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第一話 猫と二人 - 3節 -


「うぅわあ! 可愛い! ほんとに靴下履いてるみたい!」

「え? 僕の話、信じてなかったの?」

 葉月は美樹田の家に入るなり声を上げた。美樹田の家は都心から少し離れた場所にある2Kの賃貸アパートで、二人は飲茶の店を出た後、約四十分かけて美樹田の家に辿り着いた。部屋の中は幸いにも先々週に葉月が来た時に片付けていってくれたので、活字の塔は二つ程で収まっている。

「そりゃあねえ、見た目の事に関しては話半分でちゅよねぇ? この人変わってまちゅもんねぇ? ほら、この子もそうだって言ってるよ」

「たぶん、言ってないと思うよ」

 動物に話し掛ける時、よく言葉がおかしくなる人種がいるのは美樹田も知っていた。動物好きと呼ばれる人達の多くがそうだ。自分の恋人もそうだとは今初めて知ったが、美樹田は特にその事について何も言わずに黙っている事にした。触らぬ神に祟りなし、だ。

 葉月は猫を転がすように撫で回すと、「この子お腹ぱんぱんだぁ。ちゃんとおトイレしてるのかな? 知らない家で緊張しているんでちゅねぇ」と、独り言のように笑いながら呟いている。楽しそうだ。これだけで猫を拾ってきた報酬としてはお釣りが来る。

「で、名前考えた?」葉月は猫の喉をさすりながら聞いた。

「え?」

「「え?」 じゃないよ。この子の名前決める為に、わざわざ映画を見るのをやめて賢二君の家まで来たんでしょ?」

「あぁ……、そういえば、そんな話だったね」

 これは予想外だった。美樹田は、てっきり猫の名前は葉月が決めるものだと考えていたからだ。葉月は猫の喉をさすったまま何も言わない。明らかに美樹田の返答を待っている。どうやら葉月は美樹田の家に着くまでの間、美樹田自身も名前を考えていたものだと思っているようだ。

 さて、どうしたものか。これで「あ、全く考えていなかったよ」では通じないだろう。否、通じはしても他に何か色々言われるだろう。または言葉を変えて、「そんなの考えているわけないじゃないか!」と、少し興奮気味に言ってみても、やはり駄目だろう。むしろ、この手の奇をてらった手法を使うと、大概はロクでもない結果が待っているのは安易に予想出来る。

 仕方がないので、非常時のように大急ぎで頭を働かせる。美樹田の頭の中でまわる単語。シロクロ、モノトーン、キズモノ、クツシタ……。自分でも驚くほどにボキャブラリーが少ない。

「えっと……、ショウ……リン?」

「はい? ショウリンって言ったの? 何、ショウリンって」

「いや、ほら、そいつ額にポツポツ斑点があるでしょ。確か昔観た映画の少林寺の人ってそんな感じだった……、と思う」

「あぁ、そっか……、なるほど、確かにそう言われればそう見えるかも……」葉月は猫の額をじっと見つめた。「でも駄目、却下ですぅ」

「後学の為に一応聞くけど、その心は?」

「可愛くない」

「あぁ……」

 それなら僕に聞かずに自分で決めなよ、という言葉が真っ先に浮かんできた美樹田だったが、今回もやはり黙っている事に決めた。葉月との会話に限らず、美樹田は素直に思った事を飲み込む習性がある。自身が良いと思った内容でも、相手によっては誤解を招く。良訳口に苦し。

 だが、この程度の苦さでコミュニケーションを取れるのであれば、大した事はない。相手が葉月ならば尚更だった。いつだって恋人想いの美樹田だ。

「えっとさ、取り敢えず、参考までに、葉月さんが可愛い名前を言ってみてくれるかな? そうすれば僕も何か思いつくかも」

 美樹田の、濾過(ろか)して最大限に譲歩した提案に、葉月は「そうねぇ……」と呟く。猫はゴロゴロ喉を鳴らしている。いつの間にか、葉月は猫の喉ではなく背中を撫でている。

「じゃあ、マリーってのはどう?」葉月は猫の背中を撫でながら提案した。

「マリー? ビスケットか何か?」

「違う。アントワネットの方」

「ああ、そっちのマリーね……」美樹田は猫の尻尾の付け根あたりを覗く。「でも残念、そいつ雄だよ」

「え、うそ? ……あ、ほんとだ……」葉月は猫を仰向けにすると、股を確認した。付いていたようだ。「じゃあ、マリーじゃなくて、ルイ」

「さっきから何でフランスなの?」

 その後も様々な議論が美樹田と葉月の間で交わされた。ムッシュ、ナイト、アーサー、ギュスタフ、ヨアキム、ルート、オーム、ジュール、カロリ、ヘクトパスカル、クロクロ、シロクロ、ソックス、タマ、いずれもどちらかが提案し、どちらかが異を唱えるという形のまま、三十分は話し合っていた。決定打は未だ無い。葉月にひとしきり撫で回された猫は、自分の名前について話しているのを知ってか知らずか、部屋の隅で丸くなっている。仮に知っていたとしても、あまり興味はないようだ。

