第一話 猫と二人 - 4節 -
4
結局、美樹田が猫の怪我が治るまでは責任を持って飼う、という事で話がまとまった。美樹田としては、動ける時点で放逐しても良かったのだが、葉月は一度言い出すと頑として譲らない所がある。恋人の頼みなので仕方なく了承したが、どうしても仕事や都合によっては面倒を見きれない時がある。そういう時のために、美樹田一人が面倒を見るのではなく、葉月にも面倒を見るように頼んだ。これは快く了承を貰えた。葉月は美樹田の家の合い鍵を持っているので、時間の空きが出来たら面倒を見るという。そう言った葉月の楽しそうな笑顔が、美樹田にはとても印象に残っている。
葉月と美樹田の家はそれ程離れた距離ではない。駅の区間で言えば三駅分だ。訪ねようとすれば、いつでも訪ねる事が出来る距離だが、今までは訪ねる理由が特になかった。今は、猫の面倒をみる、という共通の目的があるため、葉月は美樹田の家に二日に一度は訪ねてくるようになった。付き合い始めてから今まで、ここまで頻繁に会う事はなかった。人生、何をきっかけに変化があるか分からない。
そうこうしている間に、美樹田が負傷した猫を拾ってから一ヶ月が過ぎた。今も葉月は二日に一度は美樹田の家に訪ねてくる。仕事があるので、泊まっていく事は無く、二三時間の間に、葉月の作った夕食を美樹田と共に食べ、猫の世話をし、そして帰るのだが、それでもほぼ毎日のように来ていた。葉月が来る時は必ず猫の遊び道具を買ってくるので、美樹田の家には、新たに猫の玩具箱というものが置かれるようになった。また、葉月が頻繁に来るという事は、必然的に美樹田の部屋の中も以前より格段に片付けられ、自然発生的に作られる活字の塔も、今は活字の高台と呼べる代物が一つ、ソファの横にあるだけだ。
猫はというと、怪我はほぼ完治しているようだった。ただ、それでもまだ違和感はあるらしく、たまに怪我をしている方の足を小刻みに振る仕草をしている。
驚くべき事に、名前は未だに決まっていない。美樹田は猫の名前を呼ぶ事はないので、呼ぶ時はただ「おいで」「ご飯だよ」と言うくらいだし、葉月は「この子」「あの子」という呼び名で通してしまっている。名前が無いのは可哀想だ、と言っていたのは誰だったか、などとは考えてはいけない。もしかしたら『子』という名前かもしれないし、何より本人が良いのならそれで良いではないか、と美樹田は考える。平和が一番だ。
そうして猫と過ごした一ヶ月間、美樹田の職場でも変化があった。以前、美樹田に話し掛けてきた寡黙な先輩が退職したのだ。どんな理由で退職したのか美樹田は知らない。特に知る必要もない、と考えていたが、御丁寧な事にというか、御親切な事にというか、やはり話し好きの先輩は聞いてもいないのに美樹田に話し掛けてきた。
職場の休憩時間。今回も昼の時間で、美樹田は一人で食堂のAセットを食べていた。メニューは豚の生姜焼きに、味噌汁とご飯、それに漬け物である。ちなみにBセットは、かき揚げ丼。ここのかき揚げは、サイズこそ大きいものの、稀に中が生の場合があり、以前、美樹田はそれが原因で腹を壊した経験がある。君子危うきに近寄らず、だ。
「おいおい、美樹田! 聞いたか? 棚橋の奴、辞めちまったらしいぞ」
棚橋というは、以前、美樹田に話し掛けてきた寡黙な先輩の名前だ。美樹田の席の向かいにトレイを持ったまま立っている話し好きの先輩は、名を菅田といい、周りからは密かに『菅田の前では沈黙なし』と恐れられる程の話し好きだ。ちなみに、美樹田はあまり得意ではない。つまりは苦手だ。
「へえ、棚橋さん辞めちゃったんですか。班も違いますからね、それは知りませんでした」
「まあなぁ、他班の奴の事なんか、余程親しくしていない限り分からんよなぁ。俺らは基本、班単位で動いているからな、お前が知らないのも無理はない」菅田は騒々しく椅子を引くと、美樹田の向かいに座る。「って、おい、お前そんなんで足りるのか? 何なら俺のコロッケ一つやろうか?」
「あ、いえ、お構いなく」
美樹田は菅田の申し出を丁重に断った。「なんだ、相変わらず小食だな」と笑う菅田。手元のトレイをみると、Bセットのかき揚げ丼に、単品でコロッケが二つ、それにモツ煮もある。見ているだけで胸焼けがしそうだ。
