尾生
尾生は中国春秋時代の人である。
早く親を亡くした一人暮らしの男で、身分も低く貧しい。
しかし尾生は誠実な人であった。
ある人が尾生に酢をもらいたいと頼んだ。
尾生は貧しく、酢も持っていない。
無いなら無いと言えば良いのに、彼はわざわざ隣の家に酢をもらいたいと頼みに行き、その酢を先の人にあげたのだった。
さて、その尾生に李慈という恋人がいた。
彼女は尾生の住む地方の役人の娘である。
地方役人とはいえ、尾生との身分の差は大きく深かった。
当時は身分差別が厳しく、男女関係も厳しい。
当然、二人は人目を忍ぶ関係であった。
事がばれれば刑罰を受け、殺されてもおかしくはない。
尾生も李慈も、本気であった。
とはいえ、いつまでもこの関係を続ける事はできない。
二人はいつも待ち合わせている橋の下で、駆け落ちして他国に逃げる計画を立てた。
春秋時代の中国は多くの小国に分かれている。
別の国に逃げてしまえば、地方役人の李家には手が出せないはずだ。
尾生は言った。「明日の夕方、ここで待ち合わせて、それで隣の国に逃げましょう。」
李慈「親に無断で家を抜け出せば、二度と家には戻れません。
あなたは、きっと明日、ここで私を待っていてくれますか?」
彼女は真剣だった。
尾生「もちろんです。天地にかけて誓います。」
李慈は微笑んで、「ありがとう。私も必ず来ます。
・・・実は今、父が私の縁談を進めています。」
尾生「!!」
李慈「でも私は、あなたと別れて他の男と結婚するくらいなら自殺します。
だからもし明日、私がここに来れなかったら・・・」
尾生「来れなかったら?」
李慈「その時私は、既に死んでいるものと思って下さい。
その時は、あなたは一人で逃げて下さい。
あなたの身にも危険があるかもしれませんから。」
尾生「あなたを死なせて、どうして私一人で逃げられましょう。
その時は私も死ぬまでです。
そうすれば、黄泉でまた会えましょう。」
・・・・次の日は大雨であった。
さっきから尾生は、夜の闇の中一人で立ち続けている。
体はすでに水につかっているが、避ける場所もない。
李慈はまだ来ない。
遅れているのだろうか。
しかし、日が沈んでもう数時間経っている。
雨は昼過ぎから降り続けている。
川の水かさが増して、橋の下は一面の急流である。
しかし、橋の下と約束したのだから、ここを離れる訳にはいかない。
離れれば李慈は自分を見つけられないだろう。
そうしたら彼女を裏切った事になる。
絶対にここを離れる訳にはいかない。
流されそうになるので、尾生は橋げたにしがみついた。
もう水はみぞおちまで来ている。
李慈はまだ来ない。
ああ、彼女はもう死んだのか?だがまだ望みはある。
もし生きていて、遅れているのなら、どうしてここを離れられよう。
尾生は腕に力を込めた。
李慈が生きているのならここを離れる訳にはいかないし、死んでいるのならこのまま、
この李慈との約束の場所で溺れ死んでやるまでだ。・・・
・・水かさはどんどん増して、もう首まで来ている。
上流から流れてきた木が頭にゴツンとぶつかった。
寒い、疲れて腕が痛い。
それに、この川にはどんな生き物が住んでいるかもわからないのだ。
さすがに尾生の心にも恐怖がわいてきたが、彼はそれを振り払った。自分は命がけで李慈を愛してきたのではなかったか?
彼女だって自分を命がけで愛してくれている。
どうして恐怖に負けて逃げていいだろうか。
いや、俺は絶対にここを離れないぞ!!
寒さと、ずっと橋げたにしがみついていた疲労のせいで体の感覚が無くなりかけているところへ、ついに水が頭の上まできた。
苦しい。
しかしもう上まで登る力もない。
今ならまだ逃げられ・・・いや、絶対に逃げない!!
苦しい。
苦しい。
視界も意識も白み始めてきた。
ああ、李慈はきっと死んだのだ。
そして自分ももうすぐ死ぬ。
だが悲しくなどない。
俺たちはきっと黄泉で結ばれて、二人の魂魄は永遠に一つになるのだ・・・
・・・
その夜、李慈は急に流行り病に襲われて危険な状態にあったのだった。
彼女はうわごとで
「尾生・・・尾生・・・」
と言い、這ってでも外に出ようとするので、
李慈の父は使用人たちに命じて李慈を閉じ込めさせておいた。
ところが、李慈が眠って使用人達が目を離した隙に逃げ出し、
慌てて捜し出させた時には、
彼女は大雨の路上で倒れていて、既に息絶えていた。
李慈の父は烈火の如く怒った。
まず李慈に対して、怒りと悲しみを同時にぶちまけた。
父とて、娘が死んで悲しくないはずはない。
だが娘は、父が縁談を進めていたのに、「尾生」とかいう男と勝手に会っていたのだ。
李家の名を傷付ける行為だ!
一族の面汚しだ!!
次に、「尾生」とかいう男に激しく怒りを燃やした。
この男が我が娘をたぶらかして、李家の名誉を汚したのだ。
何としても捜し出して、八つ裂きにしてやる!
彼は武装した使用人達を街に送り出して、尾生を捜させたが、見つからない。
尾生の家に行ってみると、荷物が片付けられている。
しまった、逃げられたかと歯ぎしりしていると、
翌日、雨が上がって、その夕方、
尾生の死体が見つかったとの知らせが入った。
死体だろうと構わん、八つ裂きにしてやると意気込んで、李慈の父は自ら剣を持って、使用人達をつれてその場に向かった。
着いてみると、そこは橋で、人々が集まっている。
彼がやってくると、人々は道をあけた。
見ると、橋げたにがっしりしがみついたまま死んでいる男がいて、それが尾生だという。
李慈の父は驚いた。
人々に聞いてみたところ、尾生はよくここでどこかの女と待ち合わせていたという。
昨夜の娘の様子を思い出してみる。
這ってでも外に行こうとしていた。
娘と尾生はここで会う約束をしていたのか・・・
李慈の父は、昨夜何があったのかを理解した。
さらに人々の言うところでは、死体を片付けようとしたが、尾生がしっかりしがみついたまま死んでいるので、数人がかりでも腕を引き離せず、腕を切り取って離そうとしているとか・・・
李慈の父はしばらく呆然としていたが、
やがて天を仰いで、嘆息して言った。
「ああ、惜しいことだ!惜しいことだ!
これほどの男なら、わしは娘をやってもよかったのに。
ああ、惜しい男を亡くした!!」
かくして、李慈の父は尾生の腕を切り取って橋げたから離したけれど、
またその腕を繋ぎあわせて、完全な形のまま、
娘と共に丁重に葬ったのだった。
この尾生の話を聞いた人々は、
あるいは感心し、あるいはバカ正直に過ぎると呆れたが、
ともかくも尾生の話は語り継がれ、決して忘れ去られる事はなかった。
そして後世、命がけで約束を守るような、極めて信義に厚い事を
「尾生の信」
と呼ぶようになったのである。
完
尾生に関しては酢の話と、待ち合わせの約束を守って溺れ死んだ話しか知らないのでそれ以外は創作、というか想像です。
実際どういう事情があったかは分かりませんが、ともかくも尾生は自分の尊敬する人物の一人です。