ディナー、そして盤の散開(2)
「おはようございます」
ドロドロの深い眠りからゆっくり覚醒すると、そんな言葉が聞こえてきた。
「オーダーさんってモーニングコールもしてくれるんですね……おふぁおうおざいます……」
「洗顔は冷水と温水、どちらになさいますか?」
「二種類ある……すごい……つめたくお願いします……」
沈んでいた手足をもったりと持ち上げる。シーツを剥いだ体に朝の冷気がひんやりと這い上がってきた。
目頭を擦り床を出ようとした──はずが、いつもより足の高いベッドだったせいで目測を誤り、床に無様な体勢で倒れ込む。
「ぐぁ〜……」
オーダーさんは一連の醜態を見て額を少し抑えた後、「お運びしますね」とだけ言って僕を抱き上げる。
「おおすごい……助かります……」
「お気になさらず、顔は一人で洗えますか?」
「それはさすがに……」
洗面台の前に優しく降ろしてもらい、渡された水差しを手に取る。スベスベしているからこれも多分良い材質なんだろう。
顔にバシャバシャと冷水を叩きつける事で否が応でも体が覚めていく。そういえはタオルの位置を確認していなかったなと思った所で、オーダーさんが優しく顔を拭ってくれた。
「手厚いですね」
「馴れませんか?」
「滅茶苦茶嬉しいです」
「そうですか」
オーダーさんは奉仕の技巧こそ最高級であるものの、態度はクールドライ極まれるという感じで──凄くかっこいい。
メイドさんにご奉仕されるなんていうのは初めての体験だったが、なるほどこれは癖になる。毎日こうして洗面台に運んで貰えたらどんなに幸福だろうか。
「そろそろ完全に目覚めたようですのでお伝えさせて頂きます。ラフフェイク様がお呼びですので、お着替えが済みましたら是非お部屋まで」
「ラフフェイクさんが?もしかしてもう描き上げたんですか?それはいくらなんでも──
早過ぎる──と言いかけたが、そういう"過ぎる"力こそがやはり、天才たる所以なのだろう。
──なるほど、わかりました」
「場所は覚えていますか?」
「右に二つ隣でしたっけ?」
「良かったです──では、これで」
オーダーさんは、やはり至極優雅で見事な一礼をした後に、ドアを静かに開けて去っていった。
しかしながらその30秒後、僕に呼び戻され仕事を一つ増やされる事となる。
「すみません……貸して貰った服の着方がわからなくて……」
ドアを開けると僕が居た。
「……?」
この目──喪に服したような目、傷が無くて何をしてきたのか読み取れない肌、辛気臭いオーラ、これは紛れもなく僕で──しかしそれなら、今ここにいるこの僕は果たして何だというのだろうか。
「芸術家に作品を見せられたのなら感想を伝えるのが筋というものだろう、早くしたまえ」
奥から聞こえてきたラフフェイクさんの声で僕はようやく気付く。今日のエプロンは主に赤やオレンジが飛び散っていた──彼女はもはや、エプロンに飛ぶ絵の具をファッションとしているのかもしれない。
「ああそっか、絵なのかこれ……てっきり自分がもう一人居るのかと。写実的……っていうんですかね?絵じゃなくて本物かと思いましたよ、こんな凄い絵見た事ないです」
近寄って眺めてみると、それは確かにキャンパスとインクで構成されていた。
「ふん、そんなに気に入ったなら持ってくと良い。10年ぐらいは遊べる金額になるだろう」
「じゅ、10年ですか……!?」
それは──とんでもなく大きいんじゃないだろうか。
「貰えませんよそんな……額が大き過ぎます」
「君にとっての大きさなど知るか。私にとってその程度、一日で稼げる物でしかない」
「でもその……愛着とか、無いんですか?」
「無い。そもそも写実的な絵なんていうのは、どう足掻いても現実の美しさを越えられないからだ。仮に『理論上最も美しい絵』が存在するとして──それがどんな絵かは分からないが、写実的で無い事だけは確かだ」
