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夜鏡の波紋

作者: 秋澤 えで

 あの夜を、あの海を、あの青を、指先から広がる波を、俺はきっと忘れない。



 一人暮らしの大学生の部屋に似合わない木箱を前に俺は正座をしていた。


 先日亡くなった父の形見を受け取ったのだ。俺に渡すように、とだけ言われていた木箱の中身を、俺と親父以外の誰も知らない。高そうな桐の箱を開けるとそこには青銅でできた鏡があった。


 古びたメモには走り書きのような文字がのたうつ。親父の文字だ。


 「水を張る。指先で触れると返事が来る」


 なんのことかわからない。そもそもこの青銅の鏡でさえ歴史の教科書で鏡として紹介されていたから知っているだけで、どうすれば鏡のように世界を映し出すのかを俺はまともに知らない。


 このくぼみに水を張って使うものなのか、と半信半疑でグラスに水を入れ鏡の上へと流し込んだ。


 鏡のくぼみは浅い。グラス一杯分も入っていない。


 水を張ったことでかろうじて光を反射させているが、それでも鏡を名乗るには程遠い。俺が覗き込んでも顔はぼやけるばかりで一向に映らない。


 首をかしげているうちに水面の波が収まった。鏡の上の水はまるで一枚の板のように凪いでいる。




 「『指先で触れると返事が来る』って書いてあったな……」




 返事、とは何だろうか。やらなければわからないだろう、とこわごわと人差し指を水面に近づけた。


 ちょん、と指先を置いたところから綺麗な円が一つ、広がっていく。小さな波紋は大きくなり、銅鏡の端に触れると消えていった。


 しばらくそれをただ見ていたが、返事と思しき何かはない。




 「……いや、骨董品に水張って触るって、どんな不思議アイテムだよ」




 大学進学と同時に東京に出てきて小さな部屋で下宿している俺は、最近独り言が増えてきた。誰も話し相手がいないと独り言が増える、という研究を別の教授のゼミ生が確かしていた。


 端的に言って、俺は寂しかったのだ。もちろん大学に友達はいるがこちらは貧乏大学生。アルバイトをしてもそんなものは大抵食費に消えてしまう。そう何度も友人と飲みに行くことも遊びに行くこともできないのだ。


 そうなれば当然、バイトのない夜は誰とも何も話さないのだ。わざわざ暇つぶしに電話をかける関係の友人もいなければ夜の帳をともに楽しむ彼女もいない。


 結局のところ「返事が来る」というポイントは一人寂しい俺にとって甘美なものに感じられたのだ。


 だが希望を抱いたままやってみれば、これだ。なにも起きない。まるで狐につままれた気分だ。いやこれはむしろ親父につままれた気分とでもいうべきなのだろうか。


 もう水を流して寝てしまおう、ともう一度銅鏡に目を向けたとき目を見張った。


 一つ、水面に波紋が広がったのだ。


 波紋は先ほどと同じようにだんだん大きくなり、銅の壁に阻まれて消えていった。


 先ほどの違うのは一つだけ。


 俺が水面に触っていないということ。




 「は……?」




 ごくりと唾を飲み込んだ。


 オカルトだとかを信じているタイプじゃない。幽霊は見間違いと人間の恐怖心から産まれた幻覚だ。金縛りは脳の誤作動だ。


 だから誰も触らないで水面が揺れるはずないのだ。




 「まさか、な」




 そう、たまたま。偶然だ。きっと風でも吹いたか羽虫が水面に飛び込んだだけのこと。


 もう一度指を水面に伸ばした。


 ちょんちょん、と二度、水面をつつく。


 波紋が二重に広がって、そうして消えた。


 すると今度は先ほどよりも早く、水面が揺れる。


 広がる波紋は三つ。三つの円は広がり、そして消えていった。



 心臓がバクバクとうるさく音を立てる。顔が熱くなり、息が荒くなる。


 こんなことあるだろうか。




 「こんなこと、あるか?」




 口から出た言葉は今起きた現象を小馬鹿にするようなもの。けれど俺は興奮を隠しきれなかった。



 鏡の向こうには“誰か”がいる。



 まるで白雪姫に出てくる魔法の鏡。ファンタジーの代物だ。それをどうしてか親父が持っていて、今や俺の手元にある。


 それでも疑わしくて、今度は水面に三か所ばらばらに指をつける。三つの円は時間差で広がり、お互いの円をかき消し合っていた。


 すると今度は円が五つ、バラバラの場所で広がっていく。円は広がり打ち消し合い、そうして最後の円が淵にぶつかると沈黙した。


 荒くなる息を整えようと口元に手を添えるが、まるで意味なんてない。早鐘のように打ち鳴らす心臓を抱え、思わず俺は笑みをこぼした。


 これはこちらの行動の再現じゃない、反復じゃない。この鏡の向こう側には思考する何かがいる。



 言葉の伝え方はわからない。けれどこちらの起こした波紋を、向こう側で観測しているものがいて、そちらのものが起こした波紋を、俺が観測している。



 これが、親父の言っていた返事だ。


 話せなくても、言葉がなくても、向こう側の何かは俺に返事をくれる。




 それから俺は水鏡に夢中になった。


 バイトが終わればどこにも寄り道せずに部屋へ直行し銅鏡に水を流し込む。静かになった水面にちょん、と指先をつける。最初のこの波紋が、向こう側の誰かを呼ぶ合図だ。ものの数十秒後俺のものではない波紋が水面に広がる。もう見慣れた光景。それでもこの最初の波紋を見るだけで俺は初めて見たときの高揚感を何度でも思い出すのだ。


