転がった。全てを現実逃避したように目を瞑り、まるで猫のようにゴロゴロと転がっては伸びをしている。
それを見てソフィアは困ったように眉を寄せた。
「でも、花楓はエレナやハヤトより魔法の才能があるんですから、もっと頑張ったらどうですか?」
「やだ。もう疲れたのっ!」
「はあ……。そういう長続きしないところはハルカに似てますね」
溜息しか出ない。花楓はもしかしたらソフィアの次、いや下手したら同じくらいに才能があるのにそれを全く活かせていない。ただ頑張るだけでアニメにあるような魔法使いになれるというのに。花楓が単純だと言っていたそのゲームだってハヤトとエレナは人形が動かなかったり、少し動かしただけで足が折れたり、人形が何もしていないのに粉砕したりで苦戦していたのだ。それを易々と熟していただから花楓にあと必要なのは努力だけなのである。
もったいない。
本当にもったいない。
ふと外を見たソフィアは、そこで家の前に車が止まるのを見つけた。黒い中型車のようだが、この辺りでは初めて見る類のものだ。少し気になって暫く眺めて、中から出てきた人影を認めたソフィアは思わず目を丸くしてしまった。なぜなら車から現れたのが翡翠色のボブディに4房の髪だけを腰まで伸ばした少女、エヴェリンだったのだ。
ソフィアは働かせていなかった自分の脳の一部も総動員して推測を巡らせる。ソフィアが今まで調べた限りエヴェリンが所属している組織はこちらが何もしなければ手は出して来ないはずだった。そして家族が彼女と関わった形跡はなかったはず。全て改めて確認してもそんなものは思い出せなかった。
ならばなぜ来たのか。
ただの帰郷というのはあり得ない。そんな理由で帰ってくるわけがない。
最悪の事態を考慮しなければならないかもしれない。
兎に角、もしもの時のためにソフィアが向かう必要があった。
そして急に立ち上がって部屋を飛び出していくソフィアを見て、花楓は何事かと驚き、興味本位で彼女の後をついていった。それでも様子を伺うように階段の上から覗き見ているだけであったが。
階下に降りる途中インターフォンが鳴る。それに対応したエレナを退けてソフィアはスピーカーに向けて強い口調で言葉を発した。
「何しに来たんですか?目的を言いなさい」
帰宅してきたその理由は――?
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