「しかしなぁ、辞めるっつってもこの時期に辞められたんじゃ、俺らの班にまでそのしわ寄せが来そうな感じがするってもんだ。……て、おい、まぁたかき揚げの中が生だよ。ったく、この前食堂のおばちゃんに言っといたんだけどな、ちゃんと中まで火ぃ通せ、てよ。聞こえてなかったんかな、ちょっと耳悪いよな? ここのおばちゃん」
「はあ、それはお気の毒様です」
美樹田は、文句があれば食べなければよい、とも思ったが、黙ってキャベツの千切りにマヨネーズを掛ける。下手な事を話し掛ければ、そこから無限に話が広がっていくので、菅田相手には、特に言葉を選ばなければならない。
「ところでよ、お前、棚橋が辞めた理由って知ってるか? これが結構凄いんだよ。ここだけの話、つっても向こうの班は全員知ってるんだけどよ」
「どうして辞めたんですか?」
こういった、相手があからさまに望んでいる返答をするのは、ひとえに先輩に対する礼儀だと感じる美樹田だ。
「ああ、それがな、どうやら捕まったらしいんだよ、警察に……」最後は小声になり、顔も神妙さを表している。きっと、演出の一環だろう。
「逮捕されたんですか? 僕、一ヶ月くらい前に棚橋さんに話し掛けられましたけど、そんな感じはしなかったですよ」
「おいおい、お前と棚橋が楽しく会話って、妙な感じだなぁ」菅田は神妙な面持ちから一転、大笑いをし出した。「で、どんな事を話したんだ?」
「大した話じゃなかったですよ。確か、棚橋さんの息子さんが猫を飼いたがっているとか、僕の実家で昔猫を飼っていたとか、そんな話です」
「それだ」菅田は勢いよく身を引く。
どれだ? と美樹田は思ったが、素直に黙っている。菅田はまた神妙な面持ちになる。引いた身を元に戻したかと思うと、今度はテーブルに身を乗り出し、美樹田に顔を近づける。美樹田は菅田が近づいた分だけ後に仰け反る。この菅田の挙動は半ば通例なので、美樹田の動きは条件反射に近いが、菅田もその動きは読んでいたのか、「もう少しこっちに寄れ」といわんばかりに、小刻みに手招きをする。諦めて近づくしかない。
「あのな……、聞いた話によると、棚橋はどうやら自宅の近所の野良猫やら野良犬なんかを殺し廻ってたらしいんだよ。それも、一匹や二匹じゃないぞ、何十匹もの動物をナイフで夜な夜な切り刻んでたらしい……」
「へえ、そうなんですか」眉に唾を付けたかったが、黙ってキャベツを食べる。
「ほら、この前もウチの駐車場に猫の死体が転がってて、ちょっと騒ぎになっただろ? 実は、あれも棚橋がやったんじゃないかって噂だ」
「ああ、そういえばありましたね、そんな事」
菅田が言っているのは、先週の頭に、会社の駐車場の脇に猫の死体があったという話だ。そんなに大きな騒ぎになっていたとは思えなかった。美樹田は興味がなかったので現場を見に行っていないが、わざわざ見に行った他の先輩の話によると、轢かれたようだという。それも保健所に電話をして、いとも簡単に問題が解決している。話し好きの人間は、その七割が話を誇張する傾向にある、と美樹田は分析している。
「お前も気を付けろよ。世の中には、そういう奴も結構いるもんなんだ。自分の飼っている猫がそんな風に殺されたら、幾らお前だって嫌だろ?」
「そうですけど、何で菅田さん、僕が猫を飼っているって知っているんですか?」正確には飼っている訳ではない、と美樹田は考えているが、話せば面倒なので飼っている事にする。
「ああ? そんなの簡単だろ。お前、自分じゃ気付いてないかもしれないけど、結構服に猫の毛が付いてるぜ」
「ああ……、なるほど」
話し好きの人間の約五割は、そうでない人間に比べて観察眼が鋭い。念入りに毛は取っていたはずだが、それでも僅かに取り残した毛を、菅田は見逃さなかったのだ。もう少し、念入りに毛のチェックをしなければいけないな、と美樹田は考えた。下手な隙を与えてしまえば、いとも容易くプライベートな事まで踏み込まれてしまいそうだ。油断大敵とは、まさにこの事である。
ただ、棚橋の事には多少の驚きがあった。どこまでが事実だか分からないが、仮に事実だとして、もしかしたら、今家にいる猫も、棚橋の犠牲になりかけたのかもしれない。そうだとしたら、葉月の言っていた通りではないか。これは話をするかどうか迷う所だ。きっと、この話をしたら、葉月は得意満面の笑みで、「ほらね、私の言った通りでしょ」と言うに決まっている。どうしたものか。美樹田はそんな事を考えながら、未だ続く菅田の話を右から左に流しつつ、最後に残った漬け物を食べていた。