秋の終わり
夕暮れの近づく時間。
気温の下がる時間帯。
周りのビルは個々の影を伸ばし、誰がより多くの影を作れるのか競い合っている様に見える。
昼間の元気のある喧騒は家路を急ぎ、代わりに大人しい静けさが辺りを包み込もうとしていた。
とある街角。
とあるバス停。
とあるバスを待つ客が長椅子に腰を下ろし俯いていた。
何本もバスが通り過ぎて行ったが、彼はバスに乗る事無くその椅子に座り続けていた。
彼の背中からは哀愁が感じられ、周りが静けさに包まれるより一足先に宵闇に浸っている様にも見えた。
ここまで来るとそれはもう深夜の暗闇と言っていいのかもしれない。それ位の暗闇が見えた。
何が彼を暗闇へと誘ったのか。それは遡る事数時間前の出来事である……。
☆
まだ陽の光がこれでもかと喧しい昼過ぎ、彼はこの世に生を受けてから一度も味わったことのない出来事と直面していた。
告白。そう告白。彼は自分の気持ちをぶつけようとしていた。
彼には好きな人が出来た。この気持ちは生まれて初めてのものだった。
実際、彼は幼馴染に言われるまで自分が恋をしているという事に気付かなかったのだから。
彼は生徒会で副会長をしているが、彼が想いを寄せるのはその位のひとつ上、生徒会長その人である。
生徒会長は清廉潔白で人間として生徒誰しもが憧れる魅力を持ち、学年では右に出る者が居ない程成績優秀、
更には所属する弓道部でも一二を争う腕前の正に文武両道な人物であった。
そんな生徒会長に彼も特別な思いを持っている事実に関して言えば別段不思議な事ではなかった。
生徒会副会長をかれこれ半年程経験する事で生徒会長と話す機会も自然に増え、
生徒会長の人となりを周りからの評判だけではなく自分の実体験として知ることでより深く思う様になっている現実がそこにはあった。
彼は今まで体験したことのない不思議な感情が芽生えている事に少しずつ気づき始めていた。
これは一体何なのか、高校生になるまで勉強一筋だった彼が感じたことのない感情に困惑している時、
生徒会書記を務める幼馴染が彼にこう言った。『それは恋ではないか』と……。
その言葉を聞いた彼ははっとした。今まで心に巣食っていたモヤモヤした気持ちが一気に吹き飛んだのを感じた。
これが“恋”……。
これが“恋”なのか……。
これが“恋”なんだ!!
その事実に気づいた時、彼は幼馴染を目一杯抱きしめてから感謝の言葉を告げると踊るように外へと走りだしていた。
抱きしめられた時、頬を真っ赤に染めた幼馴染には気付かずに。
☆
彼はその時一大決心をした。
生徒会長に思いを告げる。「恋をしました」と告げるのだと。
例えどんな言葉が帰ってきても良い。「生まれて初めて恋をしました」とただ告げたい。
「恋をさせてくれて有難う御座います」とお礼が言いたい。その後については全く考えていない。
今まで経験したことのない感情の昂ぶりを感じながら彼は走る。この感情は抑えられない。
彼は授業が終わると一目散に生徒会室へと向かっていた。
生徒会長は毎日この時間には生徒会室におり、既に仕事に取り掛かっている筈だ。
実際、今日も扉を開けるといつもと同じ様に書類整理をする生徒会長の姿がそこにあった。
普段の冷静さとは違う彼の様子に驚く生徒会長。
それもその筈。彼は未だかつて生徒会室に果たし状を突きつけるが如く乗り込んできた事は無い。
どちらかと言えば、遅刻してきた生徒が先生にバレない様にそっと教室へ入る様な、気付けば居る様な存在だった。
そんな彼が扉を勢い良く開けて血相を変えて部屋へ入ってきたとしたら生徒会長でなくとも戦慄する。
しかし生徒会長も出来た人である。驚きをすぐさま心にしまい、笑顔で彼に接する。
『今日はどうしたんだい? いつもと様子が違うじゃないか』
生徒会長はこの後どんな言葉が来ても良い様に心の準備をしながら彼に声を掛ける。
しかし生徒会長の予測とは違った彼の言動に生徒会長も面食らう事になる。
「生徒会長! 今日は言いたいことがありまして急ぎやってきました!
生徒会長! 僕は今日初めて自分の内に秘めた思いに気付くことが出来ました!
それは生徒会長! 生徒会長の事が好きだと言う事です!
短い間ですが生徒会長と一緒にこの仕事をやってきて生徒会長の人となりに惹かれていました!
