仲直り
漸く席を取れたハヤトとエレナは窓際の席に着いていた。窓からは富士山が見えて、それを眺めながら休憩するのはどこか趣深かった。横浜の街を高みから望むだけで日常から切り離されて自由になった錯覚を覚える。辛いことから解放されて違う世界を見ているようだ。
「きっと夕方なら西日を背景にした富士山が見れるんだよね」
「そうか。きっと綺麗で…………皆で見たかったな……」
しかし本当に違う世界が見えているわけではない。
注文したアイスコーヒーを飲みながらしばしの間その昼間の綺麗な景色を眺めていた。
最初は弾んでいた会話も今は鳴りを潜めている。それはどちらかの発言がいけなかったとかではなく、自然と、徐々にそんな空気になってしまったのである。
そして耳に入って来る音は周りの喧騒とカフェの背景音楽だけになってしまった。
周りが盛り上がって暖かい場所だとすれば、二人の周りだけはどこか寂れた物悲しい空気に包まれている。
何かが足りない。
あったはずの何かが。
気持ちが萎んで話題が出てこない。
分かってる。
きっとお父さんがいなくなってしまったせいだ。
気分転換のはずだったのに。
忘れようにも忘れられない。
エレナはストローでコーヒーをクルクルと掻き回して、その流れをぼうと眺める。気付けばコーヒーの容器に触れていた左手が体温を奪われて冷たくなっていた。夏なのに悴んでしまっている。
冷たい。
「なぁ、エレナ」
ハヤトが外の光景を眺めて頬杖を突きながら呼び掛けてきた。それにエレナはパッと顔を上げる。そして考え込んでいたことに今更ながら気づいてしまう。
「父さんは……殺されたのかな?」
「っ!」
それはエレナも薄々と感じていたことだ。けれどもずっと考えないようにしていた。ただ、そんな事実があったことを知りたくなかっただけかもしれない。
それを知って父が殺された理由を知るのが怖かったのである。
優しかった父が誰かに恨まれるようなことをしていたのではないか。実は父には裏の顔があってそのせいで殺されたのではないか。父が悪いことをした報復をされたのではないか。
そんな自分自身が思い描く父の像が歪んでしまうことがすごく怖くて、嫌だった。そんなことはないと信じたい。けれど、なぜ父が凶弾に倒れたのかどうしても理由が分からなかった。
でもハヤトはそんなことを思っていないのかもしれない。悪く言えばデリカシーがない。さらに言えばハヤトの態度からして何とも思っていないようにさえ見えてくる。こんな彼を見て花楓はあんなに激昂していたのだろう。
花楓とハヤトの袂を分かつような現場をエレナは物陰で偶然目撃していた。あの時は花楓が怒ってしまった理由が途中から聞いていたせいで今一分からなかった。しかし今のハヤトを見ると理解できてしまう。そしてそれと同時にそれは違うのだと、エレナは分かっていた。
彼女自身も父の死を無視していたかった。そして少しでも忘れていられるように、自分が年下の家族を支えなければならないという尤もな理由を付けて、こうしてハヤトを気分転換に誘ってしまった。ハヤトもエレナと同じく心の安寧を得るために、花楓が元気なところを見たかったのだろう。そして、それが仇になってしまった。そこに花楓の気持ちが考慮されてなかったから。
少しの間だんまりしていたエレナだったが、重く悲し気に口を開いた。
「……わからないよ。でもきっと、お父さんは悪くない」
「そう、だな」
一口コーヒーを口に含む。キンキンにひんやりした、苦みのある独特な味わいにどこかざわついていた心が凪いでいく気がした。この香りにも安心させる効果があるのかもしれない。
若しくはまたハヤトのことを想って、考えたくないことを無視しているのかもしれない。それはなんか嫌だった。
「ハヤト。ごめんね」
「え?いきなりどうした?」
ハヤトは突然のエレナの謝罪に吃驚した表情を見せた。
自分のエゴで彼をここに連れてきたことを謝ったのだが、心が読めないために伝わらなかったようだ。
まあ、当然と言えば当然である。
「ううん。何でもない。けどね、ハヤト。花楓が怒った理由。ちゃんと理解してあげて」
「理由……」
「私もハヤトと同じようにハヤトを気遣ってここに連れてきちゃったわけだしね。相談なら何でも聞くよ。力になるから」
