第九話 最後の対決
空にはいくつかの雲が、ゆっくりと流れていた。
土埃が舞う空き地に、鬼原郷哲の姿が現れる。
その周囲には、町人たちが静かに集まっていた。
誰ひとり声を発さず、ただ二人を見守っている。
空き地の中央に、七之助が立っている。
左手を刀に添え、抜く構えを整えながら、鬼原の姿をじっと見据えた。
「鬼原郷哲──遅かったな。待ちくたびれて、あくびが出るぜ」
七之助の声は低く、それでいてはっきりと響いた。
鬼原は足を止め、口の端をわずかに吊り上げる。
「その減らず口も、今日で聞き納めだぞ、七之助。
……昔の戦いでは、俺の草履の鼻緒が切れたせいで負けたが、今度はそうはいかん」
鬼原郷哲は、あの時の悔しさを七之助にぶつけるように言った。
「決着をつける時が来たな。今度は──どちらかが死ぬ」
そうつぶやいた七之助の目が、鋭く光る。
やがて二人は、ほぼ同時に刀をシャッと抜いた。
空気を裂くような鋭い音が響き、刃が陽を反射して鈍く光る。
互いに中段の構えを取り、じりじりと間合いを探った。
しばし、動かぬまま互いの出方を伺う。
そのわずかな沈黙が、ひどく長く感じられた。
風が一瞬、空き地を斜めに駆け抜け、土埃を巻き上げる。
町人たちの裾が、わずかに揺れた。
七之助の額を一筋の汗が伝い落ちる。
鬼原の目が細まり、わずかに足をずらした。
その場にいる誰もが息を呑み、二人の放つ殺気を全身で感じ取っていた。
鬼原が一歩、間合いを詰めると同時に、閃光のように刀を小手へ走らせた。
「──来るっ!」
七之助はそれを瞬時に見切り、
同時に刀を横へ滑らせ、鬼原の刃を鋭くはじいた。
ギィン、と鈍い金属音が響く。
だが鬼原は、間髪入れず次の一手を放つ。
体を沈めると、今度は斜め上──たすき掛けに斬り込んできた。
七之助は素早く一歩引き、鋭い角度で刀を傾けて受け流す。
刃は七之助の肩先をかすめ、風を裂く音を残す。
そのまま反撃へ転じる──
七之助が踏み込み、胴に向けて水平に一閃!
見事な刃筋が鬼原の脇腹を狙うが──
鬼原は寸前で大きく後ろに跳び、風を巻き起こしながら距離を取った。
「……ああ、あの時も、こんな感じだったな。鬼原」
そう言って、七之助は静かに体勢を整える。
「ふん。お前も、ただの酔いどれ浪人ではないようだな」
鬼原もまた構えを整え、静かに足を踏みしめた。
七之助は足を引き、下段に構える。
対する鬼原は、一歩踏み込みながら上段に刀を掲げた。
──次が、最後の一刀になる。
互いに、理屈ではなく本能で、それを悟っていた。
空気がぴたりと止まり、蝉の声すら遠ざかる。
風が一筋、二人の間を通り抜けた刹那──
鬼原が斬り下ろし、七之助が斬り上げた。
「──っ!」
ギィィンッ!
