第1話『雨音と傘とふたりだけの時間』
翌日の放課後も、雨だった。
窓の外でしとしとと音を立てて降る雨は、どこか優しくて、どこか寂しかった。
氷室理沙はいつも通り、図書室の鍵を開けて中に入る。書架をめぐり、返却された本を整えながら、自然と昨日のことを思い出していた。
――あれは、夢だったのだろうか。
彼の声も、表情も、あまりに鮮やかで、逆に信じられなかった。
理沙は、窓辺の席へと歩いていく。そこはいつも、彼が座っていた場所だった。
「……いない、よね」
ぽつりと呟いたそのとき、背後から声がした。
「昨日の約束、守ってくれたんだ」
振り返ると、そこに彼がいた。
昨日と同じ制服姿、少し濡れた髪。けれど今日の彼は、前よりも少し近くに感じた。
「……ほんとうに、来たんですね」
「うん。雨が降ってくれたからね」
彼はまた、例の文庫本を手に取り、隣の椅子に腰を下ろした。理沙も自然に隣に座る。
ふたりの間にあるのは、テーブル一つと、静かな雨音だけ。
「君も、本を読むのが好きなんだ?」
「ええ。でも、読むだけじゃなくて、静かな時間も好きです。……それに、雨の音も」
「わかる。雨の日って、世界が少しだけゆっくりになる気がするよね」
「……はい」
会話は少しずつ、少しずつ重なっていく。
彼の声は、心の中にふんわりと染み込んできた。
無理に距離を詰めようとしない、けれど優しさに満ちたまなざし。その柔らかな空気が、理沙をどこか安心させた。
「あの……お名前、教えてもらえませんか?」
理沙は勇気を出して聞いてみた。
彼は少しだけ黙って、それから目を伏せて、低く笑った。
「名前……そうだな。君になら、そろそろいいかも」
顔を上げた彼は、まっすぐに理沙を見つめた。
「神埼透。たぶん、二年前までこの学校にいた……はず」
「神埼、透……先輩、なんですね」
理沙はその名を心の中で何度も繰り返した。
「うん。君は?」
「氷室理沙です。今は二年で、図書委員長をしてます」
「氷室さん……似合ってる。落ち着いてて、本が好きそうな名前だ」
「……褒めてます?」
「もちろん。僕、好きだよ。君の話し方とか、目とか」
「……目?」
「うん。深くて、少しだけ寂しそうで」
理沙は思わず視線を逸らした。言葉が、心の奥まで入り込んでくる。
「……そんなの、ずるいです」
「ごめん。無意識だった」
笑い合ったそのとき、外の雨が強くなった。
カーテン越しに滲む夕暮れの光が、彼の横顔をやわらかく照らす。
ふと、理沙のポーチの中でスマホが震えた。見ると、“大雨警報”の通知。
急いで帰らなければ、家までの道が水に浸かってしまう。
「……そろそろ、帰らないと」
理沙が立ち上がると、透も一緒に席を立った。
「君、傘は?」
「えっと……置いてきちゃって。朝は晴れてたから」
「じゃあ、僕のに入ろう」
そう言って、透は傘を広げた。深い藍色の布地に、ぽつぽつと雨粒が踊る。
――雨の匂い。
少し濡れた制服、彼の体温。傘の下で重なる距離は、たった数十センチしかない。
それなのに、心臓がうるさいほど鳴っていた。
「……ありがとうございます」
「うん。……嬉しいな、こうして君と帰れるの」
「……わたしも、です」
帰り道、ふたりの肩が何度も触れ合った。けれどどちらも、その距離を離そうとはしなかった。
雨が、静かに夜の街を包み込んでいく。