最終話
鬼原との決着から、数日が経った。
町は徐々に日常を取り戻し、活気を取り戻しつつあった。
夕方。
七乃助はいつものように酒屋の座敷で寝転がり、片手にお猪口を持って酒を飲んでいた。
周囲には数人の客が静かに杯を傾けており、賑やかすぎず、それぞれが酒と会話を楽しんでいる。
「師匠。お願いです。あの技を、私にも伝授してください」
そう言ったのは、座敷に正座している棠方飛翔丸だった。
真剣な眼差しで、七乃助の寝転ぶ背中に語りかける。
「うんあ? なんの話だ……」
七乃助は目を閉じたまま、ぐいとお猪口の酒を飲む。
「鬼原を倒した、あの技──竹槍を使った跳躍からの一撃……
あれは一朝一夕でできるものじゃありません。どうか、教えてください」
しばらく沈黙が続いたあと、七乃助はふっと目を開き、体を起こした。
「うんあ……よし、じゃあお前に伝授しよう」
飛翔丸の顔がぱっと明るくなる。
「えっ? 本当ですか!? ありがとうございます! どんなことでもします!」
七乃助はにやりと笑うと、空のお猪口をくるくると指先で回してから置いた。
「ならまず、修行に出てもらうか。藩に入って出世して、偉くなって、この町の奉行の汚職を根こそぎ潰すんだ」
飛翔丸は目を見開き、言葉を失う。
「えっ……?」
七乃助は一転して、鋭い声音で言い放つ。
「さあ修行に行ってこい。お前の道はあっちだ。さっさと行け」
戸惑いながら飛翔丸が立ち上がり、口を開く。
「で、でも……師匠……」
七乃助は鋭く目を開き、声を張った。
「どんなことでもすると言ったな! 男に二言はないはずだ。さあ、行け!」
飛翔丸はその言葉に押され、しばらく迷っていたが、やがて深く息を吸い込み、覚悟を決めたように頷いた。
「……はい。修行に行ってきます!」
七乃助は再び床に寝転び、徳利を手に取ってお猪口に酒を注ぐ。
その背中に、飛翔丸は深く頭を下げた。
「必ず修行をやり遂げて帰ってまいります!」
そう言い残し、飛翔丸は酒屋を後にした。
静けさが戻った座敷で、酒屋の女将がぽつりと言った。
「七乃助さん……あんな言い方は、ないと思いますよ。教えてあげればいいのに。修行だなんて」
七乃助は酒を口に含んだまま、ぼそりとつぶやいた。
「偶然できた技なんか、人に教えられるかよ。あいつは優秀だ……師匠より弟子の方が優秀じゃ、きまりが悪くていけねぇや。
あいつには、あいつの道がある。これでいいんだ」
女将はしみじみとつぶやく。
「飛翔丸さんを、弟子と認めたんですね」
「……あいつなら、立派な人間になって世の中を良くしてくれる。また会えるさ」
そう言ってから、七乃助はひと息つき、酒をあおった。
しばらく天井を見つめていたが、ふと思い出したように言った。
「そうだ、女将。酒を四合徳利で出してくれねぇか。光説和尚のところに持って行きたい」
女将は首をかしげ、不思議そうに七乃助を見る。
「光説和尚? 誰です、その方」
「ほら、あの道の角の寺の住職だよ。名前ぐらい聞いたことあるだろ」
すると女将は、少し困ったような顔で言った。
「あのお寺なら……十年くらい前から無人ですよ。継ぐ住職もいなくて、今じゃ柱が傾いて、放ったらかしのまま……誰もいませんよ」
「そんな馬鹿な。この間行ったばかりだぜ。和尚とも会ったんだ」
女将は戸惑いながらも、酒を四合徳利に注いで差し出した。
「とにかく、酒を持って寺に行ってみる」
七乃助は半ば強引に四合徳利を受け取ると、寺へ向かった。
手に提灯を下げ、もう一方の手に四合徳利をぶら下げて、夜道を歩く。
涼しい風が吹き抜け、酔いもすっかり醒めていた。
寺の門前に立ち、七乃助はふと足を止めた。
かつての風格ある門構えは、今や崩れかけ、草が伸び放題になっている。
「……嘘だろ。こんなボロボロの寺じゃなかった……」
軋む音を立てて門を押し開けると、境内は静寂に包まれていた。
月明かりに照らされた本堂の縁側に、和尚の姿はない。
それでも七乃助は迷わず本堂へと向かった。
「酒のせいか? 俺の幻覚か妄想か? それともモノノケのたぐいかは分からないが……悪い気分じゃなかった」
七乃助はつぶやくと、仏像の前に静かに膝をつき、四合徳利を供えた。
「光説和尚……般若湯を持って来たぜ。楽しい一時を送らせてもらったよ」
仏像は何も語らず、ただ月光を浴びながら、朽ちかけた木肌を静かに浮かび上がらせている。
七乃助は手を合わせ拝むと、すっと立ち上がり一礼し、光説和尚との思いに浸りながら寺を後にした。
ふと見上げた夜空には、雲の合間から、まあるい月が静かに浮かんでいた。
── 『だらくや七乃助』 終幕