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千夜十夜物語

アンヘドニア

作者: 穹向 水透

27作目です。どんよりした世界ですね。


 

 想像してみて下さい。

「うん」

 あなたの前に冷蔵庫があります。あなたは扉を開けてペットボトルの飲料水を取り出して飲んだ後、それを戻して扉を閉めます。この時、扉は閉まっているでしょうか?

 確めて下さい。

 手でしっかりと確認できたら離れましょう。

 でも、考えてみてください。

 本当に、本当に扉は閉まったのでしょうか? もしかしたら、少しだけ隙間があって冷気が漏れ出しているかもしれません。不安じゃありませんか? 気になりませんか?

 はい、もう一度、確認しましょう。

 手でしっかりと、しっかりと確認します。

 そうしたら、離れましょう。

 でも、やっぱり、不安じゃないですか?

 本当に、本当に、本当に閉まっているでしょうか?

 そして、また戻ります……。

 冷蔵庫に限った話ではなく、部屋の電気、ストーブの電源、テレビ、忘れ物など、不安のスイッチは何処にでも存在するのです。そして、その不安を消さないと安心して生きることができないのです。

 いつからか? そんなのわかりません。いつの間にか、確認する癖がありました。でも、確認するに越したことはありません。本当に失くして後悔するのは嫌ですので。

 病的に思いますか?

 私も過去に思ったことはあります。あれは、中学生くらいの夏休み。寝る前にトイレへ行きました。そして、トイレから部屋まで戻る途中に冷蔵庫があるんです。私はそれが閉まっているのかどうか気になって仕方がなくなって、何度も何度も扉を押しました。でも、わかるんですよ。本当は閉まっていること。それなのに、身体が止まってくれません。結局、三十分ほどの間、冷蔵庫の扉を押しては部屋に戻り、また冷蔵庫の扉を押しに行く、という動作を繰り返していました。客観的に見たら夢遊病患者かゾンビのようだったでしょう。

 それから何年も経ちましたが、未だに冷蔵庫の扉を押さえる習慣は続いています。最早、生活リズムの中に組み込まれているようです。

 深夜、寝ようと思ったら、まず薬を飲むために冷蔵庫を開けて水を取り出します。薬は抗ヒスタミン薬で、あんまり効果がわかりません。プラシーボ的なものなのでしょうか? それはさておき、薬を流し込んだら扉を閉めます。ここで確認。三回くらい扉を押します。そして、トイレへ。ここでも私の悪い癖は現れます。まず、トイレを流したかどうか。何度も蓋を開閉して確かめます。あと、手を洗った後に水を止めたかどうか。視覚的には水は流れていませんが、私の深い部分では自分の視覚を信用できていないようで、何度も触って確認します。そして、トイレから出ると例の冷蔵庫があるのです。私はまた押して確認を開始します。ここはランダムで素直に身体が動けば七回程度、酷い時は上限なく押す動作をします。あんまり回数が多いと、腹立たしくなり、悲しくなります。

 最終的に一応の確認ができた私は冷蔵庫からそっと手を離し、何にも触れることなく部屋へ戻ります。ここで部屋のドアなどにぶつかるとやり直しとなります。この時点でのやり直しが一番辛いです。

 この動作が発生しない条件は、まだ自分以外の誰かが起きている場合です。その時は、とても楽に部屋へ戻って眠ることができます。

 視覚的な信用をしていないと言いましたが、光は別です。寝る前のストーブを切ったか、電気を消したかは視覚で判断します。しかし、ストーブや電気も朝や昼になると確認を要します。時折、冷蔵庫よりも時間が掛かることがあります。

 何故こんなことをするのか? 私は考えました。授業中、窓から遥かな青空を眺めながら。

 辿り着いた答えは単純で、何も失いたくないという強欲さに由来するというものです。電気が点いていたら電気代が無駄ですし、ストーブの点けっぱなしで家が火事にでもなったら情けないですし……そう、こんなに単純なことなんです。それが凝縮された結果が、私のように冷蔵庫を押し続ける人生になったわけです。

