プロローグ『雨の匂い、君の体温』
雨の音が、静かに図書室の窓を叩いていた。
梅雨明け間近の午後。教室には誰もいない。午後五時を過ぎた図書室には、生徒の姿もまばらだった。というより、彼女――氷室理沙ひとりしかいなかった。
黒髪のセミロングが肩先で濡れている。制服のブレザーを脱ぎ、白いブラウス姿で本を閉じたとき、ふと窓の向こうに人影が映った。
……誰かいる。
背筋がぞわりとした。だが恐怖ではなかった。むしろ、それはなぜか――懐かしさだった。
「……先輩?」
理沙の口から、不意にこぼれたその呼びかけに、彼は振り返った。
夕暮れの薄明かりのなか、濡れた制服を着たままの青年が、図書室の中央に立っていた。涼しげな目元、少しだけ整いすぎた顔。濡れた髪が頬に貼りついて、何も言わずに微笑んでいる。
「……誰?」
理沙は立ち上がった。椅子が軽くきしみ、彼との距離が縮まる。
「本、探してるの?」
問いかけながらも、心の奥で違和感があった。校内にこんな人はいたっけ? いや、それ以前に……制服が、少しだけ古い。
「君……図書委員さん?」
彼の声は、不思議と温かかった。音としては低め、だけどまるで雨音の中に溶け込むような、耳に優しい声。
「……はい。あの、あなたは……?」
理沙の問いに、彼はほんの少し、困ったような笑みを浮かべた。
「たぶん……卒業生。昔、ここでよく本を読んでた」
「たぶん?」
「……記憶が、少し曖昧なんだ」
その言葉に、理沙の胸がわずかにざわついた。
記憶が曖昧な卒業生――だと? この図書室に出入りする者は名簿で把握している。彼のような生徒、見たことも、記録でも聞いたこともなかった。
でも、そんな疑念よりも先に、理沙の心を揺らしたのは、彼のまなざしだった。
――きれいな、目をしている。
優しくて、どこか寂しげで、触れたら壊れてしまいそうで。
「この本、まだあるんだな」
彼は棚から一冊を抜き出し、懐かしそうに撫でる。古びた短編集――雨にまつわる小説ばかりを集めた文庫本。
「好きだったんですか?」
「雨の日に、これを読むのが好きだった。……今も、変わらないみたいだね」
彼が座ったのは、理沙がいつも陣取っている窓際の特等席だった。だが不思議と嫌な感じはしなかった。むしろ、そこに彼がいることが自然にさえ思えた。
「……雨の日だけ、来るんですか?」
理沙の問いに、彼は本から目を離さず、ふと微笑む。
「うん、雨の日だけ」
まるで、それが当然のことのように。
「でも……今日、初めて見ました。私、ほぼ毎日ここにいますから」
「そうなんだ。でも、僕は……ずっと、ここにいたよ」
「……え?」
彼のその言葉に、理沙は一瞬、息を呑んだ。けれど彼は、それ以上何も語らなかった。
そして気づけば、雨は止んでいた。
曇りガラスの向こうに、夕焼けがうっすらと広がる。
「……そろそろ、帰らないと」
理沙が立ち上がると、彼も本を閉じて、ふわりと微笑んだ。
「また、雨が降ったら会おう」
「……名前、教えてください」
「……それは、もう少し先で」
そう言って、彼は歩き出す。
不思議だった。歩いているのに、足音が聞こえない。図書室の木の床なのに――。
彼の姿が扉を越え、廊下に消えた瞬間、理沙は気づいた。
そこに――水たまりの跡すら、残っていなかった。