ほんの一瞬だけの青春
結局、青春なんて、どこにあったんだろう。
三年間、これでも必死に努力してきたつもりだったのに、記録を出すどころか、地区大会の代表にも選ばれなかった。
学園ドラマやスポーツ漫画にあるような熱くてキラキラした青春は、俺の隣にいた、俺よりずっと才能も実力もあるチームメイトのもので、俺はまるで背景の名も無き観衆のように、そいつらの活躍を応援するだけだった。
一体、何のために毎日汗だくになりながら、辛い練習をこなしてきたんだろう。
いつかは見つけられるかも知れないと思っていた、競技に打ち込む意味も意義も、結局うすらぼんやりして見えないまま、今日でその辛い練習も終わる。
今まで何度も「苦しい」「辞めたい」と思ってきたはずなのに、いざ「今日で最後」となると湧き上がってくる、この感情は何だろう。
悔しさだとか未練だとか、そんなありきたりな言葉じゃ説明がつかない。
両手にすくった銀の砂が、指の間をすり抜けてさらさらと零れ落ちていく――それを黙って見ていることしかできないような……切なさや、もどかしさに、どこか似た感情。
もう、この先の結果も何も待っていない最後の練習を、ただ決められたスケジュールの通りに淡々とこなしていく。
走って、地を蹴って、高く掲げられたバーを後ろ向きに跳び越える。
数えきれないほどに繰り返し、もはや習慣のひとつにでもなっているかのような、一連の動作。
けれど、これも今日が最後。
何の結果が出せたわけでもないのに。未練に思うほどの成績を残せたわけでもないのに。
一体、何を惜しんでいるのだろう。
自分でも分からないまま、バーへ向かってひた走る。
がむしゃらに地を蹴って、助走で貯めた勢いを縦方向の跳躍力へと変換する。
両足が地面から離れ、ほんの一瞬の浮遊感に包まれる。
頭の中が空っぽになり、視界には、ただ青過ぎるほどに青い空の色だけが広がる。
まるで時間さえも止まって、ただ青いばかりの世界に、自分だけが放り込まれてしまったかのように錯覚する、永遠のような――だけど実際には、秒にも満たないかも知れない、一瞬。
その一瞬、ふいに理解した。
俺はただ、この一瞬が好きだった。
踏み切って、バーを跳び越えて、マットに沈み込むまでの間の、ほんの一瞬。
まるで、大地からも重力からも――世界そのものからさえ、自由になれたような……。
そんな不思議な解放感と爽快感で、頭も胸もいっぱいになる、この一瞬。
この一瞬を味わいたかったから、この競技を選んだ。
誰に褒められなくても、他人より良い結果を残せなかったとしても……ただ、この一瞬の快感を味わいたくて。
記録を追い求める周囲の声や熱気に押し流されて、いつの間にか忘れてしまっていた。
そのことを、今になって思い出した。
指のすき間から零れ落ちていくように、かけがえのない一瞬が流れ去っていく。
背中からマットに沈んでいきながら、無性に泣きたい気分に襲われた。
俺はこれまでに幾度、この一瞬を繰り返してきただろう。
これまでは当たり前に在った――けれど、この先はきっと味わうことのできない一瞬を。
もっと早くに気づいておけば良かった。もっと早く思い出せていれば良かった。
今さら惜しんだところで、もう時は戻らないのに。
マットに倒れ込んだまま、すぐには起き上がらずに、俺は空を見上げ、今の一瞬を反芻する。
――青春なんて、どこにあるのだろうと思っていた。
青春なんて、“選ばれた人間”にしか訪れないものなんだと思っていた。
だけど、この一瞬の中に感じていた、身体の奥まで突き抜けるような心地良さは、“選ばれた人間”に与えられた栄光にも劣らないものだった。
こんな、吹けば消えてしまう幻のような、一瞬だけの青春なんて、きっと俺以外の誰にも理解してもらえないだろう。
そもそも、言葉で上手く説明できる自信すら無い。
だけど確かに、ここには青春と呼んでいい何かがあった。何も無かったわけじゃなかった。
この先、競技からも学生時代からも遠く離れた日常の中で、俺はふと、この一瞬を思い出すことがあるだろうか。
その時、俺は何を思うのだろう。
今日のこの空の色や、グラウンドの空気や、汗ばんで重く感じる身体の感覚や――今はまだ、当たり前にここに在る何もかもを、ちゃんと鮮明に思い出せるだろうか。
せめて、俺がこの一瞬に感じていたものだけは、忘れられずにいるといい。
そうして思い出すたびに、一瞬だけ、身体が世界から解き放たれた気になって、心がふわりと軽くなればいい。そう、思う。
今はまだ想像もつかない未来の自分のために、ひとつでも多くのものを残しておこう――そんなことを考えながら、俺は、今、五感に流れ込んでくる全ての情報を、忘れないよう、深く胸に刻み込んだ。
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