「虚しいね」

 私もそう思います。



 私は裏表がない人間だと思われているようです。それもその筈、普段、社会を歩く際に使うのは「裏」の顔なのですから。ここで記述しているのが「表」の私です。冷蔵庫を押す私は表裏両方に存在します。まぁ、これは別に露見しても問題がありません。

 本来の私は人間としての生き方を放棄したいと願っています。

 例えば、性別。私はどちらの性でもない中間で生きていきたいとずっと思っています。しかし、まだ考えているだけです。中間で生きるとなると、結婚などは論外です。端から結婚や恋人作成をするつもりは微塵もないのです。過去に経験のために恋人を作ったことがありますが、それは私の人生にプラスではありませんでした。

 番を作って子供を作ることが人間の本質ならば、私はそれに抗って生きたいのです。そもそも、人間関係なんて少ない方が望ましいもので、多ければ失くした時に苦しむのは自分なのです。「裏」の私は道化なので、多少の、それでも平均レベル以下の人間関係(親族は除く)があります。本当は、関係なんて作りたくないのですが、現代という柵ばかりの世界で人と関わらずに生きることは困難を極めます。極論、死んでしまえば関係は霧消しますが。

 私の「裏」は何もかもが反動的なもので、私が閉じ込めておきたいものと対照的なものが露出するのです。私は私の「表裏」を制御できません。どちらも現れたのならすぐにのさばって手に負えないのです。

 実は、私が絶対に関係を切りたくない人間は数人ほど存在します。ひとりは中学からの友人K。Kと書くと自殺した彼を思い出してしまいますが、それは良い傾向でしょう。Kの価値観は私のそれと絶妙に合っているように思います。一緒にいて苦しくないのです。Kが私のことをどう思っているか知りませんが、少なくとも私はKのことを、私の維持を助ける稀有なファクターのひとつだと思っています。

 ふたり目は高校からの友人Fです。Fもまた、私を維持するための稀有なファクターです。Kとは違う意味で波長が合うようで、私は苦に思いません。Fは何処か退廃的な雰囲気を漂わせている人物で、私の理想と完全とは言えませんが重なるのです。

 三人目を出すとするなら、友人Sでしょうか。私が及ぶことのできない天の上の人です。いつか逢えたらと思います。Sは私の人生に大きな影響を与えました。小説を書き始めたのもSのためと言っても過言ではありません。それくらい、Sも私を私たらしめる柱なのです。

 小説はいくら書いても埋まりません。満ち足りることが見つからない、やりたいことが見つからない。私は知りたいことがたくさんありますが、それの行き着く先は考えていません。考えるだけ無駄なような気がしてならないのです。私は絵を描いたり、詩を作ったりもします。けれども、埋まらないのです。タイトルのアンヘドニアという言葉は無快楽症のことなのです。しかし、私がこの症状を患っているわけではありません。ただ、それに近いような気がするだけです。何だか申し訳ない……。「アパシー」でも良かったかなと思っています。

 取り敢えず、今の願望は、誰も自分のことを知らない地に行ってしまいたい、です。どうせなら私の名前の通りに、綺麗な海と青空が広がる漠然とした場所に行ってしまいたい。そこでどうしましょう? 絵を描きましょうか? 詩を作りましょうか? それとも、死にましょうか?

「それじゃあ、死んでよ」

 機会と手段さえあれば是非とも。



 まだ少し良いですか?

「お好きにどうぞ」

 私は思うんです。生きていることって変じゃないかって。生きる目的って何なんだろうって思うのです。

 フランクルや神谷美恵子などの先哲を蔑ろにするようですが、生きる意味なんて考えたところで何処にもないのではないでしょうか?

