ディストピア
禍々しく赫い光。
それに照らされた黒煙。
それらが暗転したビルの上階から溢れていた。
その光景にハヤトは呆然としてしまう。
思考が回らない。
爆発と同時に父との連絡が途切れたことに、嫌な想像をせざるを得ない。
ウソだ。
こんなこと、あってはならない。
絶対にっ。
絶対に……っ!
何度も見返した。
けれど、無慈悲な現実は変わらない。
気づけば、走り出していた。
脇目も振らずに走る。
人混みという濁流を掻き分けながら、人にぶつかろうとも、罵倒されようとも、突き飛ばされようとも駆け続けた。
『ハヤトさんっ!?行ってはダメです!危険です!』
《アサヒ》が制止してくる。
しかしそんなものなどハヤトの耳には届かなかった。
我武者羅に父の元に走る。
あそこにいるはずなんだっ。
父さんっ!
何度も躓いて、地面に手をつこうともその度に立ち上がった。
手の皮が剥けても眼中に入らない。
カシャッ。
そんな音が不意に聞こえてきた。
それが何度も、何度も、何度も――――…………。
最初は何の音か分からなかった。
しかしそれが群衆の手が操作する端末からだと知り、ハヤトは激しい憤りを覚えた。
それは、ここにいる人達が物珍しそうにあの光景を写真に収めたり、動画を撮ったりしていたからだ。
許せることではない。
これは見世物じゃない!
撮るな!
あそこには父さんがいるんだっ!!
見るな!
ビルに近づけば近づくほど、爆発の被害から逃れようと前から人が押し寄せてくる。
その流れに逆らい、なり振り構わずそれを押し退ける。
誰かの手が顔を打った。
足を踏まれた。
肩にぶつけられた。
しかし、それでもハヤトは走ることを止めなかった。そうでもしないと、理性が保てそうになかったから。
怖くて、怖くて仕方がなかった。
嫌だ。
死んでほしくない。
そんなのダメだ!
暫くしてやっとの思いで父の会社のビルの袂に辿り着く。あまり距離がないのにひどく体力を使ってしまった。
息が乱れて、切り傷や痣が所々に出来ている。
けれど痛くない。
気づきもしなかった。
もう既にビルの中から逃げる数少ない人しか見受けられない。
彼らと逆走するハヤトを訝しげに辺りの人々が見てくるが、それさえも認識の外だった。
今はただ父の元に向かうことしか頭になかった。
どんなに自分の力が微力でも何もしていないと恐怖に飲まれそうだったのだ。
端末で連絡も取り続けている。
しかし父が出ることはなかった。ただただ耳元に留守電の応答が響く。それが非常にもどかしく、通じないことに苛立ちを覚えずにはいられない。
お願いだ。
生きていてくれ。
死んでほしくない。
もう家族を失いたくない。
永劫の別れなんて、嫌だ。
だから――――!
嫌な想像ばかりが頭の中を満たす。
苦しくなって涙が出てきた。
すごくみっともない。
分かっていても感情は爆発寸前で、止められそうもなかった。
丁字路を渡るべく、放置された車の間を抜け、あるいは滑るようにその車体を飛び越える。
そしてやっとその入り口に辿り着こうとした時、ハヤトは自分の行動が如何に愚かか思い知った。
唐突に、衝撃を受けた。
そして気づけば地面に倒れ伏していた。
「………………………………ぇ…………?」
今まで走っていたのに、次の瞬間には世界が九十度回転していた。
一瞬、全ての物と人が壁に立っているかのような錯覚に襲われた後、自分が倒れていることを数秒の後に理解できた。
こんなことをしている暇なんてない。
早く行かないと!
けれど体が動かなかった。
少しも言うことを聞かない。
感覚さえも遠のいていく。
この時、爆発の衝撃で脆くなってしまったコンクリートが崩れてハヤトに直撃していた。大きさはこぶし大ほど。ちょうどよく涙を拭うために俯いたため、頭に直撃しなかったものの瓦礫は項を砕いていた。神経が骨の破片や衝撃で損傷し、体を動かすことができなくなっていたのだ。意識が残ったのは奇跡と言えよう。
しかしそれも長くはなかった。
そんなことを知るべくもなく、遠のいていく意識の中、ハヤトは悔しさと悲しみを噛み締めていた。
ここで終わりなのか。
父さんの力にもなれないで、このまま死ぬのか。
いやだ。
生きたい!
助けたい!
嗚呼、なんで動かないんだ!
なんでこんなに世界は理不尽なんだ!!
なんで。
なんで……ッ!
