第一話 猫と二人 - 8節 -
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結局残業をしてしまったので、美樹田が仕事を終えて駐車場に出てきた時には、既に辺りは暗闇に包まれていた。車に乗り込む前に、ボンネットを眺める。丁度一ヶ月前に、ここで猫が横たわっていた。家に連れ帰った後、猫の手当をし、車に付いた血を雑巾で丹念に洗った。ほんの一ヶ月前の事だ、よく覚えている。
美樹田はトップカウルに触れる。拭き残したのだろうか、まだ猫の毛が付いている。そうか。一ヶ月前か。美樹田は車にゆっくりと乗り込み、キーを回した。
帰宅途中、美樹田はコンビニで夕食用の握り飯を買った。家に着いてから着替えもそこそこに、PCで調べ事をしながら買った握り飯を食べる。調べているのは、今朝梨本から聞いて、休憩中でも携帯電話で調べていた、近辺で起こっている動物の惨殺事件だ。
昼間、携帯電話で調べた時も、思いのほか簡単に事件の事が出てきたが、PCで調べると、より詳しい情報が表示される。元々、この近辺で起きている動物の惨殺事件そのものは、去年から繰り返されていた事らしく、犯人は複数、単独、模倣、色々な可能性がネットでは噂されていた。
美樹田は事件に興味がある訳ではない。ましてや事件を解決してやろうなどとは露ほども思っていない。そんなものは警察が勝手に捜査をして、市民の知らない所で、ひっそりと解決すれば良いとさえ思う。
美樹田が事件を調べているのは、偏に目星を付ける為だった。当てもなく探し回るのは効率的ではない。見当違いかもしれないが、元々目星などは何処にもないのだ。それなら、動物を比較的見つけやすい場所で犯行を重ねている者を参考にすればよい。
幸い、事件が起きた場所は、全て美樹田の記憶にある場所だった。中には職場の僅か数キロメートルしか離れていない場所もあったので、そこを最後として、美樹田は事件があった場所を三四つ記憶して、車を出した。
一つめ。二つめ。三つめ。どの場所にも猫はいなかった。正確にいえば猫はいたのだが、白い靴下を履いたような柄の猫はいなかった。あまり期待はしていなかったが、ほんの少し、加糖練乳程度の甘い希望を抱いていたのだが、現実は、大体がこのような肩透かしだ。
さて、どうしたものか。今日はこれくらいにして、もう帰ろうか。
三つめの現場である団地の敷地内にある公園で、美樹田は少し休憩を取る事にした。ベンチに座り、煙草に火を点け、ゆっくりと吸う。ジャケットの袖から夜風が入って背中にまわる。
冷たい。
美樹田の家の出窓は、未だに開いたままだ。今日も家を出る時に気になったが、そのままにしておいた。もしかしたら帰ってくるかもしれない。
そんな甘い考えを、美樹田は煙と共に外気へと逃がす。プラスの、楽観的予想だけをしていてはいけない。いつからか、美樹田は悲観的予想を常に念頭に置くようになった。
いつからだろう、悲観的な予想で行動を制限するようになったのは。
何かを忘れている。以前にも、今のように何かを捜し、そして途方に暮れた事がある。何だったか、何を探していたのだろう……。
「ああ、そうか……」
思い出したのと同時に言葉が漏れた。周りに人はいない。自分の声だ。
美樹田は以前、今と同じように猫を探した事があった。実家の猫が、突然家から居なくなり、今回のように何日も帰ってこなかったのだ。確か、母に頼まれたのだ。事故にでも遭っていたらいけない、と母は息子に捜索を命じ、思春期の息子は、面倒臭がりながらも近所を探し回った。
そうだ。中学生の頃の記憶だ。あの時も、今のように公園のベンチで休憩をした。煙草は吸わなかったが、変わりに自動販売機で買ったお茶を飲んでいた。
その後どうしたのだろう……。
思い出した。猫は見付からなかったのだ。何処にも居なかった。いつまでも帰ってはこなかった。父は「猫は死ぬ姿を人に見せないから、寿命が近づくと、フラリとどこかへ居なくなる。ただ、猫は土地に住み着く。もし生きているのなら、何事もなかったように帰ってくる事もあるかもしれないな」と、中学生の美樹田に話して聞かせた。多分、慰められたのかもしれない。