鋭い金属音が、空き地に響き渡った。
次の瞬間──
七之助の刀の先が弾け飛び、折れた破片が宙を舞った。
ゆっくりと回転しながら、町人たちの目の前の地面に突き刺さる。
慌てて七之助は鬼原との距離を取り、次の攻撃に備えて身構えた。
「……ここに来る前の戦で、大斧を刀で受けた時に、刀にヒビが入ってたらしい」
七之助は折れた刀を構えながらも、ぽつりと告げる。
「それは理由にならんな。俺の鼻緒が切れたときと同じだぜ。
さあどうする、七之助。真剣勝負だ、生きては返さんぞ」
鬼原は皮肉めいた笑みを浮かべ、七之助への勝利を確信した。
七之助は折れた刀を無言で見つめ、そして、ため息をつくように。
「しょうがねえな……この刀も、限界だったか」
そう言って、折れた刀を地面に放り捨てる。
数歩、ふらりと観衆の町人に近づくと──
「おい、そこの兄ちゃん──竹槍を、ちょいと貸してくれねぇか?」
唐突な言葉に、町人たちは目を丸くした。
「え、えっ? た、竹槍で……?」
「いいから、早く!」
戸惑う町人の一人が、おそるおそる竹槍を投げ手渡す。
七之助はそれを受け取ると、重さを確かめるように片手で数度振ってみせる。
「ほう……悪くねえな。しっかりしていて、しなりがある」
鬼原は鼻で笑った。
「まさか、その竹槍で俺と戦うつもりか?」
七之助は不敵に笑う。
「まさかと思うだろ? 俺も思ってる。だがな──やってみないと分からねぇこともある」
七之助はそう言って振り返り、鬼原の胸元に竹槍の先を向けた。
まるで突きを狙うような、獣のような姿勢だった。
そして、観衆が固唾を呑む中──
竹槍と刀──異様な一騎打ちが、再び始まろうとしていた。
七之助は、竹槍を一直線に鬼原の胸元へ突き出しながら、低く地を蹴った。
鬼原は冷静だった。竹槍の軌道を──かわすか、斬り払うか──いずれにも応じられると高を括っていた。
だが、間合いに入るその刹那。
七之助の竹槍は鬼原の目前で地面に突き刺さる。
次の瞬間、竹のしなりが勢いよく反発し、七之助の体が宙へと跳ね上がった。
まるで、後の時代で言う“走り高跳び”のような動きだった。
「──なにっ!」
鬼原の目に映ったのは、頭上を越えて舞い上がる七之助の影。
予想外の動きに反応し振り向こうとしたが──もう遅い。
着地と同時に、七之助は脇差を抜き、迷わず鬼原の背に突き立てた。
鋭い刃が背を貫き、鬼原の口から低い唸りが漏れる。
「ぐっ……!」
鬼原は苦悶の表情を浮かべながら、前のめりに倒れた。
七之助は血のついた脇差を軽く振って拭い、静かに鞘へと納めた。
「鬼原……お前の弱点は、過信だ」
観衆がどよめいた。
しかし、鬼原が口を開くと、誰もが息をのんだまま耳を澄ませた。
鬼原は仰向けになり、かすれた声で七之助に語りかける。
「……お前に伝えておきたいことがある。
昔、俺がお前に敗れて脱藩し、町を彷徨っていた頃──黒川組と鷹村組の抗争に遭遇した。
その中に……お前の妻、お結衣が巻き込まれていた。黒川組の組長に……無惨にも斬り殺されたのを、俺は見てしまったんだ。
知らせようと思った。だが……心の奥に残っていた憎しみが、それを許さなかった。
お前に負けた悔しさ……あの怒りが、俺を駆り立てた。
“ざまあみろ”と……あのとき、俺はそう思った。
俺は……憎悪に囚われ、人として、武士として、終わっていたんだ。
もう……戻れなかった。戻る道も、見えなかった。
だから俺は、迷わず黒川組の組長を殺し、その組を乗っ取って……鬼原組を築いた。
この地を手に入れ、のし上がることで──お前に勝とうとした。
それが……俺なりの、復讐だったんだ」
鬼原の言葉は重く、七之助の心にのしかかった。
「 七之助、お前に殺されるなら本望だ。やっと人に戻れる気がする」
そう言って、鬼原はすっと息を吐き、そのまま静かに動かなくなった。
七之助は、ゆっくりと目を伏せた。
「ちくしょう・・・お結衣も…鬼原も救えなかった。俺はなんてバカなんだ」
ぽつりとつぶやいた七之助の声が震えていた。
憎しみも怒りも通り過ぎた後に残ったのは、どうしようもない虚しさだけだった。