そして世界は動き出す
『ハヤトさんにも同じようなことをしていましたよ。彼女の血には何か特別なものがあるのでしょう』
「僕にも?」
《アサヒ》の言葉をそのまま理解するとハヤト自身も死にかけていたのではないかと思い当たる。もし簡単な止血――強く縛って流血を止めるなど――で済むような軽い怪我なら態々彼女が自分を傷つけてまで治療するとは思えない。大量の血を流すリスクがあるのならそれ相応の重傷でなければ釣り合いが取れないはずだ。
つまりそのようにして治療したということはハヤトも危ない状況だったに違いない。
しかし疑問もある。そこまでじっくりと見たわけではないが、エレナの腕や手に切り傷はなかったはず。他の場所を切ったとしても服が汚れるはずだから腕以外はあり得ない。ならば傷はどこへいったというのか。
答えは直ぐに分かることになる。
横たえた男性が負った全ての傷が問題ないほどに修復された時、安堵したようにエレナが息を吐く。そして糸が切れた操り人形のようにその場に膝をついた。
「おい、大丈夫か!?直ぐに止血しないとっ!」
流石にハヤトでも何かできつく縛り上げれば止血できることぐらい知っている。だからまず彼女の腕を掴み傷の場所を見て、ハヤトは絶句した。
「どういうことだ?」
傷があるであろうその場所に、一切の傷がなかったのだ。血で紅く染まっているもののどこにも裂傷が見当たらない。
最初は混乱したハヤトだったが、一つの仮説に思い当たった。それはこの男性の傷を直したように自分の手首も修復した、というものだ。実際それは正しく、ハヤトを治療した後も血はハンカチで拭い取っただけであった。
しかしそれよりもエレナの様子がおかしい。
呼吸が浅く速い。大量に汗を流し、触れた手首から伝わる心拍は弱々しく異常に速かった。
皮膚も白いというより蒼白で、その表情はぼんやりしているようで明らかな苦悶以外の感情が読み取れない。
「エレナ?」
「……」
答えない。
不安になって強く肩を揺さぶってもう一度呼び掛けた。
「エレナ!?」
「え?あ、なに……?」
ようやくハヤトの呼び掛けに反応した。しかしその目の焦点が僅かに合っていないように思われる。声も弱々しい。
この時エレナは大量に出血してしまったためにショック症状を起こしていた。普通ならそのまま血が流れ続けてしまうため非常に命が危うかったであろう。
定義としてこのような症状が見られるのは30%以上の急性出血の際に見られる重度の出血の時だ。ここまでくると病院に直ぐ連れて行くべきである。
幸いしたのは彼女に止血の手段があったことだ。
つまりここまでのことから言えることは、エレナは自分の命を削ってこの男性やハヤトの命を救ったということである。
ハヤトはそのことに至り、彼女の優しさに胸を打たれる思いがした。そして感謝の念を抱くと共に彼女が心配になった。
こうやって誰かを助け続けて彼女は大丈夫だろうか。
いつしか本当に自分の命を捨てて誰かを助けてしまうのではないか。
もしその時、彼女は何を思うのだろう。
そして自分には、何ができるのか。
「無茶するなよ!もっと自分を大事にしろ!」
そう言っておきながらハヤト自身も彼女と同じ立場なら同じことをしてしまうのではないかと思ってしまった。明確な理由はない。ただ心の奥底から漠然とそう感じたのだ。
誰も失いたくない。ただその願いのためだけに。
どうしてそう思うようになったかは、分からないけれど。
「……ごめんね。応急処置は済んだから……探しに行こう……」
エレナが立ち上がろうとするが、よろめいてバランスを崩した。咄嗟にハヤトは彼女を支える。
「無理するな」
「ううん。早く、私が助けないと……」
歩き出す彼女を見て、ハヤトは彼女を肩で支えながら隣を歩き出す。そのやり方もテレビの見様見真似だったが仕方ない。
この先にも父を含めて誰かがいるはずだ。
出来うる限りみんなを助けたい。
それが傲慢で、儚い理想だとしても、それでも絶対――。
それは恐らくハヤトもエレナも同じ気持ちだろう。それでも不安が消えることはなかった。
瓦礫だらけのこの部屋を二人で探してゆく。エレナが万全ではなかったため効率は良くなかったが、それでもハヤトは何も言わなかった。
