大学奮闘記
担当者を連れてこい!
可及的速やかに根本的問題を解決しなければならない。
もう1度問う。担当者を連れてこい!
何故こうなったのか。
部屋の真ん中に座りマスクをつけた桃色のペンキをかき混ぜている女性と壁にもたれかかり彼女をニコニコ見下ろしながら葉巻をふかしている男を眼前に、私は途方に暮れていた。
「よしOK。さあ、早くそのラップトップを渡しなさい。」
私は愛すべきラップトップを胸に抱き、その女性に向かって必死に叫んだ。
「嫌だ!拒否する!そもそもなぜ部長は私の家にいるのですか!そしてこの男はいったい誰なんですか!住居侵入罪及び桃色ペンキによる脅迫罪で訴えてやる!」
葉巻男はニコニコしながら言った。
「まあまあ落ち着きたまえ。そんな罪は聞いたこともない。そんなことより、この部屋に酒はないか。赤玉スイートワインだとありがたいんだが。」
「酒はない!そして仮にあったとしてもあなたに渡す義理はない!あなたは初対面葉巻ふかし罪で訴えてやる!これは決定事項だ!」
私は頬を赤らめながら得体の知れない葉巻男に向かって必死に叫んだ。
「僕には住居侵入罪は適用されないのか。それはありがたい。」
口から2.3の煙の輪っかを出しながら言う。この男なら仮に葉巻がなくても同じ芸当ができそうである。
私は扉を閉め、口から吐息を漏らしながら六畳間に腰を下ろした。
これが私と部長のセカンドコンタクトであり、私と天狗的葉巻男とのファーストコンタクトである。
大学一回生の春、私は至極一般的な妄想をしていた。―夢のキャンパスライフが始まる。
桜が散るキャンパス。入学式が終わり体育館を出ると、道路の両脇に散り落ちた桜の花びらと同じ数の大学生がサークルの勧誘をしている。
私のために本当の意味での花道を作ってくれたのかと勘違いしたものだ。
私の情報処理能力を遥かに凌駕する数のビラを抱えながら、面白そうな講義を可能な限りたくさん受講しよう、無二の親友と酒を呑みながら色々な事を語り明かしたい、そらそろ私にもうら美しい乙女との邂逅があっても良いのではないか、と多種多様な夢想をしつつ両脇に飲食店が立ち並ぶ学生街を闊歩していた。
六畳間の城の真ん中に腰を下ろし、ビラに目を通す。フットサルサークルやテニスサークルといったなんら面白味の無いサークル達もあれば、「天体観測サークル」や「アカペラサークル」など少し風変わりなものもあり、「炊飯器だけで和食を全て網羅する会」や「キャンパスの中心で愛を叫部」、「雨宿り同好会」といったモラトリアムを最大限に活用した唾棄すべき集団もある。
夢のキャンパスライフを手に入れるにはどのサークルが適切だろうか。そう思いながらスペック落ちの私の脳で必死に処理していると、ある1枚のビラに目がいった。
「生半可な甲殻類愛でこの門を潜るべからず」
一面刺激的な桃色のビラの真ん中に黒字でそう書いてある。そもそも何故こんなハレンチなビラを渡された段階で気づかなかったのか。
自分の情報処理能力の無さに呆れつつ、気づけば右下の部長という署名の横のメールアドレスに連絡をしていた。
呼び出された大学の会議室で私は拍子抜けした。
サークルの部長なんて、左耳に穴を開けた前髪中分け男かもしくはメガネをかけたいかにもな変わりもの男だと思い込んでいた。
だが目の前には頭の切れそうな乙女がいた。
「私はカルキスの部長です。もっとも、肩書きだけですが。カルキスは伝説のカニを探す会です。それから、これは面接ではないので安心してください。明日の正午改めてあなたの家に伺います。」
サークルの名は「カルキス」というらしい。
「あの、それなら今日私は来なくて良かったのではないでしょうか。二度手間だと思います。」
