誘拐
三好幸雄。
それが今、俺の前にぐったりと横たわる男の名だ。
夜。誰も寄りつかない埠頭の廃工場。工場の暗がりの片隅に放り投げた男の体は、自由を奪っているのとは別に、浅い呼吸を続ける程度の動きしか見せない。
「おい、そろそろ起きろ」
寝ころんだ男の太ももを足で押し蹴り、体を揺さぶった。
「んー」
顔を思いっきりしかめた幸雄は、睡眠を邪魔された事への不快感を露わにしながらも、ごろりと動かした体を起こす気はまるでなさそうだった。
今度は強めに幸雄の体をゆすった。
「おい!」
「ん、んあ?」
ようやくそこで幸雄の塞がった瞼がゆっくりと開いた。
「いつまで暢気に寝てやがる」
「あれ? あれ?」
しっかりと開き切った瞳は見慣れない景色への戸惑いに溢れ、左右上下と顔を動かした。その際に自分の体が手足共に拘束されている事にも気付き、視線が手と足それぞれを見やり、視線でこれは一体どういう事かと俺に訴えかけた。
「大丈夫だ。大人しくしてりゃ何も起きない」
本心だった。俺はなるべく事を大きくしたくないし、無駄な暴力や殺生など起こす気もなかった。目的さえ完遂出来れば。
「人質らしくしといてくれよ」
そして俺は携帯に登録しておいたある番号を呼び出す。
怖さはあった。本当にうまくいくのか。だが、迷っていても仕方がない。
表示された番号に、俺は発信をかける。
しばらくして、はい、と深く渋い声色が返って来た。自分とは違う、煌びやかな世界に住む人間。到底手の届かない存在に、今俺は電波を介して繋がった。決して交わる事のない人生が交差した瞬間だった。
「三好幸造さんだな?」
「……どちらさんで?」
妥当で冷静な反応だった。急にかかってきた電話にも関わらず、乱れが一切ない。成功者として積み上げた俺には知り得ぬ経験値の成せる業か。だがこの次に俺が発する言葉にも、こいつは冷静でいられるだろうか。
俺は出し惜しみなく、手持ちのカードを切った。
「あんたの息子を預かってる。現金で1億円。すぐに用意してもらおうか」