第ニ話 七乃助の過去
七乃助は、飛翔丸と別れてしばらく歩いていたが、酒を飲み過ぎたせいか、足元がふらつき体の自由がきかない。
街道の石畳を頼りに歩こうとするが、ついに力尽き、道端に倒れ込んだ。
辺りは薄暗く、仲秋の夜風が冷たく感じた。
遠くでかすかに虫の声が聞こえる中、七乃助の意識は朦朧としていた。
しばらくして、提灯のほのかな灯りが近づいてきた。草履の足音が止まり、提灯の光が七乃助の顔を照らした。
「これは…人?行倒れか??」
提灯を持っていたのは、光説和尚だった。彼は七乃助の顔を覗き込み、
酒の匂いを嗅ぎながら、軽く眉をひそめた。
「随分と酔っておるな…仕方ない奴だ」
光説和尚は、七乃助の肩を軽く叩き、意識があるかを確かめた。
「すぐ近くにわしの寺がある。こんなところで寝ておると風邪を引いてしまうぞ。寄って休んでいきなさい。」
そう言うと、光説和尚は提灯を片手に持ち、もう片方の手で七乃助の肩を支えた。七乃助は重い体を何とか起こし、ふらふらと立ち上がった。
「お、俺にかまうな坊主。ここがおれの死に場所だ」ろれつの回らない口調で七乃助は和尚に言った。
「馬鹿なことを申すでない。人を救うのが仏の道、こんなところでお前さんを死なすわけにはいかないよ」
和尚は軽く笑いながら、七乃助に肩を貸し、二人はゆっくりと歩き出した。ふらつきながらも、
光説和尚の案内で夜道を進み、やがて小さな寺の中へ入っていった。
朝、七乃助は布団の中で意識を取り戻した。ぼんやりとした頭であたりを見回すと、低く落ち着いた声が耳に届く。寺の本堂から、光説和尚の静かなお経が響いていた。
「そうか……坊さんに道で倒れてたところを助けられたんだったな」
昨夜の出来事を思い出し、七乃助は軽くため息をついた。体はまだ重いが、ゆっくりと布団を畳み、手際よく着物を整える。腰に帯を巻き、打刀と脇差を収めると、その表情はいつもの冷静なものへと戻っていった。
座敷を出て、本堂へ向かう。和尚が目を開け、七乃助に気づくと、彼は軽く頭を下げた。
七乃助は苦笑しながら無精髭をさする。
「なぜ俺が酒に溺れて堕落した貧乏浪人になったか……そんな話が聞きたいか?」
「昨晩、助けてもらったお礼ではないが、そんな話で納得してもらえるなら話してもいい。だが、面白い話じゃないぜ」
そう言いながら、静かに腰の打刀と脇差を床に置く。剣が床に触れる音が微かに響いた後、彼は柱に寄りかかるようにして座り込んだ。
光説和尚は穏やかな表情のまま、黙って七乃助の言葉を待つ。
「五年前のことだ」
七乃助は語り始めた。
「俺は名家に仕える武士だった。主君のため、家のために命を懸ける覚悟で日々を過ごし、それを誇りに生きていた」
どこか遠い記憶を辿るように、庭を見つめる。
「そして、お結衣という女性と結婚し、順風満帆な人生を送っていた」
懐かしそうに目を細める。
「彼女は俺にとって、何よりも大切な存在だった。武士として生きる中で、お結衣だけが俺の心を安らげてくれた。日々の疲れを忘れさせてくれる、そんな女性だった」
光説和尚は静かに頷き、七乃助の言葉を受け止める。
「だが、その幸せも長くは続かなかった」
七乃助の表情が陰る。
「あの日、お結衣は『お使いに町へ行ってきます』と笑顔で言った。それが最後になるとは思わなかった」
町では、隣町から流れてきたヤクザと地元のヤクザが抗争を起こしていた。
「お結衣は、その争いに巻き込まれて命を落とした。何も知らない俺は、ただ彼女の帰りを待っていたが……戻ってきたのは、冷たくなった彼女の遺体だった」
拳を握りしめ、深く息を吐く。
「怒りに駆られ、復讐に全てを捧げようとしたが、敵の正体さえ掴めなかった。結局、誰を斬ればいいのかも分からず、剣を振るう意味を見失い……俺は武士をやめ、ただ酒に逃げたんだ」
自嘲気味に笑い、七乃助は続ける。
「さまよい歩き、三年前にたどり着いた町が、この浮花町ってわけさ」
「愛する者を失うのは、苦しいことじゃな」
光説和尚は深く頷く。
「俺も、あの時もっとしっかりしていれば、お結衣を失わずに済んだかもしれない。だが、今さら言っても遅い。後悔なんて、もう何の意味もない」
七乃助は悲しげに目を閉じ、深いため息をついた。
「それでも……なぜかこうして生きている。あの時、絶望の底にいたはずなのに、どういうわけか生きている。何のために生きているのか、自分でも分からないんだ」
七乃助の言葉に、和尚は静かに耳を傾ける。
やがて、光説和尚は頭をさすりながら、苦笑いを浮かべた。
「いやあ、わしは生臭坊主なものでな。悟りの境地には程遠い。お前さんに言ってやれるような言葉はない。ただ、話を聞いてやることくらいしかできん」
七乃助は、ふっと鼻で笑うと、すっくと立ち上がる。
打刀と脇差を腰の帯に収め、軽く息をつく。
「和尚、世話になったな。また来るぜ」
そう言い、出口に向かう。
「ああ、お前の話をまた聞かせておくれ。いつでもおいで」
光説和尚の言葉を背に、七乃助は寺を後にした。