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傷だらけの反逆児 MLB選手 エディ・スタンキー(1915-1999)

作者: 滝 城太郎
掲載日:2025/10/20

ドジャースの二年連続ワールドシリーズ進出を記念して、記録より記憶に残るドジャースOBを紹介したい。強豪チームにはスポットライトを浴びるスーパーヒーローも必要だが、相手チームやファンから嫌悪されるようなダークヒーローも欠かせない。正攻法で上手くゆかなければ、あの手この手で試合の流れを変える狡猾な悪玉がいてこそ、隙のないチームが完成すると思う。スタンキーはチームの勝利のために手段を択ばない悪玉だった。

 打てない、走れない、守れないの三拍子が揃っているうえに口汚く喧嘩早い奴ときては、集団スポーツにはおおよそ不向きである。それでも勝利のためにどのチームもスタンキーを欲しがった。彼のやることなすこと全てが勝利に結びつくからであった。

 名将レオ・ドローチャーは、スタンキーの育ての親とでもいうべき人物で、世間からもスタンキーはドローチャーの最高傑作の一人と言われていたが、互いに激しい性格のせいかよく衝突し、罵り合っていた。

 後年ドローチャーが『ドジャースと私』という自著を出版した時、講評を乞われたスタンキーは、「著者と同様、実に下らない」と悪態を連ねたものだ。それでいて二人は互いの才能を高く評価しあうという奇妙な関係だった。


 かなりのメジャー通でなければエディ・スタンキーの名前は知らないだろう。というのも、彼は打撃でも守備でも盗塁でも平凡な成績しか残していないからだ。しかし彼は記憶に残る選手だった。

 スタンキーの打席はとにかく忙しい。打席の足場をならして素振りをくれた後、一度打席を外してロージンを取りに行きグリップにこすりつけてから改めて打席に立つ。ところが投手がモーションに入ろうとした瞬間にまたタイムを要求する。そこでゆっくりとシューズの紐を締めなおしてからプレイが再開するのだ。

 打者が打席を外すのは日常的なことでも、スタンキーのように時間をかけてじらされては守っている方もいらいらが募る。これらの動作は相手投手、野手の集中力をくじくことが主たる目的であって、打撃に自信にない彼が出塁するための権謀術数なのである。

 一七三センチと小柄なスタンキーは打者としては非力だが、選球眼だけは抜群によかった。打席で深く腰を沈めて構えるのは打つためというより四球を選ぶためである。したがって打席では積極的に打ちにゆかず、カウント稼ぎのウェイティングがもっぱらだったが、時に奇をてらったセーフティバントを仕掛けてくることもあった。

 鈍足の右打者であるにもかかわらず、野手の裏をかく能力に長けていたため、一九四六年には二十回もセーフティバントで出塁している(リーグ一位)。同年の打率が二割七分三厘であることを考えれば、バントの技術がなければレギュラーの座もあやしかったかもしれない。これにリーグ一位の一三七死四球が加わると、出塁率は実に四割三分六厘(リーグ一位)にまで跳ね上がるのだ。

 先頭打者にはバットコントロールの巧みな俊足の左打者、というこれまでのセオリーを覆し、非力で三振も少なくない鈍足の右打者でありながら出塁率はリーグトップクラスという異色の先頭打者として一時代を築いたのがエディ・スタンキーなのである。

 彼の生涯出塁率は四割一分〇厘にも達しており、これはイチロー、ピート・ローズ、トニー・グウィンといった名だたる左の安打製造機や三冠王ミゲル・カブレラをもしのぐ高率である。これだけでも先頭打者としては比類なき逸材といってもいいが、塁に出てからもやっかいな存在だった。

 鈍足ゆえに盗塁を警戒する必要はないといっても、走者としては危険極まりない暴走トラックのような男で、守備を妨害するために危険なスラィディングを平気でやった。彼自身も二塁手であったため、何度も報復のスパイクを受けいつも両足は傷だらけだったが、「殺人スライディング」の犠牲者の方がはるかに多かった。