「あのさ、ちょっと熱が入って来ちゃって暴走気味だから、取り敢えず落ち着こう。煙草吸っていいかな?」

「ここ賢二君の家でしょ、ご自由にどうぞ。ていうか、暴走しているのは賢二君だけじゃないの? 何、ソックスって」

「靴下だよ。ほら、靴下履いているみたいってキミもここに来た時に言ってたじゃん。それに暴走って意味ならキミだって充分暴走しているよ。ギュスタフ……だっけ? あれなんか、どこの伯爵かと思ったよ。野良から爵位持ちって、どれだけ出世しているんだろうね、そいつ」

「格好良くっていいじゃない。ねえ? 格好いいでちゅよねぇ?」葉月は部屋の隅で丸まっている猫に同意を求めたが、猫は耳を数回ひくつかせただけで反応は薄い。

「興味ないってさ」

「そんな事言ってません」

 沈黙。

 美樹田は煙草に火を点け、最初の一口で大きく煙を肺に入れた。血管が収縮して体温が下がったのか、少し熱を帯びていた頭がクリアになる気がする。葉月は壁際で丸まっている猫を、黙ったまま黙々と構っている。美樹田の位置からは後ろ姿しか見えないが、機嫌は余り良くなさそうだ。

 こうして小さな言い争いから、二人は些細な口喧嘩になる。仲が悪いわけではない。どちらかというと、仲は良い方だ。だが、恋人といっても他人なのだ。主義主張が正確に一致しているわけがない。全て同じだったら、それはそれで気持ちが悪い。きっと、自分とは違う他人だからこそ一緒にいるのだ。一緒にいたいと思える。ただ、こういった場合、大概は美樹田の方が自らの主張を引き下げる。不毛な争いが残すものは、5パーセントの優越感に45パーセントの虚しさ、そして残り50パーセントの疲労感しかない。葉月にそんな想いをさせたくない、そう美樹田は考え、お互いが引き下がれないギリギリのラインで身を引く。いつだって平和主義者の美樹田だが、そもそも本当の平和主義者だったら、争い自体が起こらない。

 そんな事で、今回も美樹田の方が積極的に身を引いた。

「あのさ、えっと、悪かったよ。取り敢えずさ、もう一度落ち着いて、二人で考えよう。ギュスタフも……、うん、悪くないかもしれない」

「ティッシュ……」

「え?」

 ドキリとした。もしかして泣いているのだろうか。それとも、『ティッシュ』という名前の提案だろうか。

「だからティッシュ! はやく! この子、ウンチし始めたの!」

「あぁ……、そういう事……。えっと、ちょっと待ってね……」美樹田は安堵した。葉月が泣いている事に比べれば、猫の糞の一つや二つどうという事はない。しかし、人様の家で勝手に糞をするとは、何という猫だろう。一瞬、『フンボルト』という名前にしてやろうか、などと考えるが、間違いなく葉月に否定されるので、一瞬で浮上してきた思考は表に顔を出すことなく一瞬で沈んでいった。

「確かこの辺に……」美樹田は落ち着いて平積みになっている雑誌の隙間からティッシュ箱を取り出し、箱ごと葉月に手渡す。「はいどうぞ。間に合った?」

「ありがと。大丈夫、何か、この子便秘みたい」

「へえ。猫も便秘になるんだね」葉月の後から覗き込むと、確かに猫は臨戦態勢に入っていた。『フンヅマリ』というのも良いかもしれない。

「そりゃなるでしょ、動物だもん。はい、この上にしましょうねぇ」葉月はティッシュを猫の下に滑り込ませる。間一髪というまでもなく、余裕で降下に間に合ったようだ。

 二人で猫の糞をしている様を眺めていても仕方がないので、美樹田はキッチンへ移動し、コーヒーを飲む為にコーヒーメーカに薬缶で水を入れる。多少獣臭いが、考えてみれば、長閑で平和な休日ではないか、と美樹田は短くなった煙草を灰皿へ押し付けた。後方の部屋では、葉月が「出た出た!」と楽しそうに騒いでいる。どうやら無事に仕事を終えたようだ。本当に、長閑で平和だ。

 猫のトイレも無事に済み、コーヒーも入った所で、美樹田と葉月はソファに並んで座った。取り敢えず、名前の件は一旦保留という事になり、口論の元はひとまず取り除かれた。葉月に部屋が既に散らかっている事を注意されたが、これは葉月が美樹田の家に来る度に交わされる会話なので、ニュアンスとしては「こんにちは」に近い。それに、散らかしの神と美樹田は親友なので、これについては仕方がない。葉月も、毎回言うわりには怒っていないので、もしかしたら半ば諦めているのかもしれない。

