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第一話 猫と二人 - 1節 -

第一話   猫と二人



 美樹田(みきた)賢二(けんじ)は猫があまり好きではない。猫のその自由奔放な性格もさることながら、あの綿毛のように軽く、その場の何処にでも散乱している猫の体毛が、特に好みではない。ようは抜け毛が気になるのだ。

 気になるといっても、美樹田は極度に潔癖性というわけでもないし、掃除が趣味になってしまう程に掃除好きというわけでもない。ただ、自分が寝転がって読書をした後に、服に付く毛が無性に気になるのだ。

 美樹田の部屋は実家にいる頃から混沌が座していた。ようは汚かったのだ。ゴミが落ちているわけではないのだが、気付くと散らかりに散らかっている。自分では散らかした覚えはないのだが、何だか少し窮屈だな、と感じて、はたと周りを見回すとスペースが限られている事がよくあった。他の部屋、家族の共同スペースと呼ばれる場所を散らかす事はまず無かったのだが、自室になると駄目だ。途端に散らかってしまう。中学の頃に一度、その局所的散らかし癖をどうにかしようと思った事があったが、他への影響を考えていった結果、特に問題はないのでは? という思考に行き着いて、結局、実家を出て一人暮らしをしている今も特に変化はない。二十七歳の現在でこうなのだから、もしかしたら生涯このままなのではないか、と最近では考えている。

 美樹田の趣味は読書だ。小説、漫画、雑誌、専門書、ありとあらゆる本を読む。そして読んだ本は片っ端から自室に平積みにしていく。自室に空きスペースがあり、そこに一冊の本を置くと、それを基礎に高い塔が建てられていく。高校を卒業すると同時に就職をし、二十歳の頃に実家を出て一人暮らしを始めるまで、美樹田は百にほど近い、数十大小様々な形の塔を作り上げた。足の踏み場もない、とはまさにこの事で、美樹田の自室は睡眠をとるスペースと、僅かな通行用の隙間があるくらいだった。そのスペースや隙間も、週に一度は起こる活字の塔の崩落に巻き込まれて狭まる事も多々あった。その時ばかりはさすがに片付けよう、と思うのだが、思うのは一瞬だけ。実際の所は崩落した箇所の標高が低くなって、それ以外の標高を上げるだけの作業で留まる。そういった理由から、美樹田の自室は本で埋もれていたので、就寝前以外の読書は茶の間でする事が多かった。

 実家では小学校の頃に猫を飼っていた。美樹田が読書をする為に茶の間に本を持って行って、絨毯の上に寝転がって、存分に読書を堪能して、いざ読み終わって立ち上がると、もう服中が猫の毛だらけだった。これが頂けない。読書をして気分が良い所に、猫の毛取りという面倒臭い作業を突きつけられる。しかも毛をまき散らした当の本人は、そういう場合まず現場にはいない。仕方がないので、玄関の工具棚から渋々ガムテープを引っ張り出して、適当な長さに切ったテープを裏返し、円筒状にして、黙々と服に付いた毛を取り除く。母親は、「どうせまた付くんだから、そんなの気にしなきゃ良いのよ」 と毎回不満げに毛を取る息子に言い続けたが、美樹田はそれでも毎回、渋々黙々と毛を取った。生活習慣といっても良い程だった。小さい頃から妙な所は几帳面なのだ。それは今でも変わらない。

 そんな事で、美樹田は猫があまり好きではない。かといって犬好きというわけではないし、もちろん兎やハムスターといった、げっ歯類が好きなわけでもない。ようは小動物全般に対して興味が薄く、例え猫が毛をまき散らさない生き物であったとしても、やはり好きにはなれないだろう。『好き』と『嫌い』には大きな差はないが、『好き』と『興味がない』では三十キロ程の隔たりがある。歩み寄れない距離ではないが、歩み寄らないからこその『興味がない』なのだ。興味がある事ならば、どんなに離れていても、そこへ行くだろう。丁度、お好み焼きだけを食べに大阪へ行くように。

 埼玉県東部にある楽器メーカーの工場、そこが美樹田の職場だ。後二年で勤続十年になる。

 昼間は控えめに主張していた太陽もすっかり隠れ、濃紺の駐車場。見回した限り、美樹田以外は誰もいない。車は、美樹田の車以外にも数台ある。ファミリー向けのワンボックスが二台。四駆のオフロード車が一台。外車のセダンが一台。いずれも、美樹田のいる班の人間のものではない。他の班、他の部署の人間のものだろう。美樹田のいる五人編制の班では、最後まで残業をしていたのは美樹田だったので、これは間違いないはずだ。

 一日の仕事を終え、これから家路につこうとする美樹田の愛車のボンネットの上には、今まさに、あまり好きではない猫が丸くなろうとしている所だった。

 猫は黒と白のブチ柄。足の先は白く、まるで白い靴下をはいているようだ。毛並みは、野良のわりには悪くない。これで犬なら面白いが、間違いなくそこにいるのは猫だった。

 車までの距離は僅か数歩分。走り幅跳びの選手ならば、一足で超えてしまいそうな距離だ。

 どうしたものかと眺めていると、猫と目があった。相手は猫だが、少し気まずい。

 何となく、目を逸らしたら負ける様な気がして、視線を外せない。

 何処かの飼い猫だろうか、とも考えたが、美樹田の職場である工場の近辺には、あまり民家というものがない。守衛が密かに飼っているという話も聞いた事がない。いや、もしかしたら自分が知らないだけで、実は以前から職場ぐるみで飼っていたのかもしれないし、それを職場の人達が「いや、なんかさ、美樹田って猫、嫌いそうだろ?」という余計なお世話全開の理由で秘密にしていたのかもしれない。猫の話など職場でしたか? などと見つめ合いながら考えている内に、猫は視線を美樹田から外して、ボンネットの奥、フロントガラスの方へと移動する。猫はフロントガラスに身体を預ける形で、ワイパーの上に横たわった。視線は完全に美樹田から外れている。猫は美樹田の事など全く気にしていなかったようだ。