 一九五一年、ヤンキースとのワールドシリーズ第三戦では、味方のヒット・エンド・ランで出足の遅れた一塁走者スタンキーは、アウトのタイミングにもかかわらず二塁に入ったリズトー目がけて猛烈なスライディングを敢行した。

 及び腰でタッチしようとしたリズトーのグラブの中のボールを蹴りだしたスタンキーは、ボールが二塁後方に転がっている間に見事三塁を陥れ、ジャイアンツを勝利に導いた。

 もちろん反則すれすれの危険行為だったが、「このプレーが勝敗を分けた」とドローチャーが絶賛するほどのアグレッシブな走塁だった。

 ダブルプレー崩しをお家芸とするスタンキーの走塁は、一部のファンからの野次も浴びたが、アメリカ人の気質の成せる業なのか、多くのファンはヤンヤの拍手を送った。


 スタンキーはドイツ人とロシア人のハーフで、フィラデルフィアの労働者街ケンシントンに生まれた。皮なめし工の父はセミプロの野球選手であり、その影響もあって少年時代からプロ野球選手を目指していた。

 高校卒業と同時にアスレチックス傘下のC級グリーンビルと契約出来たところまでは得意満面だったスタンキーも、親元を離れてミシシッピで暮らすうちにホームシックになってしまい、両親に帰りの旅費を無心したこともある。

 後年の好戦的でふてぶてしい彼の姿からは想像もつかないが、厳格な両親から帰宅を拒絶され、渋々マイナー生活を続けることになった。

 この頃から選球眼は良かったものの、三割前後の打率で年平均五~六本の本塁打しか打てないようでは、そうそうメジャーから声がかかるわけもなく、何と八年間も下積み生活が続いた。それも好戦的な性格が災いして年に十回以上も審判から退場を命ぜられるほどの鼻つまみ者だった。

 そんなスタンキーの才能を最初に見出したのは、B級メーコンクラブ時代の監督だったミルトン・ストックである。選球眼の良さに目を付けたストックは、リードオフマンになるべくスタンキーを指導したうえ、この年俸わずか千五百ドルのマイナーリーガーに娘を嫁がせている。

 これに奮起したスタンキーは2Aミルウォーキーに移籍後、三割四分二厘、八本塁打、五十七打点、出塁率四割五分七厘の活躍でMVPを獲得し、一九四三年にシカゴ・カブスに昇格した。すでに二十六歳になっていた。

 相次ぐ応召による選手不足が幸いして一年目からレギュラー二塁手として起用されたスタンキーだったが、二年間で一本の本塁打も打てず、守れば失策の山と戦力にならなかった。これはデビュー戦でいきなり頭部に死球をくらい、頭蓋骨を骨折した影響もあったに違いない。

 やがて監督から干されるようになると、直談判して二年目の途中でドジャースに放出された。ここで出会ったのがレオ・ドローチャーで、彼はこのきかん坊を巧く御せるだけの裁量を持っていた。

 スタンキーは荒っぽく無作法だったが、自分が才能に恵まれていないことを自覚しており、そのうえで勝つためにあらゆる手段を講じる頭脳的プレーヤーであった。そういうところが一部のファンには受け、彼がマイナー時代に暴力行為で百ドルの罰金を科された時には、ファンの声掛けで罰金を超える寄付金が集まったこともある。

 ドジャース時代も守備位置から打者に向かって手旗信号を送ったり、投手の背後で体操を始めたりと、打者の気に触るような動作をすることで審判や相手チームのひんしゅくを買ったが、ドローチャーはそれを咎めることはなく、むしろ相手を撹乱することが勝利に結びつくと考えていた。

 手旗信号の件では相手チームとの乱闘のあげく退場処分となり、このような妨害行為は審判の判断で退場を命ずることが出来るというルール改正のきっかけとなったが、スタンキーにはファンからどれほど野次られようが嫌われ者に徹する図太さがあった。