 俺が水面叩いた分だけ、水面の向こう側から返事が来る。


 ひどく静かで穏やかで、この瞬間自分が一人ではないことに安心していた。



 その静かな時間が変わり始めたのは本当に偶然で、予想もしないときだった。


 一通り水面の向こう側の誰かと対話をしたあと、部屋の時計を見上げた。針は夜中の12時を指している。明日の授業は1限からだ。登校時間を考えるとそう夜更かしはできない。


 水鏡をそのまま放置すると水面に埃が落ちるし、蚊が湧くかもしれない。そう思い水鏡の水を捨てようと近づいたとき、窓際に置いてあったもらいもののワイヤープランツの葉が一枚落ちた。葉はひらひらと踊りながら、水鏡の上に舞い降りた。小さな波紋が丸い葉を中心に広がる。ふと、俺がつついたわけでもないとき、水面の向こう側はどんな反応をするのか、と思った。


 そしてそれはそう思うと同時の出来事だった。



 とぷん。



 丸い小さな葉は、水鏡の中へと消えていった。




 「は……!?」




 水鏡を拭くつもりで持っていたタオルが床に落ちる。俺は慌てて水鏡を覗き込んだ。けれどそこには何もない。見慣れた静かな水面が広がっているだけだ。今は一つの波紋もない。呼吸が震えた。目を凝らしても水の中にワイヤープランツの葉は見えない。


 ゆっくりと息を吐いた。水鏡を持ち上げ、キッチンのシンクに水を流す。


 薄い鏡から水がなくなった。けれどついぞ鏡の水の中から落ちたはずの緑の葉は見つけられなかった。




 「いや、そんなことあるか……?」




 直径30cm程度の銅鏡。深さは1cmにも満たない、親父の形見。


 水面をつつけば、なにもいるはずのない水面の裏側から波紋の返事が返ってくる。


 さらに言えば水面に何かを浮かべれば水面の向こう側の者がそれを攫って行く。




 「こんな面白いことってあるか……!」


 




 それから俺の実験は始まった。


 もう一度小さな葉を浮かべてみたり、草むらで採った花を浮かべてみたりした。どれも水面はそれを飲み込んで見せた。水鏡を覗き込んでも葉も花も姿は見えない。


 まるで鯉に餌でもやるように小さな花をはたはたと水面に落とす。すると小さな波紋を広げながら花は水面の向こう側へと飲み込まれていった。


 それは日々の日課になった。外を歩けば水面の向こうにやれるような花はないか、葉はないかと目をやり、池や川を見るたびに自宅の水面を思い出した。




 「なんか最近のお前、穏やかになったよな」


 「そうか?」




 ゼミが終わり、帰ろうとレジュメを片付けていると同期にそう言われた。




 「そうだよ。前まではなん一にバイト二にバイト、みたいにせかせかしてたのに、だいぶ落ち着いてるみたいに見える。どうした? 彼女でもできたか?」


 「できてねえよ。できたら自慢してるわ」




 げらげら笑いながら背中を叩く。それと同時にあの水面を思い浮かべた。


 彼女、ではないだろう。そもそも水面の向こう側にいるものが女かどうか、それどころか人間かどうかもわからない。


 ペットと呼ぶには世話などしていない。友人というには何も知らない。


 もしかしたらSNSのフォロワーに近いかもしれない。画面の向こう側にどんな人間がいるかは知らないが、生きているのは知っていて、反応も帰ってくる。


 フォロワー。それが一番しっくりきた。






 「今日ゼミのやつに彼女できたのかって言われたよ」




 呟きながら早咲きのコスモスを窓越しの夜の空を映し出す水鏡に浮かべた。紫の花がぽとりと水面に落ちて波紋を広げる。そしてその波紋が縁に到達する前にコスモスは水面の向こう側へと姿を消した。どうやら気に入ってくれたらしい。空き地に生えていたコスモスで喜んでくれるなら安いものだ。今度はオレンジ色のコスモスを浮かべる。またとぷり、と花は姿を消した。なんだかすぐになくなってしまうのがもったいなくて、形の崩れた薄桃のコスモスは花弁を一つ一つ千切って水面に浮かべた。電気をつけなくても月明りのおかげで水面はほんのりと光って見えた。散った花弁は一つ一つ水面に吸い込まれ消えていった。