そこから先、美樹田の記憶の日常に、猫の姿は無い。やはり、猫は帰ってこなかったのだ。
自らの記憶を探る美樹田を、携帯電話のバイブレーションが無理やり現実に引き戻す。携帯電話を開く。葉月からだ。
「もしもし、賢二君? 今どこにいるの?」
「えっと……」美樹田はゆっくりと周りの景色を観察する。公園のオレンジ色の街灯と、白い光を漏らす自動販売機以外、公園には美樹田一人しか居ない。「ちょっと公園に、散歩……、かな」
「かな、って何? 賢二君の家に行っても居ないから、どうしたのかと思っちゃったじゃない」
「あ、ごめん。いやまあ、何となくね。それよりどうしたの? 葉月さん、今日は来ないんじゃなかったっけ?」
「うん、そのつもりだったんだけど、思ったより早くに終わったから、ちょっと寄ってみただけ。それより、まさか恋人が家に来ない事を良い事に、浮気とかしてるんじゃないでしょうね?」
「してないよ」
「うわ、即答。な〜んか怪しいなぁ」
「何言ってるの?」美樹田は声のトーンが低くなる。
「あれ? 怒った? 嘘うそ、ごめん、冗談。怒らないで」
「別に怒ってないよ」
「ごめんねぇ。ちょっと悪ふざけが過ぎました」
「うん、まあ、気にしてないよ」
「そうそう、それよりさ、何で連絡くれなかったの? 仕事中だから気を遣ってくれたのかもしれないけど、メールくらいなら送ってくれても良かったんじゃない?」
「えっと、葉月さんからのメールの返信なら、昼にしたよ」
「そうじゃなくて」
「えっと、何だろう、どうにも話が噛み合ってないな。今、葉月さんは何処にいるの?」
「賢二君の家だよ。さっき言ったじゃない」
「うん、そうだよね。という事は……」
「え? もしかして知らないの?」
「何が?」
「あの子、戻ってきてるよ」
「あの子? 猫の事?」
「そうだよ。今は枕の上で寝てる。賢二君が見つけてきたんじゃないの? もしもし?」
美樹田は葉月の言葉を聞いて、またしても吹き出してしまった。今日は吹き出す事が多い。自分の過去と照らし合わせた悲観的イメージも、様々な可能性、予想も、全て吹き飛んでしまった。誰だ、事件に巻き込まれているかもしれない、などと考えた奴は。
「もしも〜し! 何笑ってんのぉ! 聞こえてますかぁ!」僅かに離した携帯電話から葉月の声が聞こえる。
「ああ、ごめん。ちょっと可笑しくってさ。うん、しっかり聞こえてるよ」
「どうしたの、いきなり?」
「まあ色々と。えっと、葉月さんはこの後の時間、大丈夫?」
「そうねぇ、明日も仕事だけど、うん、二時間くらいなら大丈夫。けど何で?」
「二時間くらいね、うん、分かった。じゃあ、これからすぐ帰るから、家で待っていてくれるかな」
「うわ! 何? 賢二君がそんな事言うなんて、珍しい! もしかしてもう初雪かしら」葉月の声には笑い声が混じっている。
「うん、まあ、少しだけ気分が良いからね。ていうか葉月さん、結構失礼な事言ってるよ」
美樹田と葉月はそう言いながら電話口で笑いあった。自分でも不思議な程に機嫌が良いようだ。葉月は電話の切り際に「それでは、お待ちしておりますわ」と言っていた。葉月も機嫌が良いようだ。
さて、帰りに何を買っていこう。家に帰ったら、もう今日は車を運転する事がないので、アルコールでも買っていこうか。アルコールに対する抵抗は、人並み以下の美樹田だが、それでもたまには飲みたくなる事がある。例えば気分が良い時や、何かを祝いたくなる時などがそうだ。
美樹田は車に乗り込みながら思いを巡らす。自分用に缶ビールを一本、葉月には缶のカクテルを一本買おう。つまむものは、冷蔵庫に何かしら入っているだろう。もしかしたら、美樹田が帰るまでに、葉月が何か簡単なものなら作ってくれているかもしれない。車のキーを回して、シフトレバーを動かす。
それと……。
シフトレバーを動かす手を止め、もう一つ買って帰る物を思い出す。そうそう、猫の為に猫缶も一つ、忘れずに。