今、ハヤトの体勢は俯きに倒れ、首だけが横を向いて身体の向きも道路に対して平行になっていたためにCONEDsのビルの入り口を見ていた。
あそこに行きたいのに、行くことが出来ない。
生きたいのに、意識が保てない。
だんだん暗くなっていく視界に、諦めを感じ始めた頃、白いものがハヤトの瞳に映った。
違う、銀だ。白銀の髪。
なんだろう、この気持ちは。
切なさ。
悲哀。
嬉しさ。
安堵感。
切望。
諦観。
希望。
失望。
そんな感情が一同に襲ってきて何がなんだか分からなくなってしまった。自然と涙が溢れ、歪む世界を最後の景色として目に焼き付けようと思った。それだけ大切なことだと思ったから。
意識を保てたのはそこまでだった。
何も考えることが出来ない。
ただその少女を自分の目で捉える。
それが夢で見た少女だと、そう理解することすら出来ずにハヤトは意識を手放した。
†
ほんの少し遡り、非常灯が灯る暗い廊下を少女が走っていた。
父と別れた後のあの爆発。あれは数階降りた時に起こった。その身体全体を駆け抜ける衝撃と、足元を揺らし耳を劈く爆音に、彼女の頭の中には一つの記憶がフラッシュバックされていた。その悲しくも絶望のどん底に落とされる恐怖に足が勝手に動かなくなって転倒してしまう。
「っ……!」
それは六年前の、まだ幼かった頃の記憶。忘れたくても忘れられない、目の前が真っ暗になる悲痛な記憶。
少女は立ち上がろうとして、しかしそれは出来なかった。上体を起こした時点で手が真っ赤に染まっているのが見えたからだ。それは彼女の服全体にも撒き散らされ、血とは違った小さな赤い欠片とその色に染まったもの。そして彼女の前に横たわる幼い少年の身体。
「いやっ!」
これは幻影だ。昔の記憶がこの爆音のせいで蘇ったのだ。
怖くて怖くて、そしてそれ以上に悲しくて少女は泣いた。誰もいない。暗い廊下にただ一人。彼女のすすり泣く声が木霊する。まるであの時の、六年前の彼女のように。
暫くの間、動けなかった。もう何も考えたくないし、感じたくなかった。もう自分が消えて楽になりたいとも思ってしまった。滂沱の涙が頬を濡らし、全て歪んで、何も感じられなくなっていく。何も見えなくなって聞こえなくなっていく。
しかしその時彼女の中に声が響いた。
「守ってやってくれ」
それは先程父に言われた言葉だった。優しい温もりの篭った言葉。
そうだ。
私が。
私がやらないと……っ!
少女は必死に現実逃避する思考を押さえ込み、無理やり手足を動かしてふらふらと立ち上がった。そしてそのまま歩き出し、そして駆け出した。強い意志が宿る瞳と共に。
昔の彼の記憶しかないけれど、それでも彼は生きている。
大丈夫。死んでなんかない!
お父さんも絶対帰ってくる!
爆発の原因が何かなんてどうでも良かった。ただ父のことが、そして今こちらに向かっていたであろう彼のことが心配で仕方がなかった。それでも少女は信じた。本当は最も危ない父の許に直ぐにでも駆けつけたい衝動が湧き上がっていた。しかしそれを抑え、父が帰ることを強く信じた。
いや、願ったが正しいかもしれない。
今まで父が約束を反故にしたことなんてない。約束に関しては厳格な父だ。前言撤回をしたところなんて見たことがない。
だから信じられる。
しかしそれでも心配だった。
世の中に『絶対』はない。いつ何が起きるか分からないものだ。
けれど父に託され、自分自身が心の底からやらなければならないと思うことがある。そのために少女は走っていた。
暫くして少女はビルの一階に降りてきた。
広いロビーは三階まで吹き抜けになっていて、いつも人の出入りが多く照明が煌々と照っていたその場所は、今は暗く静寂な場所と化している。
そんな無人の広間を駆けているとビルのガラス越しになぜかこちらに駆けてくる少年の姿が見えた。
その瞬間、少女はなんとも形容し難い尊い感情を抱いた。
この六年間、逢うことも遠くで眺めることすら許されず、それでもずっと想い続けてきた彼がそこにいたから。
やっと、逢えた。
ずっと一緒にいたかった。
まだ不安だけど、でもようやく一緒にいられる。
また、手を繋ぎたい。
また、語り合いたい。
また、いっしょに――。
しかしその愛おしく、尊い感情は次の出来事に霧散してしまった。
突如彼が倒れ伏したからだ。
「――――ッ!!」
少女は声にならない悲鳴を上げた。
あまりのことに少女はまた泣きそうになった。しかしそれをぐっと堪えて彼の元に走る。
また失いたくない!
今の私ならできる!
もう二度と失ってたまるか!!
そして少女は倒れた彼に手を伸ばし、言った。
今度は絶対に助けるっ!、と。
主人公の生命は如何に――?