 


 それはほんの出来心だった。



 いつもなら花を浮かべてすべてなくなったら幾度か水面を指先で叩き、それから水鏡から水を流して眠りにつく。偶然だった。


 偶然、今日はコスモスの花をいくつも持っていて。


 偶然、部屋の電球が切れてつかなくなってしまって。


 偶然、満月で外が明るかった。


 いくつもの偶然が重なった結果、ほんの少し、魔が差したのだ。


 もし俺が、水面を指先で撫でるのではなく、水面にこの手を浸したなら、




 「どうなるんだろうな」




 いつもなら思わないことを、いつもならしないことをしてしまったのだ。


 “あの空の青に手を浸したい”なんて詩があった気がする。


 もし俺が、この空の藍に手を浸したいと思ったなら、




 「どうなるんだろうな」




  静かな水面にそっと右手を置いた。指先が、手のひらが、冷えた水に浸る。なんでもない。ただの浅い水たまりだ。



 何をやってるんだ、自分は。そう笑い、手を引こうとしたとき。


 何かが俺の手の掴んだ。


 手のひらに指が絡み、引っ張られる。


 水鏡の水は1cmの深さもない。けれど俺の手はすでに手首まで水鏡の中へと吸い込まれていた。



 冷汗がにじみ出て、総毛立つ。どうすればいい、と逡巡した時、俺の手を掴む力が一気に強くなった。


 両足が床から離れ、身体が宙に浮いた。




 肩まで水鏡の中に引き込まれたと思ったら、もう俺は水の中だった。


 夏だというのに水はまるで氷のように冷たく肌を刺す。背を濡らしていた冷汗を洗い流し、服の中まで水が侵していく。


引き込まれる瞬間から閉じていた瞼を開けた。




「…………!」




そこは一面の青だった。どこまでも、どこまでも青い水の中。上部から光が降り注ぎ、下部には深く暗い青が広がっている。


底から泡が浮かんでは消え、空からは光がさしてはかき消される。



静かで冷たい、青だ。



呆然と揺蕩う青を見ていると、再び手を引っ張られた。先ほどの暴力的なまで強さではなく、まるで声をかけるかのような緩やかさで。


はっとして俺は右手を見た。指を絡ませつながれた手。その手の主は俺を見上げていた。


青、海の色をそのまま流し込んで閉じ込めたかのような青い目が、俺を見ていた。


目が合うと嬉しそうにそいつは笑う。男とも女とも判断のつかない顔。成人男性一人引きずり込むくらいの膂力。人間ではないのだろう。


そいつは口をパクパクと動かす。俺に何か話しかけているのだろうか。それでも俺にはなんと言っているかわからなかった。


一通り何かを言い終わり、そいつは笑って俺の手を引いた。強い力で、俺をまるで引きずるように青の世界を泳いでいく。



ぐんぐんと水の中を切り裂くように、波の合間を縫うように泳ぐそいつを、俺は少し後ろから見ていた。髪が波に嬲られ、Tシャツが揉みくちゃにされる。



視界の端半透明のクラゲが通り過ぎる。名前も知らない魚の群れを蹴散らし、海底に蠢くタコを見た。


俺の少し前を槍のように泳いでいく奴には足がなかった。


大きな尾ひれは俺を連れてすさまじい勢いでどこかへ向かっていた。


息はどうしてか苦しくない。勢いよく水流に晒されているはずの両目が痛むこともない。俺は瞬き一つせず、流れていく青い景色と、青をかき分け泳いでいく緑色の尾ひれを見ていた。


恐怖はなかった。ただ奴が俺をどこへ連れて行こうとしているのか、今はそれだけが気にかかった。


ふと、奴は突然泳ぐ方向を変更した。今までまっすぐ泳いでいたのに、突然上昇し始めた。空から降り注ぐ光が強くて、目を細めた。光に照らされ、奴のシルエットが浮かび上がった。


ああ、奴は。




「人魚だ」




俺の言葉は泡となって青の世界に吸い込まれた。



青い目の人魚とともに急上昇していく。まるで空をひたすらに昇っている気分になる。光が強くなり、深い藍が遠くなる。




「ぷはっ……!」




ガラスの壁を割り出るように俺たちは水面から顔を出した。


あれほど明るくまぶしかったはずの空は海底と同じ深い深い藍色だった。けれどその暗闇を拭うように、真っ白い満月が暗い海を明るく照らしていた。




「ああ、ここは……」




海面からあたりを見渡す少し離れたところに街が見えた。


あれは俺の住む東京だ。港が見える。明りの消えないビル群が煌々と夜の街を照らしている。


俺は名前も知らない人魚と二人で、遠くの夜景を見つめていた。波が打ち寄せては俺たちの身体に触れて消えていく。まるであの水鏡の波紋のように。

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