瓦礫の間を進み、それを掘り起こしたり、もしくは退かしていく。しかしなかなか見つからない。
焦りばかりが募っていく。
暫くして一際高く瓦礫が積み上がった場所にやってきた。そこは天井がやけに多く崩れており、コンクリートや何かのパイプや配線が山となっていた。よく見れば違和感があるほどこの場所に瓦礫が集まっている。それでも目立つほどでもない。
そして何の気もなしに一歩踏み出して何か水たまりを踏んだ時のような音が響いた。
そう、液体を踏んだ時のあの音だ。
足元を見やった途端、ハヤトたちは息を呑んだ。
「「―――――ッ!!!!」」
そこにあったのはハヤトの端末のライトで照らされた真っ赤な血だまり。
そしてそれに浸った元は白かったであろう布だった。
そのそばには見覚えのあるメガネ端末。
間違いなく父の白衣と端末だったのだ。
「父さんっ!!」
エレナもハヤトの支えから自ら脱して瓦礫に取り付く。ハヤトも無我夢中で瓦礫を退かそうとした。しかし瓦礫は重く、絡み合っているのか全く動かせない。
「父さんっ!返事してくれっ!」
「答えてっ!」
誰も答えない。虚しく二人の声は風に流されていく。
いやだいやだいやだいやだッ!!
生きてくれッ!
死なないでッ!
こんなところでっ!
どうしても瓦礫は動かず、ならば反対側から崩そうと裏にまわる。
そして。
「ああああああぁぁぁぁ――――――――…………………ッ!!」
体中から力が抜け、崩れ落ちるようにハヤトはその場に膝をついた。もう全く力が入らない。もはや自分にできることはないのだと、目の前で突きつけられてしまった。
そこにあったのは、父の遺骸だった。腰からした下は完全に瓦礫で埋まっており、胸には一箇所だけ、まるで銃弾を受けた時のような痕。そして頭部にも抉られたような酷い怪我があった。
肌の色も先程の男性よりも血色がなく、蒼白を通り越して土色と化してしまっている。もはや脈を取らずとも死んでしまっていることが容易に想像できた。
時が止まってしまったような、色が無くなっていくような、音が遠ざかっていくような、そんな感覚に襲われる。こんなのは初めての感情だ。全てが失せて、崩れて、消えてゆく感覚。
それを、虚無感というのだろう。
父との思い出が走馬灯のように頭を駆け巡る。もう二度と見ることが叶わない様々な表情が過り、父の言葉が思い起こされる。
それは全て優しかった。厳しい面もあったけど、その裏にはいつもハヤトのことを考えてくれている優しさがあった。
しかし、もう二度と、それを聞くことも見ることも出来ないのだ。
そこへエレナも覚束ない足取りでやってきて、やはり息を呑んだ。直ちに先ほどと同じようにネックレスを手に取ろうとする。しかし取ったは良いものの自らの腕を十分に切る力が出なかった。僅かに血が滲む程度で直ぐに塞がってしまう。
「なんでっ!なんでよっ!!」
必死で力を入れようにも彼女の身体は全く言うことを聞かない。
それもそのはず。危険なほど大量に血を流した後に体が十全に動くわけがない。しかし例え切ることが出来たとして、死人が蘇ることなどあるのだろうか。死んだ直後ならあるかも知れないが、爆発から既に三十分が経過している。この時代の技術でも絶望的な時間経過だった。
「いやだッ!起きてよッ!約束、したのに……ッ!!」
エレナは倒れるように父の胸に抱きついた。そして血で汚れることなど厭わず、感情を爆発させたように大きな声を上げて泣いた。悲痛な叫び声がビルの中に木霊する。
それをハヤトは感情の読めない表情で見つめていた。というよりこの現実を受け入れることが出来ていなかったのだ。だから湧き上がる感情が押し潰されてしまう。
悲しいはずなのに、涙が出ない。
これは現実なのに、夢じゃないかと思ってしまう。
朝まであんなに元気だった父が、今こうして命の灯火を消してしまった。
それが信じられなくて、そして人という存在が如何に儚いものかを思い知った。理不尽は容易く人の人生を大きく狂わせてしまうのだ。
もう、何も考えたくなかった。
ハヤトたちは消防隊が来るまで父から少しも離れようとはしなかった。
†