 一瞬の敗北感。

 美樹田はこういう時、煙草を吸うようにしている。感情のまま行動に移すと、ろくな事にならないのは、今まで生きてきた中で学んできた事で、まあ落ち着こう、と一拍置くと良い対処法が生まれる場合が多い。誰にともなく小さく数回頷きながら、美樹田は煙草に火を点ける。うん、そうだ、負けた気はしない。

 猫といえば、今日の休憩時間中に、会社の先輩と猫の話をした。普段、その先輩が積極的に美樹田に話し掛けてくる事はない。仕事中は勿論の事、休憩中も声を掛けられた事はない。基本的には寡黙な先輩なのだ。

 その寡黙な先輩は八つ年上で、確か、奥さんと小学生の息子がいた。これは本人から直接聞いたわけではなく、話し好きの他の先輩から聞いた話だ。話のネタとはいえ、他人の家族構成を本人がいない場でいうのはどうだろうか、ともその時には考えた美樹田だったが、そのお陰でスムーズに、グリスを塗ったギアのように、多少なりとも円滑に話が出来たわけだから、世の中、何が役に立つ情報なのか分からない。

 ともかく、そういったほぼ面識ゼロといった先輩が、何故か今日に限って美樹田に話し掛けてきた。それも、昼食の時間だったので、休憩時間もたっぷりとあった。特に嫌ではなかったが、意外である事に変わりはなかった。

 何の話をしたのだろうか。猫の話題だった事は覚えているが、細かい所は既に消えかかっている。煙草の煙を眺めながら、美樹田は記憶を探る。

 確か……、息子が猫を飼いたがっている、とかそんな話ではなかっただろうか。……そうだ、美樹田はそれで以前実家で猫を飼っていた事を話した気がする。焦点を煙から目の前にいる猫に移す。先輩に引き渡すというのも、一つの手かもしれない、などと考える。

 煙草が短くなってきた。時間にして約三分強は立ったままだろうか。建物から出てきた所から計算すれば、大体十五分くらいは同じ姿勢のままだ。煙草の火を靴底でしっかり消す。完全に消えている事を確認すると、後で車内の灰皿に棄てる為に握り込む。例え誰もみていなくともポイ捨てはいけない。几帳面なので、ルールを守る事など当たり前な美樹田だ。

 結局、煙草を吸っている間に行き着いた結論は強攻策しかなかった。最初からこれが確実な方法であったが、そんな事は煙草を吸っている間に忘れてしまった。出来れば穏便に済ませたかった美樹田だったが、こちらの動きを相手が察しない以上、それはもう直接的な方法に頼るしかない。原始的だが、確実な方法の一つといえる。

 しかしそこは猫と人間、具体的な方法を挙げれば、軽く手で払いのけるか、持ち上げて下に降ろしてやるかのどちらかだ。仮に、息子が猫を飼いたがっている、と美樹田に話していた先輩に引き渡すにしても、ここから動かさない事には始まらない。動かさなければ、美樹田も帰る事が出来ない。これが最も切実な問題だ。否、構わず車に乗り込み、小動物など歯牙にも掛けずに駐車場から出してしまえば、帰るだけなら簡単だ。けれど、出来れば穏便に済ませたい。仮に、万が一にでも轢いてしまったら、数週間は後を引くだろう。

 一歩近づく。猫は動かない。

 二歩近づく。耳と尻尾だけ動かす。こちらに気付いては、いるようだ。

 さらに数歩近づく。手を伸ばせば触れる事の出来る距離だ。手を伸ばしても、猫は視線を美樹田に向けるだけで、動こうとしない。

 猫の身体に触れる。違和感。

「あぁ、そうか。そういう事」

 猫を持ち上げた美樹田は、違和感の正体を掌で感じた。

 猫は前足の脇の下に怪我をしていた。持ち上げる為に触った時、手にべっとりと血が付いた。すぐに持ち方を変え、抱える形に猫を持ち上げると、猫のいたワイパー付近にも血が付いているのを確認する。幸い、フロントガラスには血が付いていない。猫の顔を見る。最初は分からなかったが、よく見ると、額に幾つか白い斑点のような模様があるのが分かる。目が合う。最初は太々しく見えていた顔も、今では助けを求めているような顔に見える。この一瞬で随分と印象が変わるものだ、など考える。

「さて、どうしたものかなぁ」

 美樹田は思わず声に出していた。困った、これが正直な感想だった。ただ、何に困ったかと言えば、怪我をした猫を発見してしまった事か、車に血が付いた事か、それとも、現在進行形で服に付いている毛か、もしくはその全てか、判断はとても難しい。

 美樹田は煙草を吸いたかったが、腕も負傷した猫に塞がれているので、自由に煙草も吸えない。困った。いやいや、困っているのはこの猫も同じか、と感じて猫の顔をもう一度見る。うにゃ、と一鳴き。あまり締まりのない声だ。

 美樹田は軽く溜息をつく。肩の力が抜けると同時に、諦めの感情が並々と湧き出てくるのを感じた。これだから、猫はあまり好きになれない。

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