 まず、人間は何のために生まれるか? 極端な話、子孫の確保ですよね。愛情なんてのは二の次で、自分の血を残さなければならないという使命感に駆られて子供を作るのです。だから、私は「愛する我が子が~」みたいな話は言葉のない人のテンプレートか単純に嘘だと思っています。

 そもそも、「愛」という言葉が詭弁なのです。古よりニュアンスは違えど「愛」という言葉は存在していました。しかし、誰もそれの不確実性を疑わなかったのでしょうか? 私たちは、その言葉で救われると思い込んで来ました。「愛」という曖昧な概念は人類の基盤として堂々と存在しています。けれど、私はこう思います。

「愛」は飾りでしかない、と。

 私は人間の本質は死ぬことにあると考えています。死んで初めて人間、いや、命になれるのです。そうです。これは人間に限った話ではなく、あらゆる生命に共通することなのです。

 生まれて、死ぬ。

 この簡素な一本道が生命です。

 私からすれば、「生」は「死」の一部でしかありません。長い長い「死」という環状の世界の一部が「生」で、この「生」は一種の遊び場、モラトリアム的領域だと思うのです。

 人間は「生」にあらゆるものが詰まっていると思っています。これは間違いではありません。「生」は遊び場なのですから。

 もしかしたら、死んだらゲーム終了と言われてカプセルが開き、ゴーグルを外されるかもしれません。そう思うと死ぬまで楽になりますよね。

 では、何故、人間は他人と関係を構築したり、「愛」なんかを育もうとするのでしょうか? さっきも言いましたが、飾りでしかありません。人間は文明を育て過ぎた所為で、死ぬまでの道のりが長くなり過ぎたのです。そのため、道中の暇潰しのために飾りをつけたのです。ゲームの世界でインテリアを弄るのと同じように、私たちは死ぬまでの時間が空虚にならないように必死で飾り立てるのです。それが重厚になり気羽(けば)くなるほど価値のあるものと見なされます。必死に働いて、金を稼ぐのだって装飾なのです。何かを成し遂げることだって装飾です。勉強をすることも、遊ぶことも、病気になることも、人を助けることも装飾です。極端な話、一歩だけ足を前に進めることでも命の装飾となるのです。

 私が文字を綴ったり、絵を描いたりすることも装飾で、図々しいことに、何かを残そうとしているのです。限りなく無意味で、評価や賛同のされない無名の装飾ですが、私には大切なものなのです。「愛」やら何やらと違って、私自身にしか作れないものです。私自身を支える安定剤のようなものでもあるでしょう。

 命の装飾は悪いことではありません。ただ、ものには程度があります。飾り過ぎると三途の川で沈んでしまうかもしれませんね。地獄も天国も同じようなものでしょうが、そういうチープな喩えは大切だと私は思っています。私たちが思っている以上に様々なものが安物なのです。

 何が最も安価なのでしょう?

 それは命でしょう。

 近頃はヴィーガンという奇妙な主義を取る人々がいます。あぁ、それは私から見て異様な考え方だというだけですが。私は思います。ヴィーガンの人々は命が可哀想と主張しているのに、何故、植物の消費は厭わないのでしょう? もしかしたら、それはヴィーガンでも一部の人々の過激化、或いは逸脱した主張かもしれないのですが、何にせよ、命があるのは生物みな同じだと私は思います。

 完全菜食主義の人々でさえ命を奪わないと生きていけません。生物は命を奪わずに生きていけない。最も価値の低いものが命ということになると私は思うのです。価値が低く量産可能だから生み出されて消費される。私の価値観から言えば、命が可哀想というのは間違っていませんが、それは命を奪ってはいけないという不安定な固定観念に冒されているからです。取り敢えず、何の命も奪わない生活を試してみるのも良いのではないでしょうか。私は嫌ですけれど。

 どうです?

