第一話 猫と二人 - 5節 -
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「ほらね、私の言った通りでしょ」
予想はしていたが、見事にその通りの台詞を言われてしまった。
結局、美樹田は葉月にその日の昼にあった話をした。以前より、こういうお互いの日常の話をよくするようになったので、これはその影響といえる。キッチンで夕食の準備をしている葉月は続ける。
「でも、良かったじゃない。その先輩、もう警察に捕まったんでしょ?」
「うん、まあ、菅田さんの話を鵜呑みにするならね」
「え? どういう事? その人って、よくそういう冗談を言う人なの?」キッチンに立っているので、美樹田に背を向けた形の葉月は、振り返りながら言う。
「いや、そういう訳じゃなくて、只単に、話し好きの人って、ちょっと話をオーバーにする傾向があるでしょ」
「そうねぇ、言われてみればそうかも」自分の知り合いにも心当たりがあるのか、葉月は笑っている。
「それでさ、一応気になって、その事を他の先輩達や後輩にも聞いてみたんだけど、何か、辞めた棚橋さんの事はあまりみんな知らないんだよね。まあ、元々無口な人だったから仕方がないとは思うんだけど」
「ふうん……」葉月はキッチンから美樹田のいる部屋へ戻ると、ソファに座っている美樹田の隣に座り、飲みかけのコーヒーを飲む。「じゃあ、その話の真偽は分からなかったんだ」
「シンギって、あまり使わない言葉だね」美樹田は笑いを堪える。笑いのツボが少しずれている美樹田だ。「でも、そういう事件が起きていたのは本当みたいだよ。犯人も、同じような時期に捕まっているらしいし」
「じゃあ、あながち嘘って訳でもないわけね。いやだなぁ、そういうの……」
「うん。あんまり良い気分にはなれないよね」美樹田は部屋を見回し、猫を探す。どうやら美樹田達のいる部屋には居ないようなので、隣の寝室にいるのだろう。
「ねえ賢二君、そういう人って、どうしてそういう事をするのかな?」葉月はマグカップを両手で持つと、どこか遠くを見ているように眼を細める。「やっぱり、ストレスなのかな? でも、そこまで辛いストレスを抱える事って、ある? 自分より弱い動物を傷つけてまで発散しなくちゃいけないストレスって、何?」
「うん、そうだね……」美樹田は煙草に火を点ける。「そういう事って、少し難しい問題だよ。ほら、一言でストレスって言っても、感じ方も溜まり方も人それぞれだし、それに、そういうものって眼に見えるものじゃないからさ」
「それはそうだけど……」そう言うと、葉月は美樹田の方を向く。視線が重なる。真剣な瞳だ。「でも、やっぱり私は嫌だな。私だったら、そこまでにストレスを抱える前に小出しで発散するもの。まして、動物を虐待して発散するなんて絶対に嫌! 有り得ない!」
「うん、まあ……、葉月さんは、優しいからね」美樹田は葉月から視線を外すと、煙草の先に焦点を合わせる。「でもさ、その規模や大小に差はあっても、人って、意外と自分以外には簡単に冷たくなれるんだよね」
「賢二君も、そうなの?」
「うん、結構そういう所はあるかも」横目で葉月を見る。
「へえ……。あ……、でも何か分かる気がする。賢二君って、そういう所、冷めてるっていうか、結構ドライだよね。うん、そう思うと、意外じゃないかな」葉月は、うんうんと小さく頷くと、前を向き、マグカップに口を付ける。二人の後側にあるキッチンからは、コトコトと小さく沸騰する音だけがする。静かだ。
「まあ、何ていうか、ほら、あんまり、こういう話って今まであんまりしてこなかったじゃない? だからさ、その所為かも」妙な沈黙に当てられて、美樹田は言葉が詰まる。
「ね、三年も付き合ってるのに、変だよね、私達」葉月は笑う。
「まあ、そうなのかな。よく分からないけど」
「お互いの家だってさ、そんなに離れている訳でもないのに、何で今までこういう風に会ったりしなかったのかな」
「タイミングが合わなかったり、きっかけがなかったりとか」
「そうそう。でも、それも変な話だよねぇ。恋人同士なのに、タイミングやきっかけがないと会わないって」葉月は美樹田に20センチ近づく。美樹田は動かない。
「うん、でも、それも人それぞれかもよ。理由はともあれ、動物を傷つけて平気な人もいれば、僕らみたいに、あまり深い話をしなくても三年間付き合っていける人達もいる、ってだけの話だよ、きっと」