 ドローチャーがスタンキーをリードオフマンに抜擢した一九四五年は、打率こそ二割五分八厘ながらリーグトップの一四八個もの四死球を選び、出塁率は四割一分七厘を記録した。一二八得点もリーグトップで、彼の活躍でチームは前年の七位から三位に躍進している。

 スタンキーの高い出塁率によって得点能力が増したドジャースは一九四六年には二位、一九四七年にはリーグ優勝を勝ち取るまでになった。

 ところがここでやっかいな問題が起きた。一九四七年に初めてカラーラインを破って、ジャッキー・ロビンソンを入団させたドジャースオーナーのブランチ・リッキーは、新人王と盗塁王をダブル受賞したロビンソンの身体能力を考えた場合、一塁より二塁にコンバートさせた方が戦力強化につながるという結論に達し、ドローチャーまでがそれに同意したのだ。

 リッキーもドローチャーもカラーラインが解消されるまでは、「スタンキーだけは手放さない」と大変な熱の入れようだったが、彼らもスタンキー同様、勝つためには手段を選ばないという非情さがあり、ロビンソンという将来性豊かなスーパールーキーを見出したところで、高く売れるうちにスタンキーを手放すことにしたのだった。

 「ドローチャーは俺に後ろからナイフを刺しやがった」

 悪態を突いてボストン・ブレーブスに移籍したスタンキーは、捕手との交錯プレーで負傷して一時的に戦列を離れたものの、三割二分〇厘、出塁率四割五分五厘(規定打席不足)と活躍し、なんとブレーブスのリーグ優勝の立役者の一人となった。

 逆に彼を放出したドローチャーは、チーム不振の責任を取ってシーズン途中でドジャースを解任されている。

 

 しかし、ドローチャーもこのままで終わる男ではなかった。ここからが彼が名将と言われる所以で、一九四八年の途中でジャイアンツの監督に就任すると、翌年のオフにはブレーブスのスタンキーとアルビン・ダーク遊撃手をトレードで獲得したのである。仲違いした者同士が和解して再びタッグを組んだことは多くのファンを驚かせた。

 ブレーブスがスタンキーを放出したのは、スタンキーとナインの不和を危惧していたからである。

 攻撃的野球を好むスタンキーは、ヒット・エンド・ランを多用したが、ある試合でたまたま出塁する機会が多かった九番投手のスパーンがエンド・ランの度に二塁、三塁に全力疾走を強いられた結果、最終回に三点差を逆転されたことがあった。

 チームメイトだけでなくマスコミの中にも、エースであるスパーンを無理に走らせて疲労させたとしてスタンキーを非難する声が上がったが、勝利の瞬間まであらゆる手段を尽くすことをモットーとするスタンキーにしてみれば、投手も野手の一人であり、いくらエースだからといって特別扱いする理由はない。

 やがて監督のビリー・サウスワースも、手抜きが出来ないスタンキーを持て余すようになり、ドローチャーの元に返すことを決断するに至ったのである。

 一番笑いが止まらなかったのはドローチャーであろう。スタンキーの価値を見誤ったサウスワースは三年後にはチーム低迷の責任を取って監督の座を辞す一方で、ナ・リーグの強豪ブレーブスの凋落によって、往年の名門ジャイアンツは十年以上続いた低迷期から脱却し、Aクラスの常連に復活を果たしたからだ。

 ドローチャーはその後、一九五五年までジャイアンツの指揮を取ったが、リーグ優勝二回(一九五四年はワールドシリーズ制覇)、二位一回、三位二回と名将の名に相応しい成績を残している。


 ジャイアンツの一年目、スタンキーは打率三割ちょうど、四死球一四四、出塁率四割六分〇厘はともにリーグ一位と相変わらずのリードオフマンぶりでチームを引っ張り、ジャイアンツは前年度の五位から三位に浮上した(MVP投票では第三位)。