CONEDs第一ビルのとある会議室。その場所を表現するとしたら『遊び場』であろうか。大きな家のリビングにふかふかの絨毯が敷かれ、あちらこちらに心地良さ気なマットが散らばっている。台所には軽食スペースがあり、お菓子やコーヒーなんかを摂取できるようになっている。更には誰かが趣味で作ったロボットや、既成事実化しつつある人形コーナーまである。
部屋の一角に仕事用のデスクの列がなければ完全にどこかの公共施設か、或いは一般的な子供のいる家であろう。
そんな仕事用の机を並べた一角では緊急会議が開かれていた。もちろん今回の第二ビル爆破事件の対処のためである。集ったのは六人の人物。CONEDs創設者にしてこの会社の最高権限保持者達。会社の方針はほとんど彼らが決めていると言っても過言ではない。それ故に今回の事件に対しても彼らがどうにかするしかないのであった。
因みに他に会社員が居ないのは誰かがいると話せない内容のことも話し合われるからである。
例えば、会社の機密のことだったり、倫理的には許容できない相談事だったり……。
ただ浜崎代表の突然の死を受けて、全員が意気消沈状態であったために会議は酷く暗いものだった。平常を保とうとしても悲しみの感情は拭いきることが出来ない。
それでも会社の存続のためには理性を働かせねばならない。悲しむのはその後でも遅くはないのだから。
「では、会議を始めよう」
まず話し合われたのは、経済的な損失と今後の経営について。その内容によってはCONEDsの存続が困難となり、潰れてしまう可能性もある。
様々な情報を精査した結果、幸いにもその被害は少ないとは言い難いがどうにかなるという結論に到った。
これは彼らが持つ超高性能なAIによっても算出されたものである。会社の存続自体は可能であるようだ。
その後もいろいろなことを話し合ったが、会社に関して特に致命的な問題は浮上しなかった。
「次に、これが一番重要なことだが、誰がやったのか?」
そんな話題も浮上したが、相手は用意周到だったのか監視カメラにも一切映っていないことが分かり、結局はお手上げ状態になる。
そこでこれからは会社の存続のためにも独自で調査を実行し、犯人の特定を急ぐことが決められた。
ここまでで既に日付が変わってしまっている。そろそろ解散にしようという雰囲気が流れた時、ポツリと一人の男が言った。
「そういえば、『あれ』は回収できたのか?」
それに対して、全員が思い出したように『あ』と声を漏らした。
『あれ』とはCONEDsの機密である。セキュリティに関しては第二ビルの方が圧倒的に厳重だったため、そこに保管していたのだが今回の事件が起きてしまった。
しかし唯一中身に触れることができる彼らでも年に一度記録する程度でしか扱っていなかったために、それ自体が失われようとしたことを今まですっかり忘れていたのだ。
そしてその発言で会議は再び深刻さを増した。
「あれが外部に漏れたら大変なことになるぞ」
「下手したら死人がたくさん出るわね」
「そうだな。では、俺が回収に行こう」
「それは助かる」
この中で最年少の男が行くことになった。全員の表情を見てもそれで結構なようである。前は急げ。決定するために長々議論している余地はない。
しかし機密とはいえ変に騒いで警察に怪しまれるよりちゃんとした手順で回収する方が無難だ。もちろん急がなければ既存の社会そのものが壊れる可能性すらあるから迅速さは絶対だが。
だから論理的に動けて他人との会話にも問題がない彼が最適ということになった。
「それと、浜崎さんの息子さんでしたか?あれを見られてしまったらしい」
「やっぱり口封じですか?」
「まあ、そうだろうな……」
全員が頷いて反対意見は一切出ない。それだけ『あれ』を見られたことは大問題であり、情報統制しなければならない。
「誰がやります?」
「誰でも良いのでは?誰がやっても変わらないだろ」
「でも、桑原さんは手弱女にお願いしますよ?流石に可愛そうだ」
「……。善処する」
そして誰かが言った。
「《アサヒ》にも忘れずに命令しないといけませんね。それは佐倉さん、お願いしますよ」
「分かってますよぉ?」
その後、会議は全員疲れもあったためすんなりと終了した。
……――。




