第3話『夢と記憶と、もうひとつの世界』
白い――すべてが、白かった。
空も、地面も、風さえも、色という概念を忘れたような世界。
氷室理沙は、そこにひとり立っていた。靴は濡れておらず、風も吹かない。だけど、肌の奥がひやりとするほど冷たい。
「……ここは……どこ……?」
声は確かに自分のものだった。けれど耳に届くのは、どこか他人の声のようでもあった。
「ようこそ、理沙さん」
背後から声がする。
振り向くと、そこには黒い喪服を着た少女がいた。顔は見えない。長い前髪が、まるでヴェールのように垂れ下がっている。
「……あなた、誰?」
「私は“門の番人”。あなたの魂が、どこへ向かうかを見届ける者」
「……魂?」
少女は静かにうなずいた。
「あなたは今、水の底にいます。意識は深く沈み、身体は病院のベッドの上。――ここは、その狭間の世界」
理沙の心臓が強く脈を打った。
「じゃあ……私……死んだの……?」
「死にかけている、が正確ね。でも、選べるわ。『戻る』か、『進む』か」
「……進む?」
「つまり、完全に向こう側に行くということ。生きている者には触れられない世界。神埼透くんが、今いる場所よ」
理沙は息を呑んだ。
透の名前が、ここでも出てくる。
あの冷たいキスの余韻が、まだ唇に残っている気がする。
「……私、彼に……惹かれてしまって……。あの人の心に、触れてしまったから」
「彼も、あなたを強く想っている。けれど……その想いの果てに、あなたが選ぶ道がある」
「……道……」
番人の少女が手を差し出す。
その掌の上に浮かび上がったのは、ふたつの扉。
ひとつは光を帯びた木の扉。もうひとつは、水面のように波紋を広げるガラスの扉。
「木の扉は、生への帰還。あなたがこの夢から覚め、現実に戻る道。
ガラスの扉は、透くんのもとに行く道。彼と同じように、雨の日だけの存在になる」
「……でも……その扉の先に、透先輩はいるんですよね……?」
「いるでしょう。けれど、彼はそれを望んでいない」
理沙の目に、涙が浮かんだ。
思い出す。あの雨の下、肩を寄せ合った時間。
静かな図書室、優しい声、冷たい体温。
「わたし……ほんとうは、ずっと寂しかった。誰かに必要とされたいって……言えなかったけど、心の奥で願ってた」
「それを、彼が満たしてくれた?」
理沙は、こくりとうなずいた。
「でも……」
その声は、震えていた。
「でも……彼の未来を、私が奪うことは……したくない」
番人の少女は、無言で微笑んだ気がした。前髪の奥の瞳が、ほんの一瞬、優しく揺れたように見えた。
「あなたの選択は、たしかに届くでしょう」
理沙は、そっと木の扉に手を伸ばす。
その瞬間、指先からあたたかい光が広がった。
透の声が、どこか遠くで呼びかけるのが聞こえた。
――理沙、戻って。
――君には、生きていてほしい。
「……先輩……ありがとう。私、もう迷わないよ……」
扉が開いた。
光の中に、優しい雨の匂いが混じっていた。
それは、彼と出会った、あの最初の午後の記憶の匂いだった――。