ディナー、そして盤の散開(3)
「ウィークェンドちゃん、少し──
「気軽にヴィクって呼んでねって言ったでしょ〜」
「……ヴィクちゃん、少し距離が近いかな。人とこんな態勢で会話した事無いから、今僕はかなり困っているよ」
ベッドに押し倒されているという状況を、果たして『少し距離が近い』で済ませて良いのか、という所には幾らか議論の余地があるだろうけれど。
「大丈夫大丈夫、無理に話す必要無いから」
犯されている、パーソナルスペースを。
容赦だとか躊躇だとか遠慮だとかそういったものが一切入ってない、暴力的とさえ言えるスキンシップの雨嵐で意識がグラグラしてくる。
そもそもの話、こうなるのはおかしい────屋敷の庭園を見に外をふらついていた所で声を掛けられる、ここまでは至って普通の同年代同士の交流であり、全くもって問題無かった。問題はその後部屋に連れ込まれ、そうして今現在こうなっている、という所だ。
それもこれもウィークェンドちゃん──改めヴィクちゃんの誘い方が巧みだった事に起因する。いや、巧みというよりは力押しとでも言おうか、シンプルな話『美少女のおねがい』というのはそれだけで絶大なのだ──しかしそれにしても、これは、いくらなんでもだが。
「………………」
沈黙するしか無いだろう、こういった状況で人は。
こうした時、"正解"とは果たして何なのだろうか?
彼女のコミュニケーションは明らかに過剰であり、僕のコミュニケーション能力は明らかに不十分だ。
ここで徒に思考したり、適当に当たり障りのない会話を探って果たして事態を好転させられるか──いや、そんな事を言うとまるで僕が現状を好ましく思っていないかのような表現となるが。
良いとか、好いとか、そういう問題じゃないんだ。
僕は関わりたくない──何かが起きる、というのが怖いから。
「へえ、黙っちゃうんだ。良いよ〜私の前では何も言わなくて良いし、しなくて良い。ただ居て、その存在を私は感じたいの」
手が這う、回される。
「別に愛とかそういうのじゃなくてさ、ただ人とつるむのって気持ちいいじゃん?」
頭の中枢──そこがどんな所かは良く知らないけれど、一般に心と言われたり魂と言われたりするような、そんな人間にとっての"核"の部分──そこに染み込んでくるような言葉と仕草。
「ならそれで良いと私は思うんだよ、そんな──倫理とか社会正義とかって、あんま気にしても役に立つ事少ないじゃん?」
「ウィーク──じゃなくて、ヴィクちゃん」
目を見る。
必然、目が合う。
「その思考はダメだ──それは絶対、碌な事にならない」
これは持論でも見聞きした知識でもなんでもなくて、単に体験談だ。
「僕は別に、今すぐマトモな人間になれとか、毎日善行に勤しめとか、そういう事を言いたいんじゃなくて──別に良いんだ、異常だろうが、逸脱してようが、でも放棄はやめた方が良い。人は考えて──自分なりに指向を見つけて、目指すべきなんだ。それを放棄した人は──死んでる」
例を挙げると、僕とか。
それを聞いたヴィクちゃんは少し不満気な顔をして、そうした後に横をフイと向き溢した。
「なにそれ、意味わかんない……」
それは紛れもなく、"女性"ではなくて子供の──天才だとか娼婦だとか、そういう言葉を付随させて考えるのはとても出来ないような、ごく普通の15歳の女の子が拗ねてしまった時のような声で──だからそれは、とても可愛かった。
「ごめん、話し過ぎた……これはあくまで僕の経験談だから、そんなに気にしなくて良いよ」
たかが知れているだろう、僕のぶつ一席なんて。
ベッドに横たわったまま顔を手で覆う。何やら僕の苦手な事態に陥りそうだったのは回避したが、しかしこれはコミュニケーションとして失敗している。
この場合当然、非の割合が僕へと重点的に偏ってるのは言うまでもない事なのだが、少しだけ他責をさせて貰うのならば彼女のコミュニケーションだってあまり健全とは言い難かった。
それに何より──抗い難かったし。
「もういいよ、ちょっとお昼寝するからその間だけそこに居て」
「……ん?え、それはどう」
