二
ピピピという機械音が俺の鼓膜を震わせる。意識の外にあったその音は、やがてはっきりと聞こえるようになり、最終的には俺の眠りを邪魔し始めた。
俺は、唸りながら、目を閉じたまま、手探りで目覚ましを止めた。その後は、長い静寂が部屋に訪れた。
どれくらい経っただろうか。
瞼をゆっくり開く。
その先にあったのは、木造りの天井だった。カーテンの隙間からこぼれる光に照らされている。
視界に映るのはいつも同じ天井。また今日も、いつもと何ら変わらない、つまらない世界を何気なく過ごしていくのだろうか。
俺が中学生だったころ、この世界はこんなにつまらなかっただろうか。いつから、こんなつまらない世界に変わってしまったのだろうか。分からない。思い出せない。きっと、そんな事考えた事がなかったからだろう。ただ、あの頃は俺も、馬鹿だった。
世界は、時とともに変わっていく。変化は、自分の知らないうちに、自分の知らないところから、徐々に広がっていく。気が付くと世界は変わっている。もう元には戻らない。割れたガラスが元に戻らないように、秩序あるものが無秩序になってしまった後のように。
きっと、俺ら人間のような小さい存在には変えられないのだろう。変化後の世界がどれほどつまらなくても、どれほどくだらなくても、それはどうすることもできない。俺らに選択権はない。そんな世界で生きている意味なんて――。
もう、つまらない世界は飽き飽きだ。生きていても飽きない世界に変わってくれないだろうか。そんなことを思っていても、変わらない事ぐらい分かっている。それなら、いっそ誰ともかかわらず、何も考えないで一人で過ごしていきたい。他人とかかわるほど疲れるものはない。
ゴオオという轟音が、闇に閉ざされた孤独の部屋に鳴り響く。そして、部屋が小刻みに震えた。
この部屋は、線路のすぐ脇で、電車が通るたびに、轟音と共に揺れるのだった。もし普通の人だったら、うるさくて夜も眠れないと、すぐに出て行くだろう。しかし、俺――影宮アスカは、体質というのか分からないが、そんなにデリケートではなく、眠ろうと思えば、数秒で眠りに落ちてしまうのだった。大きな音がしようが、ベッドが揺れようが、簡単に眠れる。そのため、ここでの生活は俺にとっては決して苦ではなかった。ここに住んでから一年が過ぎたが、引っ越したいとは一度も思わなかった。
しばらくの間天井を睨みつけた後、俺は重い体を起こした。時計は六時を回っていた。俺は、憂鬱な気持ちを振り払うように大きく伸びをして、床に足を降ろした。床のひんやりとした冷たさが、足裏から全身に伝わって来る。
その時。ピンポーンというチャイムが玄関の方から聞こえてきた。
俺は、「またか」と呟き、のそのそと玄関に足を運んだ。ドアノブに手をかけようとした時、ドアの鍵が開いている事に気が付いた。昨日かけ忘れたのか。
次の瞬間、ガチャという音が聞こえた。え?と思ったのもつかの間、俺が伸ばした手は空を切った。
俺は、そのまま前のめりになった。目の前では、ドアが勢いよく開いて、そこから、何かが飛び出してくる。俺はかわす暇もなく、それと正面からぶつかった。胸の辺りに硬い感触を感じながら、後ろに倒れそうになる。しかし、ぐっと足に力を入れて踏ん張った。
一方、勢いよくぶつかってきたそれは、後ろに弾き飛ばされ、豪快にしりもちをついた。「いたた……」とおでこをさすっている。
「いやぁ、ごめん、ごめん。頭突きする気はなかったんだけど……」
俺はため息をつき、制服姿の彼女に手を差し出した。
彼女は、「ありがと」と俺の手を握って立ち上がった。
彼女の名前は、浜かすみ。可愛い黒髪のショートヘア、卵のようにきれいな楕円形の顔、くっきりとした二重、ふっくらと厚みのある唇。美しいのは顔立ちだけではなく、すらっとした体型に、ふくよかな胸や、制服のスカートからすらっと伸びた白い足など、全体的に彼女の外見は学校一だろう。
かすみは、俺を見て、えへへと笑うと、急に真面目な顔になった。そして、腰に右手を当て、「さっ、朝食を作るから」と言って、玄関に落ちた朝食の材料が入ったスーパ袋を手に掴み、有無も言わせず、中に入ってきた。