「はい、二度手間です。それではまた明日」
結局サークルの活動内容と名前以外何の情報も得られないまま、夢のキャンパスライフから羽が生えぱたぱたと飛んでいってしまったように思った。
私はその日の夜、全く寝付けなかった。このままでは訳もわからないまま訳のわからないサークルに入ってしまい、当然の帰結として夢のキャンパスライフをとり逃してしまうかもしれない、という絶望と焦燥で頭がいっぱいだったのだ。確かに部長は美しい乙女だったが、それとこれとは問題が別だ。
頭を冷やすために散歩がてら徒歩10分のところにあるローソンに向かっていると、空が白んできた。
酒を飲むと寝付けると聞く。私は人生で初めて呑む酒は何が適切なのか分からなかったのでとりあえずヒゲを蓄えたオジサンマークの琥珀色の酒を選んだ。私の初めてをもらえてこのオジサンも光栄だろう。
そして六畳間に帰ってきて扉を開け、今に至る。
「部長がいらっしゃるのは正午ではなかったのですか。そして何故私のラップトップは桃色に染められようとしているのでしょうか。お答えください。」
「神木さんがこの時間にしようと仰ったので参ったまでです。そして神木さんが仰ったのでラップトップを桃色に染めようとしているまでです。」
「神木さんとは一体誰なんですか。」
「僕の噂をしているのかい。」
葉巻男がこちらを見て言う。
緑の甚兵衛を身に付け濃紺の帯を締めているこの男はそもそも大学生なのだろうか。
「僕らは君を歓迎するために来たんだ。あんな訳の分からないビラを渡されたら僕なら即刻紙飛行機にして飛ばしていただろう。でも、君はコンタクトをとってきた。勇気を振り絞って一歩踏み出した君の行動力は称賛に値する。」
葉巻男はニコニコしながら言った。
「待ってください。あなたはカルキスの関係者なんですか。」
彼は答えたくない質問には答えないようにしているらしい。
一拍開けて部長が答えた。
「関係者もなにも伝説のカニを探そうと言い出したのは彼です。ですが2人だとあまりにもマンパワーが足りない。だからメンバーを増やそうとサークルという形をとって人員を集めていた次第です。」
どうやら私が夜更前に抱いた絶望が現実のものになりそうだった。
「つまり、カルキスのメンバーはお二人だけで他には誰もいないと?未来の無二の親友もうら美しい乙女もいないということですか!」
「君は大学生活において一番大切なことはなんだと思う?」
顎を撫でながら私に向かって言う。私は答えなかった。初対面の人間にそのようなことを話す義理はないからだ。
彼は勝手に話し始めた。
「いいかい、大学生活において重要なことは一歩踏み出す勇気を振り絞ることだよ。今まで中学高校と生きてきた中で自分が自由だと感じることはなかったはずだ。なぜなら、周りの大人がせっせと道をこしらえ時に押しすぎだと感じるぐらい背中を押されるからだ。そして大学ではそういったしがらみからきれいさっぱり解放される。時間は潤沢にある。そして誰かに何かを強制されることはない。これは一見素晴らしいことのように思える。だが言い方を換えれば、自分から何かをしなければ何も起こらないということだ。ピカピカのランドセルを背負った君にはまだわからないだろうが、これは真理なんだ。行動を起こさなければ全くといっていいほど何も起きず無為に時間だけが過ぎていく。そして四度目の冬を迎える頃に猛烈に後悔することになる。携帯を握っていてもペニスを握っていても思い出なんて出来やしないんだ。君が示してみせたように行動を起こすこと、起こしてみることが非常に重要なんだ」
私は何も返答しなかった。初対面で偉そうに講釈を垂れやがってと思いつつ、彼の放った言葉一つ一つが身体に浸透していくのを感じていた。