そうやって優しくハヤトに言って、真っ直ぐに目を向け合った。
何がいけなかったのか。きっと何と無しに放った同情の言葉が花楓を傷つけてしまったのだ。花楓のためと言って、自分が辛いことから逃れるために他人に目を向けて利用してしまった。
分からないなんて嘘だ。
本当は悲しくて、胸が引き裂かれそうなほどに辛かった。
父さんの写真を見るだけでもう戻らない日常がフラッシュバックして、その度に頭を殴られたような苦痛の衝撃が襲ってきた。
その度にそれから逃れるために色んなものに縋った。
それは友達との会話だったり、親戚との挨拶巡りだったり、エレナが誘ってくれたこの気分転換だったり……そして、花楓の弱さだった。
結局は自分勝手な自分がいけなかったのだ。
僕が弱かったから花楓を傷つけた。
「ほんと、僕は最低だな。僕が弱いから……情けないから、花楓を無意識に傷つけた。今だって押し潰されそうだからエレナに縋って、さ……」
そんな自分が嫌で、それを克服できない悔しさでコーヒーの入ったプラスチック容器をぐしゃりと握り潰していた。幸い半分以上飲み終わっていた後だったので、零れずに済んでいる。しかし一杯に詰まった氷のいくつかが転げ落ちていった。
惨めで、何も出来なかった自分が嫌で、悔しくて何時しか視界が歪んでいた。
そして後悔と、自責と、悲哀と苦悩の涙が、咽び泣きとして頬を伝っていく。その嗚咽を止められなかった。周りを気にせずに良いのなら声を出して泣いてしまったかもしれない。それだけ今のハヤトは追い詰められ、感情が溢れていた。
拭っても拭ってもその度に涙が溢れていく。
そんなハヤトにエレナが優しく言葉を投げかける。
「……弱いなんて普通だよ。私だって、皆だって弱い。それに、縋っていいんだよ。じゃないとずっと辛いままだもん」
そう言ってエレナはハヤトの握り締めた手に自分の手を添えた。それに少し驚いてハヤトは僅かに顔を上げる。
「ハヤトはもっと他人を頼っていいんだよ?感情を曝け出して話さないと花楓の時みたいに誤解を与えちゃうし。何を感じて、何を思って、何をしたいのか。それが伝われば誰だって答えてくれるから」
「……」
「今、ハヤトは何をしたい?」
そんなもの、決まっている。今は、花楓に謝りたい。出来る事なら今までのように仲良くしたい。そしてちゃんと父の死に向き合いたい。
「どう、謝れば良いかな?」
「ハヤトが望むなら、心が伝われば分かってくれるよ」
「なんて、言えば?」
「それだけはハヤトが考えないと。私が言ったら私の言葉になって、ハヤトの言葉じゃなくなる」
彼女の言う通り、自分の気持ちは自分の言葉じゃないと伝わらないだろう。他人の言葉に頼れば誠意が伝わらない。
けれど、学校で教わるどれ程難しい問題よりも難題だった。ごめんと言えば済むことなのに、許してもらえないかもしれないと考えるだけで不安になって自信を持てない。それにただごめんと言うのは違う気がする。それだけではハヤトの気持ちは通じない。
とても難しい。
だけど、それでもやるしかないんだ。
「そうだな。頑張ってみるよ」
まだ自信を持てたわけでも、謝罪の言葉を思いついたわけでもない。この言葉はエレナに絶対にやり切って見せると誓ったようなものだ。頑張るということは結果はどうあれ最後まで努力し続けることを意味すると思うから。
そう、結果がどうであれ、最後まで。
そしてその言葉を聞いたエレナは安心したような笑みで一言呟いた。
「頑張ってね」
†
午後になって花楓は帰ってきたハヤトの部屋の前で右往左往していた。
兄が帰って来たからすぐに謝ろうと思ったのだ。しかし玄関で兄に話しかけようとしたところ、すぐさま目を逸らされてしまった。まるで話しかけるなと言われているようで、喉まで出掛かった言葉は詰まってしまった。そしてその態度に花楓は胸が引き裂かれるような悲しみと後悔しか抱けなかった。動くことすら出来ず、兄が自分の部屋に去っていくのを止められなかった。本当に胸が痛くて痛くて直ぐに泣き出してしまいそうになった。
そしてまた、少し諦めかけてしまった。全ては自分が招いてしまったことなのだから。もう手遅れで、あの日々にはもう戻れないのかもしれない。
けれど、諦めたくもなかった。
今すぐにでも謝ってこの気まずい空気を失くしたい!
