第一話 猫と二人 - 2節 -
2
負傷した猫と遭遇した翌週末、美樹田は恋人である糸井葉月と都心の飲食店にいた。恋人同士として付き合い始めて、かれこれ三年になるが、基本的に週末しか会わない二人だ。特に仲が悪いわけではない。仲が悪ければ三年も付き合い続ける事は不可能だろう。只単に、お互いの生活に必要以上干渉しない、という不文律が、暗黙の了解として二人の間に横たわっているだけだ、と美樹田は考えているが、葉月の方は定かではない。もしかしたらもっと会う期間を離したい、とも考えているのかもしれないし、最悪の場合は、内心、美樹田と別れたいとさえ思っているかもしれない。直接意見を聞けばよいのだろうが、そんな事は聞くに聞けない微妙な距離だ、と自身では分析している。何事も、安全側に予想を立てておく事は精神予防上とても良い。何事にも、慎重派な美樹田だ。
美樹田は葉月以外の女性と、ここまでの長い期間付き合った事がない。葉月との関係にしても、気付けば済し崩し的に『付き合っている』という状況になっていた。あまりそういう方面(恋愛方面)に興味がない美樹田だが、少なくとも葉月と一緒にいるのは嫌いではないので、大っぴらに『彼女』といっても特に妙な気分にはならないだろう。『奥さん』といってみると違和感を覚えるかもしれないが、今の所は言う機会もなければ、他者に言われるようなシチュエーションにも遭遇していない。これ幸いだ。
けれど、時間はどんな生物にも平等に流れる。美樹田と葉月の二人も、それは例外ではない。美樹田は今年で二十七歳、葉月は今年で二十五歳だ。普通、という概念で語るには、美樹田自身が経験してきた事例があまりにも乏しいが、いつまでもこのままでいられるわけではないという事は、さすがの美樹田でも、薄々ではあるが気付いている。信号で例えるのであれば、黄色信号。アクセルを踏み込めば進めない事はないが、ついついアクセルを緩めてしまう。もしかしたら、そういう空気こそが、二人を平行棒のように微妙な距離で結んでいるのかもしれない。そんな週末。
今二人が居る店は、中華料理というより飲茶がメインの店らしく、店内はほのかにお茶の香りがする。店内の客数は半分ほど。ランチタイムも数分後で終わりを告げる時刻だが、週末だけあって、中には既にアルコールを飲み出している人もいる。どちらかというと、アルコールよりもお茶の方が好きな美樹田は、暖かい烏龍茶を飲んでいた。
美樹田は食に関してあまり拘りはない。食べる事が出来れば良い、という財布にも優しい経済的な男だ。葉月の方はというと、どうせ食べるのであれば美味しいものを、という一種の拘りを持っている。そういう事なので、もちろん現在二人がいる店を選んで入ったのも葉月だ。
葉月は店の評価には煩い方だ。以前入った店は、従業員の態度が美樹田から見ても悪く、葉月は食事を済ませると、食後の休憩も取らずに直ぐさま店を出て、店を出た途端に不満を美樹田にぶつけた。美樹田にしてみたら八つ当たりも良い所だったのだが、確かに美樹田から観察しても酷い態度だったので、その時はお互いに二度とその店には行かない、と誓い合った。当然、その後は一度もその店に行っていない。思い起こせば、葉月は店内にいる時から無口になり、機嫌が悪かったような気がする。それに比べ、今回の店は以前来た事があるらしく、楽しそうにメニュー票を眺めている。その姿を見る限りでは、そこそこに機嫌がよい。
機嫌の悪い時と良い時では、やはり良い時の方が美樹田は好きだ。相手の機嫌が悪い時の方が好き、という耳を疑いたくなるような変わった性癖も美樹田にはないので、これは素直な感想といえる。
料理を注文して来るまでの間、美樹田は先日の帰宅時に遭遇した猫の話を葉月にした。これが美樹田の思いのほか食いつきが良く、料理が来た後も、葉月は美樹田に話の続きを促した。これには少し困った。自分から話し出しておいて何だが、美樹田の関心は既に猫ではなく、注文した料理にあった。