「生殺与奪という言葉があるように、私たちは自分たちより下の命を自由にすることができる。だから、個人の好きにすればいいと思う。草だけ食いたいやつは食ってればいいんだから」

 そうですね。ところで、その「生殺与奪」って言葉の読み方は「せいさつ」なんですかね? それとも、「せいさい」なんですかね? 私は「せいさい」と読んだ方が綺麗だと思うんですよ。

「どっちでもいいと思う」

 そうですか。



 さてと。

「まだ何かあるの?」

 えぇ、ちょっとだけ。

 生物は「生殺与奪」の権利を生まれながらに保持しています。その中でも、ヒトという生物は独自の発展を遂げてきました。それは原始、ヒトが他種よりも優れていると気付いた頃からでしょう。歴史を眺めれば、植物や牛や豚などの家畜は散々消費されてきました。しかし、これはあらゆる生物に共通することで、植物が草食動物に食べられ、草食動物が肉食動物に食べられることのように不自然な話ではなく、寧ろ、この流れによって生物の歴史は続いてきたのです。

 ヒトは生物の流れの中でも異質な存在ではないでしょうか。基本的に生物は一方向への攻撃のみですが、ヒトは全方位への攻撃が可能な存在です。生身で勝てない相手でも捩じ伏せることができます。そして、ヒトの独特な点と言えば、同じ生物種間での優劣でしょう。他の生物でも多少の違いはあるでしょうが、ヒトに関しては落差が大き過ぎるのです。古より、ヒトはヒトを奴隷として扱うことがありました。ヒトの歴史は行き過ぎた異常な歴史なのです。

 私たちは命を尊んでいるようで蔑ろにしているという不可解な歴史を構築してきました。遡るほど、その傾向は強まり、現代になるほど、命の価値は重く見られます。例外として戦争というイベントがあり、そこでの命は塵やケサランパサランのように軽くなるのです。やはり、命を尊びたいのか蔑ろにしたいのかがわかりません。それがヒト、人間というものだと言えるのでしょう。

 それにしてもです。現代は命を重く見すぎているような気がします。特に先進国は医療の発展に尽力し、延命治療も積極的に行っているようです。所謂、SOL(生命の尊厳)も良いのですが、私としてはQOL(生命の質)を重視したいところです。無駄に長く生きることに何の意味があり、そこにどんな美しさがあるのでしょうか。身体の機能は低下していくばかりで、新たに得られるものは何もない。生命を敬ったところで何が生まれるのでしょう? 他人のエゴでしかないのでは? 生かしてあげてるんだ、という善人のような充足感が欲しいのでは? そう私は思います。

 私は自殺や安楽死、死刑制度に対して肯定的です。

 自殺や安楽死に関して言えば、死ぬのは個人の自由だと思っているからです。非常にシンプルな理由です。家族に迷惑が掛かるかもしれない? でも、そんな理由に自分の最期を左右されたくはないです。どんな死であれ、迷惑は掛かります。寧ろ、延命して金を捨てるよりは家族にも優しいと思います。

 やはり、命を重く考え過ぎているようです。マクドゥーガルの説を採用するならば、魂の重さはたったの21グラムしかありません。あと身体、つまりは殻です。魂と殻、どちらも大して価値は持たないのに。

 私は死刑制度廃絶論者が理解できません。ある一定の線を越えてしまったのだから相応の罰が下されるべきです。死刑や終身刑が下される主な罪と言えば殺人でしょう。確かに、人を殺すということは不思議なことではありません。命がある以上、奪うことは一種の権利なのですから。それに人間らしいと言えば人間らしいのでは? 譲歩が人間のあり方ではありません。人の命を奪う理由も「太陽のせい」で問題はないのです。そもそも、命を失くすのに理由など無粋です。あったところで大体が後付けです。死にたかったら死ねばいい、殺したかったら殺せばいい。それで何か不都合が生じるのでしょうか?

 死刑制度廃絶を望む人々の主張には、刑務官のストレスなども加味されているのでしょうか。例えば、執行の際のスイッチを押した心労だとか、人の命が消える瞬間を眼にすることだとか。私が思うに、スイッチを押す仕事に死刑囚を起用したらいいと思うのです。快楽殺人者ならば喜ぶでしょうし、他の囚人に対しては罪の意識に苛ませることができます。そもそも、スイッチが複数あるということ自体が違和感なのです。複数あるから「殺したかもしれない」という疑念が生じるのです。ひとつにして、「自分が殺したんだ」という確定した現実にした方が心労は減ると思うのですが……どうでしょうか?