仲直りしたい!
許してほしい!
あと少しで父の火葬が始まってしまう。だから今日兄に謝れるのは、火葬場に行く前の今この時間だけだ。火葬の後も喪主である兄は親戚との挨拶巡りなんかでそのまま忙しくなってしまう。
謝るなら今しかない。
しかしいざとなると急に不安になってしまった。ドアをノックしようにも、出来ない。伸ばした手はあと数センチの所で止まって、そして結局また右往左往してしまうということを繰り返している。小さな勇気が湧いては不安に押し潰され、動き出した手は硬直してしまう。≪アサヒ≫が何度か応援してくれるのだが、それでも断続的な勇気しか出て来なかった。
どれくらい時間が経っただろうか。再びノックとしようと手を伸ばした時、そのドアが唐突に内側に開いた。
「あ……っ」
そしてその向こうに制服に身を包んだ兄の姿があった。花楓も咄嗟のことに驚いてしまったが、兄も同様に目を見開いていた。
ここまで来たら腹を括るしかない!
「お兄ちゃん!……今、いいかな?」
「あ、ああ」
兄の返事は少し低く暗いものだった。当然だろう。あれだけ酷いことを言った妹が訪ねてきたのだ。自分だったらと思うと怖くて話せない。怒りすらも感じているだろう。きっと一言だって話したくないに違いない。
よく見れば兄の表情は強張っているようだ。
「あのね……」
ダメだ。やっぱり罪悪感で目を合わせられない。
花楓は自然と俯いてしまい、服の裾をぎゅっと握り締め、唇を引き結ぶ。しばしの間、沈黙が二人の間を満たした。そんな時間が続くほど不安が積み重なっていく。
もし許してもらえなかったら。
もう兄妹の、家族の関係は終わりだと拒絶されたら。
自分にもう二度と会わないと宣言されたら……。
流石にそれはないと理性で分かっていても、そういう考えが出てしまうとなかなか切り出せなかった。
それでも言わなきゃいけない。
いけないのに……っ。
「ごめんな」
「え?」
兄の突然の言葉に少々拍子抜けしたような声を漏らしてしまった。それに構わず兄は言葉を続ける。
「昨日お前が言ったこと。あれからずっと考えてたんだ。信じてもらえるか分からないけど、本当はそんなつもりがなかったんだ。僕も辛くて、花楓を支えて悲しみを紛らわそうとした。最低だった。本当に……ごめんな」
言おうとしていたことを、謝るべき兄に先に言われて花楓は面食らってしまった。花楓の中では兄は何一つ悪くない。あの時、兄がどんな態度であったとしても花楓はあの言葉を言ってはいけなかったのだ。兄はただ自分のことを支えようとしてくれただけなのに。それをちゃんと考えようとしないで決めつけてしまった。
「違うよっ!お兄ちゃんは何も悪くない!全部、私が悪いのっ」
「いや、僕だって花楓の気持ちをちゃんと考えずに安易なことを言っちゃったわけだし……。傷つけたのは僕だ」
「ううん!私がいけないのっ!!」
「いやいや、僕が――」
「違うって、私が――」
罪の擦り付け合いではなく、罪の奪い合いになっていた。なかなか終わる気配がない。埒が明かなくなってどちらからともなく言葉が続かなくなってしまった。
先程とは違う、少し小恥ずかしい空気が二人の間に流れる。
「じゃあ、さ。お互い謝ったし、お相子で良いよな?」
「うん!」
二人は互いの目を見て微笑んだ。
この一日は短い時間だったが、物凄く長い時間でもあった。この間に、人生の中で最も悩んだ。互いに話すのも怖くて苦しかった。けれど、一度話してしまえば、心につっかえていたものが消えた気がする。