言い終える暇もなく抱き寄せられ、今度は押し倒されるのではなく、縋り付かれるような態勢となる。
「ぐぇ」
締め付けるような抱擁に一瞬苦しい息を漏らすと、気を遣ってくれたのか少しだけ力が緩んだ。
「……」
どうしたらいいんだろう、素数でも数えていようか?1、2、3、5、7、9、えっと……後は、えっと……
57まで数えたあたりでよく分からなくなってきて、ヴィクちゃんの方を見る。
閉じられた目──口に軽く手を翳してみると、弱く規則的な吐息が当たった。
もう寝ているらしい。
睡眠を死の予行演習と例えていたのは誰だったか。普段、あれだけ明朗快活な彼女がこうして一言も発さず横たわるのみとなっているのは、また変わった感覚──邪な、ゾクゾクと背中の産毛を伝うように這い上がるものだった。
まあ、かといってどうこうするという事は無いのだけれど。
目を閉じる──僕も少し死ぬとしよう。
どれぐらい経っただろう、窓から空を見ると、遠くの方はほんの少しだけオレンジを覗かせているぐらいだった。
「起きたー?」
「おきました……」
手足を思いっきり伸ばすと、一日の許容睡眠時間を超えた体がペキペキと鳴る。
既に抱き枕としての役割は全うした後だが、密着の感触が未だ鮮明に残っていた。
「水飲む?」
「もらう……」
「はい口開けてー」
「それくらい自分でのめるよ……」
「知りませんー」
強引にぐいぐいと押し付けられるコップに観念して口を開ける。
冷水は良い、鮮明でさっぱりしていて、尾を引く事がない。まず口内、次に喉、最後に腹と、順々に冷めて、潤っていく──必要なものが与えられたという、そんな満足感だ。
覚醒していく意識の中僕は……いや、多いなこの水、普通コップって7割くらいまで入れる物じゃないんだろうか?僕のは9.5割ぐらい入っている──本当に多い!これはもう潤うとかそういうのじゃなくて浸水と表現するのが正しいレベルの水量を
「ごっ!おっ、えっふぉ!おえっ……えっ、えふ、うえっふ!えふっ!」
「あっ大丈夫!?ごめんね!?多すぎたかも……」
「いやっ、えほっ、だいっ、大丈夫!」
ボタボタと溢れる水が顎へ服へと伝う。こういうのは、ようやく咽せが収まった後に突きつけられる「拭かなければならない」という現実が最も辛かったりする。
「何かこう……タオル的な物はあるかな……」
「え〜っとね、確か……あーあった!拭くからじっとしててね」
「助かる……」
ヴィクちゃんはどうも人の体を拭うのが上手らしかった。そんなスキルが何故培われているのかは考えないとして、僕はこの感覚にしばし懐旧する。
僕は妹を甘やかすのではなく、妹に甘やかされるタイプの姉だったからだ。
「うん、こんなもんでしょ」
少し湿った布を置き、ヴィクちゃんは僕を見る。
僕はごく僅かな逡巡を挟んで、それを見返す。
「なんか、拭かれてる時のゴアちゃん──すごい優しい目してたけど」
「博愛主義者でね」
「誰か思い出す人でも居た?」
なるほど、彼女も嘘が通じない人間らしかった。
「──────────ごめんなさい…………………………」
「そんなに言いづらそうにしなくても良いのに……」
「違うんだ、僕は──違わないです……」
「無理しなくて良いのに……」
どうも僕は醜態を晒し続ける星の元に生まれたらしい。
「ま、誰の代わりでも良いんだけどさ」
ヴィクちゃんはちょっとした諦観混じりに吐き捨てて、僕の頭を触る。
どうも寝癖を手櫛で直してくれているらしかった。
そしてこれも──妹にして貰った事があった。
「まだ部屋に居る?」
「そろそろ戻ろうかな──と、思ってるよ。別にヴィクちゃんと居るのが心地良くない訳ではないけれど」
僕は人と仲良くなるのが苦手だ。手段的な意味でも、目的的な意味でも。
目的的って用法的にどうなんだろうか──なんていう話は戯言なのでどうでも良い事だが。
「ふふ、やっぱ話し方ウザいね」
そう言って上目遣いに妖しく笑ったヴィクちゃんには、もうあの少女のようなヴィクちゃんの面影はなかったし、僕のよく知るあの少女──カーニジ・キャッスルダンスの面影だって無かった。
「じゃあ、また」
「また来てね」
そうして僕は戻る。
元の場所に、元の僕に。