「そうね。て、大丈夫ぅ? 何か動揺してるみたいだけど」葉月は、にやけ顔のまま美樹田を覗き込む。
「大丈夫。ちょっと、こういう話題と空気に慣れてないだけ。じきに慣れる」
動揺を隠すように、美樹田はゆっくりと煙草を吸う。葉月は隣で足をばたつかせながら笑っている。「ね? 何か、こういうのって楽しいね。一緒に住むと、こんな感じなのかな」
「どうかな、何とも言えないけど……」
「けど?」
「悪くはない、かな」
葉月は吹き出すように笑うと、「仕方がないなぁ。今日の所はこれくらいで勘弁してあげよう」と言い残すと、ソファから立ち上がり、キッチンの方へと移動する。ここ数週間の変化の影響か、まさに怒濤の勢いを感じずにはいられない美樹田だった。煙草がギリギリまで短くなっている。肩も、心なしか凝っているような気がする。
隣の部屋から風が流れ込んでくる。秋口の、少し冷たい風が、先程の不慣れな空気を入れ換えてくれるようで、心地よい。
「よし! 上出来!」葉月の声が後のキッチンから聞こえる。夕食の準備が済んだようだ。「ねえ賢二君、ちょっと料理運ぶの手伝って」
「良いよ。分かった」
葉月に渡されるまま、美樹田は料理を運ぶ。今日の夕食は、豚の生姜焼き、冷や奴、里芋の煮付け、シジミの味噌汁だ。こういう場合、例え昼に食べたメニューと同じ品があっても、黙っている事が礼儀だ。それに、美樹田にしてみれば、豚の生姜焼きは好きな料理の部類に入るので、特に不満はない。三食豚の生姜焼きでも、きっと文句一つ言わずに食べるだろう。
料理を粗方運び終えた所で、葉月は猫の餌を用意しだした。「おおい、ご飯だよぅ」と呟きながら、隣の部屋へ猫を探しに行く。
そこで美樹田は、不意に思い出した。何故、先程風を感じたのだろう。外の空気を感じたという事は、窓は開いている事になる。
美樹田は自分で開けたかどうかを思い出す。
開けている。
今日は少しだけ残業があったので、帰りはいつもより遅くなってしまった。帰ってきた時には葉月がいて、既に夕食の支度を始めていた。暖房が少し効きすぎていて、寝室に荷物を置いている時に、確かに出窓を開けた。その後、閉めた覚えはない。窓を開けっ放しにしておいた事で起きうる事の可能性を、片っ端から考える。一瞬の不安。
「ねえ、葉月さん? そこの窓……」
「いないんだけど……」
「え?」
「あの子、何処にもいない……」
美樹田は立ち上がると、寝室をくまなく探した。ベットの下、押し入れの中、玩具箱もひっくり返し、文字通り部屋中くまなく探し回ったが、猫は家の中にはいなかった。想像した可能性の最悪が、ものの見事に的中した。こういう最悪程よく当たる。葉月は、窓を開けっ放しにしていた美樹田を責めることなく、直ぐさま美樹田に「外へ探しに行こう!」と提案した。美樹田も黙って頷くと、二人は外へ探しに行った。けれど、夜も八時を過ぎた時間帯で猫を、しかも黒地の猫を探し出すのは困難だった。
「駄目……。全然、見付からない……」葉月は息も絶え絶えに言う。
「うん、こっちも駄目、だね。やっぱり、夜中だと見つけづらいよ……」美樹田も久し振りに走り回ったので、息が切れている。
「怪我は? 怪我はもうちゃんと治ってるの?」呼吸を落ち着かせると、葉月は美樹田に聞いた。
「ほぼ完治している筈だよ」
「やっぱり、あの子、野良の方がいいのかな……」
「猫は土地に住み着くって言うしね」そこまでいうと、美樹田は葉月と視線を合わせる。「でも、分からないよ。明日になれば帰ってくるかも。猫ってさ、勝手に居なくなったかと思ったら、やっぱり勝手に帰ってきたりするもんなんだ。僕の実家の猫もそうだったし」
「そういうものなの?」
「うん。だから、取り敢えず今日は様子を見て帰ろう」
「分かった……。じゃあ、帰ってこれるように窓を少し開けておかなきゃね」
「そうだね。ちょっと、寒いけど」美樹田は口元を僅かに上げる。
「自業自得です」
そういうと、二人は美樹田の家へ戻った。すっかり冷めてしまった料理を温め直して食べ、葉月は片付けをしてから自宅へ戻った。美樹田は葉月が帰った後、仕事帰りに買ってきた雑誌を読んだが、あまり内容が頭に入らなかった。風呂に入り、歯を磨き、翌日の準備をして、その日はいつもより早めにベットに潜った。猫一匹分だけ僅かに開けた窓から入ってくる冷たい風が妙に肌寒くて、美樹田はその日、毛布を身体に巻き付けるようにして眠りに落ちた。
靴下を履いた名もなき猫は、翌日も、そのまた翌日も、美樹田の家には帰ってこなかった。