気づいたら兄に撫でられていた。温かくて、優し気な手使いだった。それが嬉しくて、つい頬が緩んで自分からも兄の手に頭を押し付けていた。
「もうそろそろ時間だな」
暫くして兄が時計を見てそう言った。そして彼の手がゆっくりと離れていく。それを花楓は反射的に掴んでいた。
「もう少しだけ」
「え?」
「もう少しだけ。お願い」
自分でも何を言ってるのかちょっと分からない。でも少し兄の撫で方が父に似ていて、それが懐かしくて心地良いのだ。もう二度と大好きな父には撫でてもらえない。だからこそ兄のこの撫で方に父を感じた。時間はないけれど、あと少しだけ父の幻影に縋っていたかった。
「しょうがないなぁ」
「えへへ。ありがと」
その後、花楓は満足するまで少し長めに兄に甘えて撫でられていた。
†
そんな二人を階段の陰で伺っている人物が一人いた。彼女は二人が仲直りしたのを認めて安堵の息を漏らした。誰であろう、エレナである。
「よかった」
『ほんとに良かったです』
端末の中の≪アサヒ≫もエレナの言葉に呼応するように呟いた。
ハヤトと花楓が仲直り出来たのは、多少なりともエレナと≪アサヒ≫のおかげである。≪アサヒ≫が花楓の悲しみと罪悪感を少しでも薄れさせるように誘導して、エレナがハヤトに出来るだけ落ち込んでいた心を支えてあげたことによって二人は勇気を出してお互いに謝ることが出来たのである。もし二人がいなかったら今でも、そしてこれからも家の中は気まずい空気で満たされていたであろう。
「手伝ってくれてありがとね」
『いえいえ。私は自分の仕事をしただけですから。それより、そろそろ声かけた方が良いんじゃないですか?』
「ん~、もう少しだけ待とうよ」
二人を覗き見ると未だに花楓はハヤトに撫でられて嬉しそうに破顔していた。目を細めてされるがままになっているのを見るとまるで猫が顎を掻かれて気持ちよくなっているのを連想してしまう。ハヤトもまた嬉しそうではあったが、疲れて来たのか撫で方が少しぎこちなかった。
少しだけ二人だけの時間を作ってあげようとエレナは階下に降りていった。
数分したらもう一度行こう。用というのはただもうすぐ出発だと母から伝言があっただけなので、数分くらいなら問題ないのだ。
一階の廊下に着くと≪アサヒ≫が不意に声を発してきた。
『羨ましいですか?』
「ふぇ!?な、なんで!?」
『そんな顔をしませんでした?頼めば、ハヤトさんならしてくれるんじゃないですか?』
「ないないっ!そんなことない!」
撫でられる自分を想像したのかエレナは恥ずかしさで顔を赤らめ、妄想をかき消すかの如く両手で宙を払った。その仕草からして明らかに意識しているのが伺えるのだが、本人は分かっていなかったりする。
けれども少ししてエレナは少し悲しそうな表情になってしまった。
『どうかしました?』
「それは高望みだよ」
『なぜ?』
「だって、私は――」
その言葉の続きを、彼女は口に出来なかった。言ってしまっては本当に諦めてしまいそうで、それが怖かった。そして何よりハヤトに知られるのが一番怖かった。彼が記憶を失くしているからこそ、その不安は大きく募っていくのである。
『きっと、大丈夫ですよ』
「≪アサヒ≫。絶対に言わないでね?」
『わかってますよ』
そして数分後、気を取り直してエレナはハヤト達を呼びに行ったのであった。
二人は仲直りし、少女は何かを想う――。
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