 ここまで語っておいて死ぬのが怖いと言ったら怒られそうですが、私は死に対しては楽観視しています。

 死の何が恐ろしいかと言えば、直前の「痛み」や「苦しみ」だと思うのです。それさえなければ、誰も死なんか恐れません。さっきも言ったように、地獄や天国は同じものです。イメージがひとり歩きしているだけで、本質的には同じと言えます。私だって拷問の末の死は勘弁です。

 私の理想は自殺です。私は誰かに殺されたくもないし、病気で死にたくもない。私は自分で自分を殺して幕を引きたいのです。もし、死刑判決が下され、執行の日を迎えたなら、可能な限り私は自分から輪に飛び込んで行くでしょう。でも、自殺するなら首吊りは嫌ですね。体液で汚くなると言いますし、切腹などの刃物を使った死に方は痛そうなので遠慮します。服毒するのも苦しそうです。私なら、練炭を焚いた閉鎖空間で睡眠薬を飲みます。そして、死にます。一酸化炭素中毒の遺体はピンク色だそうです。なかなか、心惹かれませんか?

 自殺について友人Kは反対していました。私はKの意見も尊重しますが、やはり、自分を終わらせるのは自分だけなのです。友人Fは「いいんじゃない?」と言っていました。Fらしい言葉です。友人Sは反対したでしょう。失望したでしょう。でも、死の事実は変わらず、プロセスに差異があるだけです。人間の本質は死にあるのです。きっと、Sも笑ってくれると私は思います。まぁ、やりたいことがなくなった辺りで旅の準備を始めようかなと思ったりします。

 私の座右の銘は「メメント・モリ」で、それは死を忘れてはいけないことを意味します。しかし、古くは「今を楽しむ」という意味に近かったそうです。詩人ホラティウスの「カルペ・ディエム(Carpe diem)(一日の花を摘め)」も私にとっては重要な言葉です。死ぬことが最初で最大の目的の人間ですので、気取った飾りなんかよりも、今を彩ることが大切だと思うのです。生きる喜びや幸せなんてのはチープな紛い物です。死がすぐ傍で佇んでいるのですから。

「死にたいの?」

 さぁ? 積極的に死にたいわけではなく、死んでしまっても構わないの精神の命です。でも、根底では死にたいのかもしれません。私は私を理解しているつもりではありますが、それでも理解できてない深海部分は確かにあります。

 私の考えは否定されるべきでしょうか?

「わからない。死ぬのは勝手だけど、迷惑を掛けるのは嫌だ。自分が惨めになるだけだから」

 一理ありますが、それだけですね。

「あなたは利己的なの?」

 そうですね。利己的で自分中心でしょう。自分さえ良ければ何でもいいんです。人世は柵ばかりですから、多少の抵抗はしないと。

「まぁ、私も全てに屈するわけじゃないけれど」



「長くなったね」

 そうですね。

「まだ続く?」

 あと千文字とちょっとです。

「そっか」

 私は私であるという確証がないまま生きています。

「何の話?」

 朝、眼を覚ましたときに思いませんか? 今日の自分はどんな自分なのだろうって。きっと、昨日の自分とは違う存在で、きっと、みんなもそうなのだ、と。

 時々いませんか? 酷く怒っても寝れば忘れてしまう単純な人。それは、激怒している状態の自分と通常の自分が眠っている間に入れ替わっているからだと思うのです。私が頭が痛いだとか腹が痛いだとか思うのは起きた直後で、それは体調の芳しくない自分と入れ替わったからではないかと考えています。こう思うと、日々はリセットの連続と考えられるでしょう。リセットに次ぐリセットで発狂したのが本来の自分なのです。