そしてそのまま彼は大きな欠伸をしながら部屋を出て行ってしまった。
「神木さんは君のことを気に入っているみたいね。」
「全くもって嬉しくないです。彼は何者なんですか。」
「私もよくわからない。四浪四留しているれっきとした大学生だとも言われてるし、実は総理大臣の息子で、汚いなりをしてるけど超がつくほどのボンボンだとも言われてる。他にも、人間界に遊びにきた天狗だという説もあるわ。」
「なぜあんな得体のしれない人物とつるんでいるんですか。あなたほどの容姿なら夢のキャンパスライフを手に入れられたはずです。」
「理由は一つよ。なんだかオモシロそうだから。ただそれだけ。一般的な夢のキャンパスライフなんてこれっぽっちも興味ないわ。」
些少の迷いもなくそう言い放つ彼女の横顔に動揺させられた。
「あ、それから、あの葉巻男のことをもっと教えてくれませんか。彼はなぜ伝説のカニなんて探しているんですか。そもそも伝説のカニってなんなんですか。」
そういう私を遮って部長は言った。
「彼のことを知りたいなら彼に直接聞くのがベストよ。彼の部屋はこの部屋の真隣だから行ってみたらいいわ。」
なんということだ。
大学の神様によって、私が4年間を棒に振ることは決定付けられていたというのか。
羽を生やしてぱたぱたと飛んで行った夢のキャンパスライフがこちらを見下ろして嘲笑っているように思えた。
私は隣の部屋の戸を叩いた。
入りたまえという音が飛んできた。
(生半可な甲殻類愛でこの門をくぐるべからず)
私はどうにでもなれという気持ちで戸を開けた。
戸を開けると視界が真っ白になった。死んだと思ったが死んではなかった。
白煙が部屋中に漂っている。
目を凝らして部屋の中を見渡すと、狐の面やアフリカの打楽器、昭和レトロなポスターといった愛すべきガラクタたちに加え、夥しい数の書物が所狭しと置かれている。
「まあ適当に座りたまえ。」
上の方から声が聞こえる。音のした方を向いて私は目を疑った。
天井の角付近に胡座をかいて書物をめくっているシルエットが見える。
高さを出せるものは何もない。だから宙に浮いていないと論理的に説明がつかないがそもそも人間が宙に浮くこと自体論理的に説明がつかない。私は狐にでも化かされているのか。だとすればどこからだ。初めて部長にあったところからか。六畳間で桃色のビラを見たところからか。そもそも大学に合格したこと自体化かされているのか。
そんなことを考えながら突っ立っていると、葉巻男が話しかけてきた。
「君がきた理由は大方見当がついている。部長に私がどんな人物なのか尋ねたら直接聞いてみろと言われて今に至る、といったところだろう。」
「まあそんなところです。幾つか質問しても良いですか。」
葉巻男は答えない。暗黙の了解と捉えた私は勝手に続ける。
「神木さん、あなたは人間ですか。」
「猫は猫だし扇風機は扇風機だ。もっと自分の認識能力を信じた方がいい。君が僕を人間だと思うなら人間だし、人間だと思わないのなら人間ではない。」
のらりくらりとかわされる。
「わかりました。ではあなたはなぜ伝説のカニとやらを探しているのですか。」
「夢の為だよ。君は幼少期に読んだ絵本を覚えているか。」
「読んだことはありますが、内容までは思い出せないと思います。」
「僕はね、4歳の時に読んだ絵本に感銘を受けたんだ。350mlの缶ほどの大きさの桃色のカニが出てくる話だ。その話が幼き頃の私の胸を打ったんだ。そしてその打撃は今も残り続けている。もちろんそんなカニが存在しないことなど百も承知だ。でも、探さずにはいられない。目指さずにはいられないんだ。四六時中頭がいっぱいになるような、そんなものは君にはあるか。」
ない。と言うのが恥ずかしくて私は押し黙っていた。