この気持ちが何だったのか、初めのうちは分かりませんでしたが今日やっとそれが分かりました!
これが愛というものなんですね! これがラブ! LOVE! 素晴らしい響きです!
この事に気付けた今日に感謝したい! 出来れば長く続いて欲しい! 夢なら醒めないで欲しい!
それを伝えたくて急ぎやってきました! もう一度伝えます! 生徒会長、好きです!」
彼の見たことのない気迫に押され、座っていた椅子から滑り落ちそうになる生徒会長。
持っていた書類を落としそうになるのを辛うじて堪え、震える手で書類をまとめ、目を閉じ、一呼吸する。
彼は言いたいことを言い終えて満足気な様子で笑顔を見せているが、生徒会長の顔は引きつっている。
『うーん、何と言えば良いんだろうか……』
生徒会長は真っ白になった頭で何とか次の言葉を絞り出そうとする。
「大丈夫です! すぐに返事が欲しい訳ではありません!」
『いや、そうじゃなくて……』
彼のどこから湧いてきたのか全く分からない自信に困惑しながら先に喋らない様にと手で制す生徒会長。
『まぁ……その……なんだ……。
一つ聞いて欲しい事があるんだが……。
君の言う愛ってのは多分ラブ……、恋愛の方の愛じゃなくて、ライク……そう、ライク。
敬愛や親愛の方の愛なんじゃないかなと思うんだ。だってほら……、俺達男同士だし』
その言葉に彼は衝撃を覚えた。好き合うだけが愛では無いと言うのか……。
そして男同士と言う事で確実に振られ、今は引かれていると言う現状に彼は耐えられなかった。
『まぁ、君も勉強一筋でその辺分からなかっただろうしなんたってまだ若いんだしさ。
勘違いしちゃうのもしょうがないと思うよ。そもそもここ男子校だしね。
ちゃんとした愛については他の女子校とかに掛け合ってあげるからさ……』
「そんな……そんな……!」
最早彼に生徒会長の言葉は届いていない。
『だからとりあえず、その気持ちはしまっておいて……』
「うわああああああああああ!!」
彼は生徒会長の言葉を最後まで聞く事が出来ず、来た道を再び走りだしていた。
☆
彼は生徒会室から逃げる様に走りだし、気付くといつも帰宅時にやって来るバス停へと辿り着いていた。
彼は人のいない長椅子に腰を下ろし、頭の中を整理していた。
生まれて初めての感情。それは恋ではなく敬いの気持ちだった。
確かに似たような感情ではあるのだろうが、それには表と裏程の違いがあった。
とんだ勘違いをしてしまった事に彼は激しく後悔していた。
あんな事を言ってしまい、明日どんな顔をして生徒会長と会えば良いのだろう……。
もしかしたら誰かが聞いていて、それを言いふらされているかもしれない。
そうでなくとも生徒会長が言いふらしてしまえばそれで終わりだ……。
どうしたら良いんだ……。
彼は暫く呆然とした後、ある事に気が付いた。
彼の気持ちを“恋”ではないかと言った人物が居る。彼を勘違いさせた人物が。
それを思い出した時、彼は背後に人の気配を感じ立ち上がり、後ろを振り返った。
『大丈夫?』
そこには幼馴染が心配そうな顔をして立っていた。
いつもの様に「大丈夫だ」と淡々と話そうとしたが、咄嗟に幼馴染の発言を思い出し言葉を飲み込んだ。
「なんであんな事を言ったんだ……?」
彼の初めての感情を“恋”と表現した言葉を。彼を勘違いさせた、その一言を。
『だって、気付いてくれないんだもん』
幼馴染は口を尖らせながら言葉を続ける。
『キミが鈍いのがいけないんだよ。
こんなに好きな人が一番近くに居るのに、ずっと会長の事ばっかり見てて。
だからキミが悩んでいるのを見て思ったんだ、ボクがどんな気持ちで居たのか分かって貰うために。
あの時本当に“恋”だと思ったでしょ? 愛しているんだ! って思ったでしょ?
キミは初めてそう思ったんだろうけど、ボクはずっと前からその気持ちで居たんだよ?
どれだけ恋い焦がれたと思う? どれだけ言葉にして伝えたい! って考えたと思う?
幸い生徒会長にそのつもりがなかったけど、別に男同士だって良いと思うよ。
性別なんて関係ないんだ。ボクが証明してアゲル……フフッ』
彼は体験したことのない背筋が凍る様な寒気に苛まれ、足が震えた。