やっぱり、いつもと同じ世界だ。
かすみは、毎朝、朝食を作ってくれるのだった。
かすみの両親は、俺が高校生に入った時に死んだ両親の親友らしく、何かと気にかけてくれるのだ。俺とかすみも小学校からの幼馴染だった。ここまではよくある話。しかし、いつの間にか、俺の朝食をかすみが作ることになっていた。
俺は料理が出来ないわけではないが、味は平凡だ。それに比べ、かすみの料理は絶品の一言に限る。かすみの父も母もレストランのシェフであることもあってか、かすみの料理スキルは超高レベルであった。そのため、毎朝おいしい朝食を食べられることは、とても嬉しいのだが、同時に罪悪感が毎日のように積もっている。
しかし、かすみはいつも笑顔で朝食を作りに来ていた。
かすみは、早くもエプロンを着て料理を始めていた。
「今日はスクランブルエッグだから」
かすみは俺に微笑みながら言う。
俺はベッドに腰掛け、いつもと同じようにエプロン姿のかすみの後ろ姿を眺めた。
「なあ、確かにありがたいけど、もういいよ。お前も朝はゆっくりしたいだろ。俺みたいな不良にそんな構ってくれなくてもいいよ」
俺は目をつぶってベッドに横になった。
すると、ドンドンといった足音が近づいてきた。
「このアパートは下の人がうるさいからあんまり足音立てないでくれよ」
そう言いながら起き上がる。同時に、かすみが部屋に置いてある机の角に足をぶつけた。かすみはそれによってバランスを崩した。体がふらつき、体勢を立て直せないまま豪快にベッドに倒れてくる。
もちろんかわせるわけはなく、俺はまたもやベッドに倒れる事となった。
ベッドの上で俺たちは一度跳ね、それからかすみが俺の上に横になるかたちで落ち着いた。
気付くと目と鼻の先に、かすみの首元があった。少し細めの首が描くラインに思わず見蕩れてしまっていた。さらには、俺の上にのしかかるかすみの胸の感触が直に伝わって来る。こいつの胸、思っていた以上に――以下自粛。
と、次の瞬間、きゃっと声を上げてかすみは俺から離れた。
「いやはや……こけちゃった」
かすみは照れ笑いをしながらそう言った。
いまどき、いやはやって使う奴がいたのか。
俺は再びベッドから起き上がる。その横にかすみはそっと座った。
「アスカ君は不良じゃないよ。確かに、中学生の時は学校サボってばかりだったけど、高校生になってから学校しっかり行っているじゃん」
俺はため息をつき、「それはお前に悪いからだよ」と呆れ顔で言った。
「お前がわざわざ来てくれるから、学校行かないと悪いだろ。でも、授業だってほとんどサボっているし、成績だって悪いし」
「えっ、アスカ君、私のために学校来ているんだ。……嬉しい」
かすみがニッコリと笑顔で言ったからには、俺はドキドキせざるを得ない。俺は、「からかうなよ」と視線をかすみから外した。
かすみがフフフと笑う。
「ま、これは私の修行でもあるし、気を遣わなくていいんだよ」
俺は、「修行?」と訊き返した。
「これは、私の料理修行でもあるの。それに、いつか……」
そこでかすみは何かをためらうかのように、口を噤んだ。俺は、しばらく待ったが、かすみは黙り込んでしまっていた。
部屋が深い沈黙に包まれる。
俺は何とかこの沈黙をどこかに吹き飛ばそうと、俺は出来る限り満面の笑みを浮かべようと頑張った。
「ありがとな。こんな友達なかなかいないよ」
かすみは俺の顔を見て、
「アスカ君、笑顔へたくそ」
と微笑した。
どうせ、俺は笑顔がへたくそな不良ですよ。
「でも、アスカ君は笑顔が一番似合うよ」
不意を突かれ、俺は心臓が高鳴るのが分かった。
かすみは立ち上がると、正面から俺の頬をぐにっとつねった。
「そんな事を言われたのは初めてだ」
「そうかな?私はずっと前からそう思っていたけど」
にこっとそう言うと、かすみは踵を返してキッチンに戻っていった。
「とにかく、中学の時と比べたら成長だよ。うん、成長、成長!このまま、一緒に頑張ろうね」
どうやら、かすみを説得出来るのはまだまだ先のようだ。