「まあ良い。君がパーティの一員になったことで捜索はグッと楽になる。これを見たまえ。」
いつの間にか白煙は消え、目の前には葉巻を咥えた男が座っていた。
私も腰を下ろして、北は青森から南は熊本まで、いくつかのバツ印が付けられた地図を見た。
「これは僕たちが捜索した形跡だ。絵本によると、そのカニは洞窟にいるとされている。今しらみつぶしに洞窟内をあたっているところだ。」
「洞窟に生息しているということ以外、手掛かりは他に無いんですか。例えば雪国にいるとか、温かい南国にいるとか。」
「無い。全くもって無い。そもそも手掛かりがあるのならとうの昔に捜索範囲を絞っているだろう。この迷走ぶりを見たまえよ。」
私は馬鹿らしくなってきた。
この男が人を惹きつける不思議な力を持っているのは認める。だがやることなすこと荒唐無稽すぎる。
金輪際この男と関わるべきでは無いと脳のコックピットから指令が出ている。
「ふむ。金輪際僕たちと関わらないようにしよう。そう思っているな。」
心が読めるのか私の感情がだだ漏れ過ぎるのかどちらだろうか。
「まあいい。とりあえず今から京都に向かうぞ。さっさと着替えてきなさい。そんな時代遅れの文学青年風の格好でカニなんて探せると思っているのか。」
「今からですか!なぜそんなにも急なのですか!」
「しのごの言わずに早く。ほら、部長ももう到着したみたいだ。」
下を見下ろすと可愛らしい形をした緑のムーブが停まっていた。
葉巻男は私の背中を掴み、耳元で言う。
「いいか、彼女が卒業するまでに必ず見つけるんだ。今は春だから、タイムリミットは3年も無い。肝に銘じておくんだ。」
2人は恋仲なのか尋ねようと思ったがどうせまた自分の認識能力がうんぬんかんぬんと言われるだけだと思ってやめた。
そして私は先輩が運転する車の助手席に座っていた。
それから私たちはくる日もくる日も3人で洞窟に出かけた。
私が3度目の冬を迎える頃、つまり先輩が卒業する数ヶ月前のことである。我々は日本の全ての洞窟を網羅していた。
当然桃色のカニなど見つかっていなかった。
部長と葉巻男の綿密な打ち合わせの結果、葉巻男が提唱した灯台下暗し理論に基づき、我々は最初に捜索した神戸の洞窟を再び捜索することになった。
洞窟に向かう道中、葉巻男はいつものような軽口を叩かなかった。相槌を打つ必要がなくなった部長は静かにハンドルを握っている。
目的地の洞窟は想像していた以上に狭かった。私たちは遠足に来た幼稚園児のように仲良く一列になって進んだ。
最後尾からは前の部長すらよく見えない。最前列の葉巻男が持つ頼りない懐中電灯の灯りだけが頼りだ。
そして30分ほど進んだところで事件は起きた。
「グシャッ」
前方から何かが潰れる音がした。
「あ」
「あ」
「あ」
こちらを振り返った黒猫の口元で桃色のカニがたくさんの足をバタバタさせていた。
「まさかこんな結末になるとは。幼い頃からずっと探していたものにこんな形で出会うことになるなんて。そもそも350mlの缶ほどの大きさも無いではないか。いやあ愉快だ。」
「カニには気の毒ですが、卒業するまでに見つけられてよかった。本当に桃色でしたね、実在しましたね。」
私は部長と葉巻男が心から楽しそうに笑っているのを初めて見た。
思い返せば大変なことばかりだった。だか、人生においてこんなに達成感を得られたこともない。
私も彼らの前で初めて本当の意味で笑ったかもしれない。
その翌日から葉巻男はぱったりと姿を消した。
天狗界なるところにお戻りになったのか、次は桃色のウミヘビでも探しにいったのか、そんなところだろうか。
私はそんなことを考えていたながら手のひらの上にある夢のキャンパスライフとやらをぼんやりと眺めていた。