 ドローチャーはチャンピオンフラッグこそ逃したものの、スタンキーをダークの教育係にして、ダークを攻撃的なプレーヤーに成長させることには成功した。その結果が翌一九五一年のリーグ優勝として開花したのだ。

 一九五一年は、スタンキーが二割四分七厘、十四本塁打、四割一厘の出塁率を記録する一方、ダークも三割三厘、十四本塁打で主将の責務を全うした。この二人の二遊間はゴロの扱いこそ雑だが、息もぴったりの名コンビで、ダークが遊撃手として成立させた併殺数は初めてリーグ一位になった。

 またダークが三割を記録したのは新人王を獲得した一九四八年以来のことで、オールスターにも初選出されている。

 

 所属した三チームで優勝に貢献したスタンキーは、狡猾でえげつなくとも、優勝には必要な選手という評価が定着していた。観客の半数近くから野次られ、同じ数の声援を受けたのは、攻撃的野球の先駆者であるタイ・カップ以来のことだった。

「The Brat(餓鬼)」「Muggsy(まずい顔)」「Stinky(臭い・Stankeyをもじったもの)」といったあまり格好の良くないニックネームで呼ばれたのは、ファンの愛情の表れである。

 そんな彼のファイティングスピリッツをチームに注入したいと考えたのがカージナルスだった。

 当時セントルイスには、ブラウンズとカージナルスの二球団が並立し、観客の獲得合戦を演じていた。そこでカージナルスのフレッド・サイ会長は、真面目で堅実タイプのマーティー・マリオン監督兼遊撃手を馘にし、何かと話題性の多いお騒がせ男をチームの広告塔として抜擢しようと考えたのだ。

 監督業にも興味を持っていたスタンキーは、監督兼二塁手というカージナルスのオファーに応じ、一九五二年からはカージナルスの陣頭指揮を取ることになった。出場機会は減ったものの、監督兼選手として過ごした二年間の出塁率は四割を超え、チーム成績も二年連続三位とAクラスを確保した。


 ファンは、一九三〇年代から四〇年代後半にかけて、「ガスハウス・ギャング」の異名を取る荒っぽいチームカラーが売りだった頃のカージナルスの再来を期待し、スタンキーの野球を支持したが、彼がオーダーから姿を消して監督専任になるとチームは低迷し始め、一九五五年途中で解任されてしまった。

 その後もホワイトソックスで監督を務めるが、Aクラスにすら入れなかった。やはりスタンキーはベンチで指示を出すというタイプではなく、自ら切り込み隊長としてナインに率先することで勝利への執着心の高いチームを作り上げるタイプだったのだろう。

 そういう意味ではドローチャーがスタンキーではなく、ダークを主将に指名して英才教育を施したのは正解だった。

 ダークは引退の翌年、一九六一年にジャイアンツの監督に就任すると、二年目にはリーグ優勝、アスレチックスで二度目の指揮をとった一九七四年にはワールドシリーズを制覇しているのだ。

 ただし、ダークも策士タイプだったがゆえに同じチームに長くいることはなかった。このあたりはドローチャーとスタンキーの影響が大きかったのかもしれない。

 スタンキーはフィールドの中でこそ無頼派だったが、私生活は非常に真面目でメジャーに昇格するまでは酒に手をつけることはなかったそうだ。また、家族思いで子煩悩な父親としても知られていた。

 MLB通算成績(11年)打率2割6分8厘 29本塁打 564打点 1154安打

スタンキーの価値は数字では測れないという意味では、現在のドジャースのトミー・エドマンとキケ・ヘルナンデスとミゲル・ロハスを足して2で割ったような選手だったのかもしれない。彼らはいずれも守備力、打力、走力はごく平均的レベルだが(エドマンは足のケガをする前は盗塁数は多かった)、エドマンは器用で、キケは意外性があり、ロハスは頭が切れる。個人成績は平凡でも3人揃えばビッグゲームであればあるほど、存在感を発揮するところはスタンキー先輩を思わせる。

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