 しかし、ベッドに横になって「明日、学校行きたくない」と考えた自分は翌朝になっても同じように考えます。これでは入れ替わりは成立しません。この場合、入れ替わったけれど、前日の思考を引き継いだと考えられるでしょうか。人間は基本的に利己的なので、都合の良い思考だけ受け継いで来るのでしょう。

 寝ている間というのは自分の中で最も知り難いエリアです。唯一わかることは、眠っていることが最大の幸福であるということでしょうか。何故なら、眠ることは死の疑似体験であり、本質を掴もうとしているからです。生きるために眠るのではなく、死ぬために眠るのです。深く眠っていて無理矢理起こされた時、気分はどうでしょう? 爽快ですか? 死という長い長い安穏とした薄い幸福の体験版を無理矢理終了させられたのですから、まぁ、気分は優れないでしょう。



 夢を見ることがあるでしょう?

「時々ね」

 夢で見た世界こそが死後ではないでしょうか。

「あんなにカオスな世界が?」

 あちらからしたら、こちらが混沌です。秩序と混沌は表裏一体です。私からすれば、こちらの方が混沌としていますがね。夢には、ある一貫性があるように思いますし。無数の命があり、無数の思考がある「生」の世界の方がよっぽど荒れ果てているのです。夢は誰かの介入を許しません。だからこそ、秩序があるのです。夢、それを見るための睡眠は死の疑似体験です。つまり、「死」の世界は秩序のある世界だと考えるのです。

「秩序は大切なの?」

 さぁ? 少なくとも私は重視していません。でも、大多数は秩序ある世界の維持を望んでいますね。その方が統制が取れるのでしょう。

 私は政治や経済はわかりません。興味もありませんし。それでも学べよって話になると思うんですけれど、そんなことにメモリを費やすのは愚かなことですよね。大多数の人々が秩序の維持を望む理由も正確にはわかりません。正直、今のこの国の政治体制がどんな風で、どんな政策を取っているかも知りません。経済で言えば、円高円安もわかりません。でも、それで私は構いません。知らないものは知らなければいいのです。知ってしまうから疑念が生まれ、不安になる。だったら、知らないまま、死ねばいいのですから。

「知らぬは恥なんじゃない?」

 他人がどう思おうと知ったことではありません。他人が知らないことを私は知っている自信がありますし、知識は自分が活かせる範疇になければ意味がないのです。政治や経済は私の得になりません。

「ヒネクレモノって言われない?」

 さぁ? 言われてるんですかね? でも、真っ直ぐな人間なんて何処の世界、時代にだっていませんよ。どんなに立派な聖職者だって、王様だって、学者だって、必ずしも真っ直ぐではなく、寧ろ一方向に捩曲がっています。それは偏見や差別の形で現れます。

 私は差別はしません。仮に、どんな人も、必ず私より優れている面を持ち合わせているのです。差別をしたくないからこそ、中性的な立場でありたいし、どんな神も信じません。

「男や女、一方に傾きたくないんだ?」

 そうです。最初の方で述べたように、どっちつかずの性別で生きていくのが理想です。

 勿論、差別をしないからこそ、私は他人を踏み台にします。どんなに偉くても、どんなに尊くてもです。

「ねぇ」

 はい?

「そろそろ時間だ」

 あぁ、そのようですね。この下らない文字列が生まれことを後悔しないように締め括れたら良いのですが……まぁ、そんな自分の能力に見合わないことは望みませんよ。

 私は誰でしょう? それは脳内会議で選出された思考のひとつです。

「私は誰でしょう?」

 さぁ? あなたが私を知らないのと同様に、私はあなたを知りません。大方、大多数の代弁者的なポジションなのでは?

「まぁ、どうでもいいや」

 えぇ、どうでもいいです。どうでもいいことばかり、どうでもいいほどに積もり積もって自己は形成されるのです。今、このどうでもいい瞬間に、どうでもいい文字列を綴ることで、私は私となるのです。脳内の幽霊だった思考は文字として顕現しました。

「うん。それは良かった」

 では、私はそろそろ……また、冷蔵庫の扉を確認する作業をしなくてはなりませんから。

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