1.4.フルーツ・ジュースは甘くない
鳥海悠は、ホールの前に立っていた。周りには、着飾った生徒たちが口々に何かを囁き合っている。
「日曜日、1日だけ付き合ってくれないかしら」
洞爺唯子が最後に頼んできたのは、こんなことだった。
そのくらいなら、ということでその時は悠も承諾することにした。
「しかしこれは……」
嫌な予感がして、このまま帰ってしまおうか、とそう思っていたとき、肩をポンと叩かれたので悠はそちらを向く。
すると、見知った顔がこちらに笑いかけていた。
「よう、悠。来ていたんだな」
そういって笑いかけてくるのは、白山郷だった。隣には、先日一緒にいた女の子を連れている。違うのは、正装しているということくらいか。
女の子は悠の方を見て、ジッと目を細めてくる。
「ああ、あのときは紹介してなかったな。こいつは伊勢 薫って言って、俺の幼馴染なんだ。こいつ人見知りでさあ」
郷は、幼馴染に向かって挨拶するように促す。
「うちのゴウがお世話になっているようだな。少し頼りないような気もするが、まあ、宜しく頼む。」
と、その幼馴染は上から目線であいさつしてきた。ただし、目線はこちらより少し下くらいだ。
よろしく、と返事して郷に話しかける。
「それで今日は、何の催しなんだ?」
「え、知らないで来たのか?今日は新入生の―――」
と郷が言いかけたとき、入り口が開放されたらしく生徒たちが続々と移動し始める。
その流れとともに郷と伊勢さんは、会場へと飲み込まれていった。
また後で、という声が遠くから聞こえたので、悠は手を振り友人を見送った。
大部分が会場の中に移動したとはいえ、会場前にはまだ多くの生徒たちがあふれていた。その中の一角で、壁に寄りかかっていると、声がした。
「もしかして、鳥海さんですか?」
声の主の方を見ると、見たことのあるような顔だった。見たことのある顔なのだが、記憶の引き出しが途中でつかえている様な感覚だった。
「入学式の時お会いしましたね。」
「ああ、メイド服の」
装い華やかなせいか、気づかなかった。初対面ではないことだけは分かってはいたが……
しかし、服装で女性というのはこうも違って見えるものなのか。
「そうなんですよ、なんだか落ち着かなくて…」
スカートの端を摘み上げながら、石鎚さんは、えへへ と笑う。
彼女の笑いは、一昨日見た笑顔と違っていて、何というか、邪気がないというか、心から笑っている様な印象を受けた。
「鳥海さんも待ち合わせですか?」
「ああ、まあそんなところです」
「そうですか、私もです。ということはパートナーも――」
石鎚さんがここまで言いかけたところで、周囲におおっ、という歓声が上がった。
そして、辺りは水を打ったように静まりかえる。
聞こえるのは、カツカツという足音だけだった。
その足音はどんどんと近づいてくる。
どうやら、待ち人がやってきたようだ。
「待ったかしら?」
目の前の美女、洞爺唯子は、悠に問いかける。
ざわざわ、と周りの生徒たちの視線が集まってくる。心なしか、悠への視線には棘があるような気がした。
隣の石鎚さんは驚いたようにこちらに視線を向ける。棘はない。
「今来たところさ」
と、悠が答えると、
「何か言ってくれたっていいんじゃないかしら?」
とにっこりと笑いかけながら、洞爺さんは小首を傾げてくる。
「ああ、綺麗だよ。今日しか見られないのが残念だ。」
と悠が冗談めかして言うと、すっ と洞爺さんは手を差し出してきた。
その手は取らない。絶対に。他の生徒に変な誤解をされては困る。
特に隣の石鎚さんなどには。
洞爺さんは隣にいる石鎚さんに微笑みかけ、悠の方に顔を向けてくる。
「さて、行きましょう。そろそろ時間よ。」
一言だけ言うと、会場に向けて歩を進めていく。一陣の風のようだった。
隣の女の子のことは、歯牙にもかけていないご様子だ。その滑らかな動きに、
おい待てよ、とその後を悠は追いかけるしかなかった。
もちろん、石鎚さんには別れの挨拶を忘れずに。
風の行く先には、入り口に向けて花道が開いたようであった。
会場に入ると、そこは針の筵だった。
「一緒に歩いてるだけで、なんだっていうんだ……」
と、会場の端の方で悠がつぶやいていると、隣の方から猛烈な殺気を感じた。
「それで、あの女は誰なのかしら?」
と怒りを湛えた笑顔で、こちらを見る女の子がいた。
洞爺 唯子さんである。
「石鎚さん、って娘だよ。君と違っていい笑顔で笑う。」
そんなことを聞いてどうする、と思いながら答える。
付き合うのは今日で最後だ―、というのは口には出さないでおく。
「いいえ、私には知っておく必要があるのよ。だって……」
と言いかけ、思い出したように微笑みながら、洞爺さんは言った。
「まあいいわ、どうせすぐにわかることになるから。」
会場が暗くなった。もうすぐこの歓迎会のようなものが始まるのだろう。
会場がざわめき立つ。
幕が上がる。
そして、その幕が最後まで上がり切った時、悠は言葉を失った。
― 嵌められた―
ステージに掲げられたボードにはこう書かれていた。
「新入生、パートナー決定おめでとう!」
隣の女は、もはや悪意を隠そうとはず、唇を少し釣り上げて笑っている。白い歯がこぼれているはずなのに、それを感じさせないほどのどす黒い何かが、その白さを掻き消していた。
「どう?わかったかしら。おめでとう、そしてこれからよろしくね。」
満足そうに笑いながら、端正な顔がこちらを向く。
「帰らせてもらう。」
悠が立ち上がり、出口に向かおうとすると、隣の女が声を発した。
「あら、そんなことをしていいのかしら。」
余裕綽々といった表情でこちらを向いている。
「用事を思い出した。申し訳ないがこれ以上ここにいるつもりはない。」
ぶっきらぼうに答える。
「あなたと組むような人がいると思っているの? 悪いけれど、あなたに勝ち目はないと思うわ。」
と、笑みを浮かべながらちらりと周囲を見やる。
会場は、悠を閉じ込める檻と化していた。
そしてそのカギを持っているのは、隣にいる女、洞爺唯子ただ一人。
悠は、腰を下ろすしかなかった。
洞爺唯子は、満足そうな顔でフルーツ・ジュースを勧めてくる。
くいっと、一思いに飲み切ると、囁きかけられる。
「これからもよろしくね、鳥海くん♪」
ジュースを飲み干した口の中には、酸っぱさと渋みしか残っていなかった。