愕然
「は……? あんた今、なんて言った?」
予想もしていなかった。
幸造が言うべきセリフ。幸造が口にするべき言葉。
そして幸造の動揺に俺は満足し、「急がなければ息子の命はないぞ」と得意気に切り込む。そんな絵しか想定していなかった。
だがそんなセリフを今、俺自身が口にしていた。
「聞こえなかったのか? もう一度言ってやってもいいが?」
幸造の声には相変わらず一切の乱れはない。
強心。いや、そんなものではない。いくら修羅場をくぐり抜けようと、こんな危機的状況で普通冷静にはいられないはずだ。並みの人間であれば。
「あんた、正気か?」
思わずそう口にした時点で、自分の負けが決定しているようで俺は早くも少し絶望していた。そんな俺の気持ちをよそに、幸造は変わらぬ口調で答えた。
「正気も正気だ。ありがとう。我が愚息を見つけてくれて。どこをほっつき歩いているのかとは思ったが、生きていたのか。だが、とっくの昔に出て行った他人以下の存在だ。どうなろうと知った事ではない。後は煮るなり焼くなり適当に処分しておいてくれ。親切な誘拐屋さん」
開いた口が塞がらないというのは正に今の俺自身の為に用意された言葉だ。
あんぐりと開いた口を戻す気になれなかった。
「いや、おい待てよ!」
ようやく口に出せた言葉はあまりに頼りなく力ないものだった。
――どうする? 何て言えばいい?
圧倒的な動揺。序盤にして完全にペースは崩された。
「息子だぞ?」
泣き落としの刑事のように、感情に訴えかけるつもりはなかったが、自然と出た言葉が誘拐という悪事に手を染めている自分とは対極にある正義の側の言葉だった。
「だから、金を払えと?」
「死ぬかもしれねえんだぞ」
「だから、殺すなら殺せと言っている」
駄目だ。全く俺の言葉が通らない。
おかしい。この父親はおかしいぞ。
俺は無力に寝転がる幸雄を哀れに見下ろした。
「こっちは忙しいんでね。切らせてもらうよ。始末が済んだのなら連絡をくれ。その時は速やかに警察を呼ばせてもらおう」
「なっ……」
「ああ、勘違いしないでくれよ。息子が死のうとどうでもいい。だが人殺しがいるのに野放しにするのは、世の中にとって不衛生だ。見過ごす事は出来ん。善良な市民として。では」
ぶつりと電話がきれた。
俺は放心し、がっくりと項垂れた。
力の抜けた手のひらから携帯は滑り落ち、かしゃんと床を打ち鳴らした。
――おかしい。こんなのおかしい。
人質を取られた人間のとる行動ではない。
淡々と冷酷に要求を告げる犯人。焦りこちらの目的を確認し、人質の安否に心臓を激しく打ち鳴らす。人質の命はこちらが握っていると主導権を振りかざし、電話口で嘆く声を嘲笑うように通話を切る。そうあるはずだった。なのに、幸造は自分から電話を切った。幸雄の命というライフラインを自分自身で切り離した。
信じがたい行動だった。
「ひひひ」
その時、神経を嬲るような、品位の低い笑い声が聞こえた。
自分ではない。その声は、俺の足元から聞こえた。
「ひひ、ひひひひひ」
俺は思わずその場に座りこんだ。
目を逸らせばいいのに、その瞬間に首元を噛み千切られるのではないかというあり得ない恐怖にとらわれ、俺はそいつから目を離せなかった。
下卑た笑いと、ひん剥いた狂気の視線を俺に向け、三好幸雄は笑っていたのだ。
――どうなってんだよ、ヒカリさん。
俺は夜の幻想的な世界に身を置く、俺にとっての唯一の女神の顔を思い浮かべた。