第一話 冒頭
ごく稀に、美樹田賢二は実家で暮らしていた頃の夢を見る。それこそ道草をする為に、いつもとは違う帰り道を選ぶ時みたいな、降って湧いたような気紛れな夢なのだが、起きてからも暫く夢の余韻に浸っていられるような、そんなノスタルジー溢れる夢を、ごく稀に見る。
周期でいったら二年に一回くらいの割合。
数字にしたら約700分の1だ。
もちろん、見たからといってどうという事はない。誰にでもある事だと思うし、どちらかと言えば、人よりは少し少ないのではないか、とも自分では感じる。
美樹田の家族は、父と母、そして妹と自分の、計四人家族である。来年で二八になる今現在の歳まで、幸い誰も欠員は出ていない。
今は子供が二人とも自立して一人暮らしをしている為、実家には両親しか住んでいないが、美樹田が中学生の時に父が現在の家を購入してから、実家の位置も、十年以上変わっていない。
しかし、美樹田がごく稀に見る実家の夢の舞台は、今も両親が住む現在の実家ではなく、それ以前の借家である事が殆どだった。
その借家は二階建ての一軒家で、お世辞にも広いとは言い難い家だったが、十畳近い広さのベランダと、その家を最後に引退した、茶の間に敷いてあった緑色のカーペットが、美樹田の記憶に強烈に印象付いている。
そんな記憶があってか、夢の中で自分が寝そべっている床が、まるでサッカーグラウンドの芝生のような真緑色だった場合、すぐにそれを思い出して、今自分がいるのは昔の実家だと感じ、同時に、夢を見ている当の美樹田は、それが夢である事を自覚する。何故なら、芝生のようなカーペットは、現在の実家に引っ越す時に処分してしまって、今はもう何処にも無いのだ。
夢の中では特に珍しい事が起こるわけでもなく、淡々といつかの日常が流れていく。
「賢二! 宿題はもうやったの?」と台所から母の声。
「一時間前にもう終わってるよ」と茶の間で寝そべって本を読みながら応える自分。
「けん兄。後で友達来るからそこ片付けといてよね」と部屋を横切りながら妹の声。
「別に良いけど、後でっていつ?」と茶の間で俯せになって本を読みながら応える自分。
「賢二。お父さんの小説何処へやった?」と父の声。
「今読んでる。もう少しで読み終わるからちょっと待ってて」と茶の間で横になって本を読みながら応える自分。
多少の台詞の違いはあるが、基本、茶の間で寝転がって本を読みながらの遣り取りが殆どだ。
そして、決まって夢が覚める時は、何かを思い出した美樹田が、もそもそとジャングルのナマケモノみたいに起きあがると、読みかけの本を片手に台所にいる母の所まで行き、こう尋ねる。
「ねえ母さん。ちょっと……」
ここで目が覚める。
起きて暫くノスタルジーに浸ってみても、ノスタルジー以外特に意味があるとは思えない。そんな夢。
美樹田賢二は今朝も、そんな少しだけ自分にとっては珍しい夢を見て、目を覚ましていた。
時刻は早朝六時。平日なので、もちろん、これから仕事がある。寝癖で前衛的な髪型になっている頭を掻きながら、頭を切り換えて、ベットから這い出る。簡単な朝食を食べ、熱いコーヒーを飲む頃には、今朝見た夢の内容など、気化していくメチルアルコールのような速度で、すっかりと、実に六割も忘れてしまっている。否、もともと内容などないのかもしれない。
夏も終わり、一年も三分の二を消化した九月。
久し振りな夢を見た、普段通りの朝は、毎日通り過ぎる信号機のように、規則正しく、いつもと同じように流れていく。
時刻は早朝七時。あと三〇分もすれば、出勤時間である。