2.2.夕日の教室で
「……それで、執事になろうって決心したわけ?」
洞爺さんはこちらに視線を向けてくる。
「まあ、そうなる」
「なんというか、あなた昔からちょろ……いえ、扱いやすい性格だったのね」
その視線には、いくらかの憐憫が含まれていた。
くそう、話すんじゃなかったと後悔させられる。
「いいじゃあないか、君には関係ないだろう?」
「いいえ、あるわよ」
洞爺さんは、真剣な表情でこちらを見やる。
「あなた、私との約束はどうしてくれるのよ?」
洞爺さんは不満そうに目を細め、こちらに近づいてくる。
しかし、思い出してほしい。ここは中庭のベンチ、公衆の面前である。
しかも、こちらに顔を近づけてくるのは、あの外面だけはいい洞爺唯子さんなのである。
必定、近くにいる生徒たちの視線はこちらに向けられ、さらに悠には恨みや怒りのふんだんに練りこまれた視線が容赦なく投げ込まれる。
しかし、隣の洞爺さんはそんなことを意にも介さないような様子で、さらにこちらに近づいてくる。黒い、艶やかな髪からは何ともいえない良い香りが悠の鼻腔をくすぐってくる。
「約束なんて知らない。いいから離れてくれって」
悠は耐えかねてベンチを立とうとする。
「待ちなさい」
そう言いながら洞爺さんが悠の手を取った時、悠はバランスを崩し、洞爺さんの方に倒れかける。
悠は倒れまいとベンチに手をつき、何とか体を支えることに成功した。
安堵したその瞬間、口元に柔らかなものが触れる感触があった。
すると目の前の洞爺さんの顔はみるみると赤くなり、ベンチから立ち上がると、こちらを向いて「バカ!」と一言叫び、校舎の方に走って行ってしまった。
1人残された悠は、漸く自らの置かれた状況を理解し、力なくベンチに座り込んだ。
中庭には、春だというのに冷え冷えとした風が吹きすさんでいた。
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「どうしてこうなったんだ……」
教室の席に座って悠はつぶやいていた。
中庭での出来事を思い出しながら口元に手を当てる。
これからの多難な学園生活について思案していると、心がさらに沈む気持ちがした。
ちらりと横を見ると、洞爺さんが残していった弁当箱が目に入った。
「そういえば、ごちそうさまって言い忘れてたなあ」
「洞爺さんのくちびるをか?」
ぎょっとして声のする方を見ると、郷が頬杖をついてニヤニヤと笑いながらこちらを向いていた。
「違う。というか、なんで知っているんだ!」
恐ろしいほどの耳の速さに驚愕する。
「あれ、本当だったのかよ! お前、ラブラブなのはいいが、大概にしておかないと本当に刺されるぞ?」
郷が心底面白そうに言ってくる。
「それで、洞爺さんとのキッスの味はどうだったんだよ?」
「うるさい。何でお前に教えないといけないんだよ。」
悠は郷の方を睨みながら言った。
その睨みも意に介さない様子で目前の男は、笑い続けている。
「まあ、そりゃあ洞爺さんのくちびるの味なんか、他の奴に教えたくなんかないよな。好きなだけ独り占めしてくれ」
「そういうことじゃあ、ないんだけど。」
「洞爺さんの方は、ずっと真っ赤になって俯いたまま何を話しても生返事しかしないらしいぜ。本当に、お前全生徒を敵にまわしちゃったかもよ?」
悠は黙ったまま窓の外を見やる。
事故とはいえ、そんなに気にされると申し訳ない気持ちになってくる。
「ともあれ、女の子のくちびるを奪っちゃったんだ。男として責任ってやつを取らないとな。」
郷はそう言うと、悠の肩を軽くたたいて教室の外へと出かけて行ってしまった。
午後の始業までは、残り5分ほどしかないのに。
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午後の退屈な座学(英語と作法の授業だった)をやっつけ、洞爺さんのいるクラスへと走る。何と言って話しかければいいのか、結局何も思いつかないままだった。
Aクラスのドアを開ける。
そこには放課後も語らういくつかの人影と、机に突っ伏した1つの人影があった。
喋りあっていた数人は、こちらの方を見ると、何かに気付いたように教室から走り出していってしまった。
そして夕日の差し込む教室には、人影がふたつ。
悠が何と言って話しかけようかと思案していると、クラスから話し声がなくなって不審に思ったのか、机に伏せっていた影がすっと起き上がる。
影は少しの間こちらの方に顔を向けると、ぷいっと視線を逸らし、また机へと伏せってしまった。
悠の方からは、西日のせいでその顔がどんな表情だったのかは、視認することができなかった。
悠はとりあえず、机に伏せる洞爺さんの方に歩を進めていく。
そしてその手前まで来たとき、洞爺さんがようやく顔を上げる。
「何しに来たのよ」
耳まで真っ赤になっている洞爺さんがぼそりと声を発する。
「いや、謝りにというか……」
「謝る? 言っておくけれど、そういうことなら許さないんだから」
洞爺さんはそう言うと、再びぷい、と向こうを向いてしまった。
「それじゃあ、どうしたら許してくれるんだよ」
悠は、途方に暮れたように尋ねる。
洞爺さんは、ちらりと向くと、ふふ、と口元を崩した。
「どうしても許してほしいの?」
「ああ、どうしても頼むよ」
「へえ、そうなの」
そういうと洞爺さんは少し考え込むそぶりを見せて、にこっと微笑む。
「許してあげないっ。」
そういうと席から立ち上がり、再び悠の方を向く。
「でも、そうね。どうしても許してほしいのなら、少しだけ目を瞑っていて。」
悠は言われたとおり目を瞑る。
洞爺さんの香りがだんだんと近くなってきている様な感じがする。
そして――
「もう目を開けていいわよ。」
えっ?
「それじゃあ、ここに名前を書いて頂戴。許して欲しいのなら、ね。」
洞爺さんはにっこりと笑いながらこちらにペンを差し出してくる。
目の前の机の上には、さっきまではなかったはずの紙が1枚、置いてあった。
名前を書くところ以外は、白紙で隠されている。
「これは、何?」
悠は不審に思いながら洞爺さんに問いかけた。
「いいから、書いて頂戴。許して欲しいんでしょう?」
洞爺さんに催促され、悠は不信感を抱きながらも名前を綴る。
その瞬間、洞爺さんがその紙を素早く取り上げてしまった。
そして、その紙をこちらに向けながら、うふふ、と笑いかける。
「それじゃ、これからよろしくね。悠?」
その紙には、こう書かれていた。
「――パートナー申請書――」
「それじゃ、私はちょっとこれを提出してくるから。昇降口のところで待っているのよ」
それだけ言うと、洞爺さんはくるりと回れ右して廊下をスキップしながら行ってしまった。
教室に残された悠は、1人立ち尽くすことしかできなかった。