"現実の美しさ"──それは、もしかして。
「そういえば──成程、確かにそうだ。ラフフェイクさん、貴方はどうなんですか」
「何がだ」
「貴方はこの世界に点数を付けるなら、何点なんですか?」
「50だ」
寸分の迷い無くすっぱりと言い切った。
「50……それは──そこまでいくともはや、世界のどんな所が加点ポイントなんですか?」
「絵の具と筆とキャンパス、そして画家だ。世界の大抵はどうでもいい物ばかりだが、そこだけは高評価に値する」
「本当に絵以外どうでもいいんですね、それは──ちょっと羨ましいかもしれません」
もし──たとえば絵じゃなくても何か、それ以外どうでもいいものを見つけられたら、それが不幸と幸福どちらに繋がるのかは分からないけれど、少なくとも迷う事は少なそうだ。
大体の人生は選択の連続である以上、指針は持っておくに越した事は無い。僕の人生には指針なんて無いし、どこに進んでいいかなんて分からないから、強くそう思う。
「悩ましげな事だ、まあ16ならそんな物だろう。私の今15になる弟子も、常に悩んでそうな声をしている」
ラフフェイクさんは人がなにやら悩んでる事を悟りつつ、さして共感や慰めはせずに興味なさげに一瞥するだけだった。大多数にどう取られるかはさておき、少なくとも僕にとって、それは心地良く感じられる。
「さて──」
そんな掛け声と共に、筆に黒い絵の具がべったり付けられた。
何が始まるのかと見ていると、それは徐に僕の肖像画へと向けられ──絵全体を塗り潰すように、乱雑な楕円形を付ける。
「えっ、あの、これは……」
「君に点数を付けるとしたら0なんだろう?なら君をそのまんまに書き写した絵の価値も必然0だ。この絵の値段は0であると、作者である私が今決める。つまりこれはゴミだ、捨てるのは面倒だから君が引き取れ」
それだけ言うと、僕一人置き去りに部屋から出て行ってしまった。
「えちょっ、ど、どこに……?」
「茶を飲む、ドアは君が閉めておけ」
ラフフェイクさんは振り返りもせずに凛と歩き、すぐに見えなくなる。
「…………」
一人と一枚取り残された部屋の中で、僕はもう一度その絵を、自分を見ていた。
0という数字──"存在しない"を表す記号。
僕は自分自身を0なんて評価したけれど、もしかすると僕は自分を0だと思っているんじゃなくて、0になりたいのかもしれない。
どこに居て何をしても、無関係で無価値で──そうだとしたらきっと、無責任だ。それはきっと、とても楽だ。
そう考えると僕が本当になりたいのは0なんかじゃなくて、ただ楽になりたいだけなのかもしれない。「ゼロになりたい」なんてのは流石に格好付けすぎだったかも──0になるのはあくまで手段であって目的じゃない──うん、そっちの方がしっくり来る。
僕は楽になりたい。色んなことを許されて、色んなことから逃げて、色んなことを考えずに居たい。
そう考えると、塗り潰すような"0"に隠された僕の顔は少し──ほんの少しさっきより、辛気臭さが無くなっている気がした。
僕はキャンパスをそっと抱き上げて自分の部屋に戻る、これはどこに置こうか──絵は日焼けするって聞くし、とりあえず日陰なのは確定として。
「それにしても」
ウェイブ・ラフフェイクさん──天才画家と呼ばれる彼女はやはり天才だったが、才能以外にもあの性格。理念があって、基準があって、それを世界に──凡人達に押し付ける事のできる強さを持っている、あの絶対的な仕草。良く捉えない人も当然大多数居るだろうが、少なくとも僕は見ていて、接していてある種の気持ちよさを感じられるような、総括するのならば──
「絵になる人だったなあ……」