「ところでさ、どうしてその子、脇の下なんか怪我してたんだろうね」葉月はマグカップを両手で持ちながら聞く。

「さあ。原因は分からないけど、取り敢えずは、擦り傷や刺し傷じゃなくて切り傷らしいよ。何ていうか、医者が言うには、刃物で切られたんじゃないかって」美樹田は手刀で自らの脇の下を切る動作をする。

「うそ、信じられない! 動物を平気で虐待出来る人間って最っ低!」葉月は眉間に皺を寄せて嫌悪感をあらわにする。

「えっと、僕に訴えられても困るんだけど」

「別に賢二君に言っている訳じゃないよ。そんな事をする人に言っているの。それとも、賢二君もそういう事した事あるの?」

「そういう事って?」美樹田は煙草を取りだし火を点ける。

「動物虐待。無抵抗な犬や猫を蹴っ飛ばしたり、ボウガンで撃ったりしたりするの」

「ないよ。する必要がないし、する気にもなれない。それと、ボウガンで撃たれたのは鳥じゃないかな、確か」

「ほんっと、信じらんないよねぇ」

 葉月は美樹田のさり気ない訂正を、あっさり流してコーヒーに口を付けた。水に流す、ならぬ、コーヒーに流す、といった所だろうか、などと美樹田は考えたが、もちろん黙っていた。

「けどさ、確かに医者は刃物のようなものって言ったけど、何も人間が刃物を使って傷つけたとは限らないんじゃないかな?」

「どういう事?」

「うん。例えばガラスとかだって刃物のように切れるでしょ? となると、もしかしたら、誰かにやられたんじゃなくって、自分の不注意で切ったのかも」

「えぇ〜、それはないよぉ」

「そうかな? 可能性としては、あると思うけど」

「いいえ、ありません。これは絶対誰かに傷つけられたのよ。そうよ、その時の恐怖が今もありありとこの子の中にあって、それがストレスになって、今も便秘なんだわ。ほら、人間だってストレスで便秘になったりするでしょう?」

「いや、どうだろう。少なくとも、僕はストレスで便秘になった事は無いから分からないよ。けど凄い想像力だね。葉月さん、小説家になれるんじゃない?」

「ねえ、真面目に聞いてる?」

「真面目には聞いているけど、僕はその線はないと思うな。小説やドラマならアリかもしれないけど、実際は大したこと無かったりするんだよ、そういうのって。それに、こいつだって僕が飼うって決めた訳じゃないし」

「え? 飼わないの?」葉月は大袈裟に目を見開くと、美樹田を見つめる。「この子、また棄てられちゃうの?」

「またって、元から野良かもしれないでしょ。でもまあ、そうだね、いつかは放逐してあげないと。今は怪我をしているから仕方がなく置いているだけだし、大体このアパート、動物を飼っちゃいけないんだ」

「非道い! この子はわざわざ賢二君に助けを求めてきたのに、それを仕方がないからなんて! もう、責任取ってあげなよ!」

「責任取るって、僕は何もしてないよ。それに何だか、その台詞って少し背筋が寒くなるね」

「そんな台詞、言われた事あるの? 誰に?」

 思わず思考をそのまま口に出してしまった美樹田だが、ゆっくりと笑顔で問いかける葉月の様子を見て、失言であった事を悟る。

「えっと……、言われた事はないし、言われる予定もないけど、少なくとも、葉月さん以外に言われたら絶句するかも」

「言われるような事があったのかしら?」

「それが無いから絶句するんだね。これ、青天の霹靂」

「じゃあ、私ならいいの?」

「何か、話が変わってきてない?」

「うんそうね、ゴメン、今のは脱線しすぎかも」

 葉月は目許の笑っていない、わざとらしい笑顔から通常の笑顔に切り替わり、片目を瞑った。キュートだが、何処までが冗談なのか計りかねる。

 美樹田は体勢を立て直す為に、煙草の箱から一本抜き取り、口にくわえる。

「でも、それでも怪我が治るまでは飼っているのと同じ事でしょ? そうなると、それまでは賢二君が飼い主な訳で、飼い主としては、やっぱり不安は取り除いてあげるべきだと思うの」

「不安って?」煙草に火を点けようとするが、オイルがないのか、ライターは火花だけを散らす。

「そうねぇ、外敵の不安とか、食料不安とか、浮気の不安とか、色々」

「あれ? またそっちに戻るの?」

 ようやく煙草に火が点いたのと、葉月の悪戯をするような視線が美樹田を捉えたのは、ほぼ同時だった。

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