第一話 猫と二人 - 6節 -
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猫が美樹田の家を抜け出してから、既に四日が経っていた。未だに美樹田の寝室の出窓は開けっ放しのままだ。防犯上あまりよくないのかもしれないが、美樹田にしてみれば、家の中には盗られて困るものなど置いていないので、特に問題はなかった。葉月は、あの日から三日間、毎日欠かさず美樹田の家を訪れていた。口では「やっぱり野良ちゃんは野良が一番良いのかな」などと言ってはいるが、明らかにその言葉には白々しさがあり、表情はどこか寂しそうだった。
一ヶ月。たった一ヶ月の間しか猫は美樹田の家にいなかったが、それでも容易く人の心に入ってくる。いつか感じた事があるような感覚。いつだったか、今と似たような感覚をした事がある。胸の辺りに、もやが掛かったような感覚。
美樹田は、思い出そうとして、すぐに思考を停めた。今は車を運転している。あまり深く考えると、事故の原因になる。
赤信号。
外の空気は、今朝、起きた時と同じで、少しだけ冷たい。
これだから、猫はあまり好きになれない。
職場の更衣室。美樹田は自分の荷物をロッカーに入れると、いつものように作業着に着替える。常日頃から、ある程度余裕を持って出勤しているので、朝礼まで急いで着替える必要はないのだが、ここ数日は何だか手持ち無沙汰で、早めに着替えている美樹田だった。
「おはようございます、美樹田先輩」
今年の中頃に中途で入った後輩の梨本が挨拶をする。年齢は二十歳になったばかりで、驚くべき事に、妻帯者だという。出勤時の身なりは、今時という表現がよく似合う男だが、意外と礼儀正しい部分があったりして、美樹田には比較的懐いている。何より、班が同じという事は大きい。基本的に班単位で動く職場なので、必然的に班員同士の交流は深まる。
「おはよう。どうしたの? 今日は早いね」美樹田は表情を変えずに言った。
「いやあ、俺だってたまには早く来ますよ」梨本はロッカーに荷物を入れながら笑う。「あれ? どうかしたんですか先輩? 何かテンション低いですけど、彼女さんと喧嘩でもしたんスか?」
「いや、別に喧嘩もしてないし、普段通りだよ。それに僕、朝はあんまり強くなくてね」
「ああ、低血圧なんスね」と梨本は話しながら着替えだした。「それより先輩、この前棚橋さんの事聞いたじゃないですか? その時は何だろうって思ったんスけど、昨日、俺も棚橋さんの話聞きましたよ。逮捕されたって噂なんスよね、あの人」
「ああ、その事ね。うん、そういう噂だね。けど、噂とはいえ、あんまりそういう話を大声でしない方が良いよ。気を付けないと、菅田さんみたいになってしまうよ?」
「それはマジでゴメンだなぁ」梨本は笑う。何故か美樹田のいる班は、良く笑う人間が集まる。「それで、そうそう、棚橋さんの話なんスけど、どうやら昨日別の班の奴から聞いた話だと、あの噂って、完っ全なデマらしいですよ」
「デマ? へえ、そうなんだ」
「何か、そいつ棚橋さんと同じ班だったんですけど、何でも地方に引っ越すから、その関係で辞めたらしいんスよね。逮捕なんて真っ赤なデマ」
「ふうん。そうなんだ」
美樹田は棚橋とは一度しか話していない。正直、逮捕と聞いた時にはピンと来なかったが、今の梨本の話を聞いて納得がいった。恐らく、マイハウスを購入したのだろう。それならば、息子が猫を飼いたい、という話もしっくりくる。新居の話だったのだ。
「じゃあ、動物を殺しまわっていた人が逮捕されたの、あれもデマ?」美樹田は着替えの手を止め、梨本に顔を向ける。
「いやいや、あれはちゃんと逮捕されましたよ。この前テレビでやってたじゃないッスか」
「そうなんだ。僕、あまりテレビ見ないから知らなかったよ」
正確には、「テレビは全く見ない」になるのだが、面倒なので濁した。梨本は「さすが美樹田さん」と笑うと、思い出したように着替えの手を止め、美樹田に人差し指を向ける。
「あ、でも、捕まったのはあくまで一人ですよ。別に、解決している訳じゃないッスからね、あれ」
「どういう事?」美樹田の中で何かが引っ掛かった。
「いえ、ですからぁ、この前捕まったのは九州の方でやってた奴で、この辺でやっている奴はまだ捕まってないんスよ。昨日もやられてたらしいし」
「へえ……。梨本君は、見たの?」
「犯人っスか? やだなぁ、見てないですよ」
「いや、やられた猫の方」
「ああ、やられた方ですか? いえ、見てないっスね。昨日の夜、嫁が騒いでたんで、それで聞いたんですよ。何でも、嫁がいうには、バラバラにされてたって」
「そう……。うん、ありがとう」
梨本とは、もうその日は話す機会がなかった。美樹田は仕事中あまり私語をいわず淡々と仕事をするので、仕事中に話す事はなく、休憩時間は、梨本は菅田と話していた。特に二人の会話に参加する気にはならないので、美樹田は自分の携帯で、今朝梨本から聞いた話を調べていた。途中、葉月から何通かメールが届いたので、その返信もする。葉月は、今日は残業があるので、美樹田の家には来られないという。返信のメールを送信すると、携帯を畳んで、仕事が終わった後の動きを考える。今日発売の雑誌はないか、家には読み掛けの本はないか、葉月が来られなくなったというのならば食事はどうするか、美樹田は自分の行動を分析する。幸い、本に関しては大した問題がない。夕食は、コンビニで握り飯でも買って食べればよいだろう。