「で? その猫どうしたの? 怪我してたんでしょ?」
葉月はレンゲで中華粥をすくいながら美樹田に尋ねる。当の美樹田は視線だけを葉月に向けながら麺を啜っている。鶏のダシがきいていて、なかなかに美味しい。
「うん。結構傷は深かったね。あれだけ血が出ていたんだから、当然といえば当然だけど」チャーシューを食べる。これも美味しい。
「傷の具合を聞いてるんじゃないの。そうじゃなくって、その猫、賢二君の家に連れて帰ったの?」
「うん、まあ。さすがに放置しておくのも可哀想だったし、何よりあのままの状態を職場の誰かに見られたら、僕が誤解されるでしょ? だから仕方なく」
「誤解? 何、誤解って?」
「いやさ、何かあの状況だと、まるで僕が猫を怪我させたみたいに見えなくもないでしょ。ほら、最近流行っているじゃない、そういうの。そういった誤解。動物虐待者の濡れ衣を被せられるのはゴメンだよ」
「普通そうは考えないと思うけど……」
「そう? 僕はそういう状況も想定するけど」
「まあねぇ。賢二君の場合はねぇ」葉月は苦笑する。
「あ、今、呆れているね?」
葉月が口元を歪ませ苦笑をする時には、大概呆れている事が多い。美樹田はこの事に一昨年気付いた。呆れている、といっても機嫌が悪いわけではない。どちらかというと、こういう状況を楽しんでいる節が葉月にはある。これは昨年気付いた。日進月歩で歩み寄る二人だ。
「まあいいや。それより、その猫、今も賢二君の家にいるの? お医者さんには診てもらった? 怪我、結構酷かったんでしょ?」
「傷は深いとは言ったけど、酷いとは言ってないよ。医者には、次の日に半休取って動物病院に連れて行った。今は僕の家で包帯撒かれて寝ているよ」美樹田は、話に夢中で食事の手が止まっている葉月の手元を見る。「ていうか、早く食べないと、お粥冷めるよ」
「名前は?」
「は?」
葉月はレンゲにすくったままにしていた粥を口に含むと、飲み込むと同時に美樹田に尋ねてきた。お粥は噛まなくても良いので、対話性の優れた食事といえる。美樹田の食べているのは麺なので、食事を取りつつ会話をすると、どうしても不自然な間が生まれる。美樹田は口の中の食べ物を、ゆっくりお茶で喉奥へ流し込む。しばしの沈黙。
「……えっと、そうだな、多分、雑種だと思うけど……。僕、猫の種類とか詳しくないからなぁ。そういえば犬の種類ってケンシュって言うけど、猫の種類ってビョウシュって言うのかな? 何か変な感じするよね。腫瘍みたい」
「シュヨウ? 病腫って言いたいの? そうじゃなくて、名前は付けてあげたの? タマとかポチとかのファーストネーム。動物病院に連れて行った時に、名前って聞かれたでしょ?」
「名前って、ああ……、そういう事……。うん、聞かれたね。というか、正確には書かされた、かな」
「なんて書いたの?」
「片仮名でノラネコ」
「はあ……」葉月は片手で頭を押さえて天井を見上げた。「最悪。分かった。これから賢二君の家に行こう。こうなったら、その子に、ちゃんとした名前付けてあげなくちゃ」
「これから? 映画はどうするの?」
「そんなの中止。映画はいつでも見られるけど、その子の名前は一生ものなんだから」
「結構観たかったんだけどな、あれ」
「そんなの賢二君が悪い。自業自得よ。ほら、そうと決まったらさっさと食べる」
「ふうん、まあ、何が悪いか分からないけど」レンゲでスープをすくって口に運ぶ。もう麺は食べきっている。「ところで、僕はもう殆ど食べ終わっているから良いけど、葉月さんこそ良いの? 何か三分の一くらい残ってるけど、お粥」
「私はダイエット中だからいいんですぅ」
「 いつからエコロジーに目覚めたの?」
葉月は頬を膨らませた。頭が菓子パンのヒーローのものまねをしているわけではないな、と美樹田は考えたが、黙って残りのスープを啜った。