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はつゆきのまち

作者: 夜空 狐

作者の前作の“改良版”です

前作を読んでいない方も、読んでいる方も、等しく楽しめる作品です。よろしくお願いします。


 彼女は今頃別れを告げているだろうか。


 しっとりと耳に残る、聞き心地のよい声で「さようなら」を言っているのだろうか。僕の知らないところで、僕の知らない顔で、大勢の人に囲まれて。しかしその光景を想像することは、自分の足を自分で踏んでいるような感覚と似ていて、気持ちが悪かった。


 彼女のことがニュースになるわけでもないのに、いつもは見ないニュース番組を垂れ流していた。そうでもしないと、心臓が零れ落ちそうだった。






「いいよ。僕は行かない」


わざわざ店員が去るのを待ってから、空を見つめてそう言った。声にすると、行かないということが軽々しく思えてなんだか虚しかった。


「本当は行きたいんじゃねえのか」


昔から仲のよい男は訝しげにそう言い放った。彼の貫くような眼に負けないように、視線と言葉を返す。


「僕が行っても行かなくても変わりやしないさ」


「周りの話はしてねえ。行かなかったらお前が後悔するんじゃあねえのか」


普段気にもかけない友人の口の悪さが、僕の揺るがないはずの意見を簡単にひっくり返してしまいそうだった。手元にあるコーヒーを口に含んで、乾きを飲み込む。友人が僕の喉仏を見つめていることに気付き、慌てて会話を続ける。


「僕は行かないって決めた」


「本当だろうな?」


「そもそも彼女とはそこまで付き合いがないし……それに今生の別れではないでしょ? 彼女だってそこまで大勢に見送られたらいい思いはしないさ」


友人は片肘を机について、ふうっと短く息をついた。彼がこうするのは僕の言葉に疑念を持つ時だ。きっと彼女のことを「彼女」と呼ぶことへの疑念だろう。でも珍しく彼はそれを口に出さなかった。僕もあえて言及せずに、黙っておいた。


 もちろん、僕は彼女の見送りに行きたくなかったわけではない。むしろ別れの際に言葉の一つや二つをかけてやりたいとすら思っていた。僕が、行かないと理由もなしに決められるはずがない。


 だって、僕は純粋に彼女のことが好きなのだから。


 彼女の最期を看るわけではないこと、彼女が大勢に見送られるのを嫌がるであろうということ、そうやって思っていることに一つも嘘はない。でもそれらと彼女への愛を天秤にかけた時、後者が勝利してしまうのもまた事実である。


 例の友人は僕が彼女と交際していることを知らない。僕と竹馬の友である彼が知らないのだから、きっと僕と彼女との関係を知っている者はいないと言っても過言ではない。故意に隠しているわけではないのに、口に出さなければ秘密となって「しまう」とは、突飛な話である。


 しかし、僕が彼女の恋人であることと、彼女の気持ちを察して彼女の見送りに行かないことは、なおさら相反している。当然のことだ。自分でもわかっている。つまり、僕が断腸の思いで彼女を見送らないと決断した大きな理由はまた別にあるのだ。




「会社のみんなが私を見送りたいっていう話をしているみたいなの」


その声を聴けば、彼女が困り顔をしているであろうことはすぐに分かった。いつもの柔らかい声とは少し違った、切ないとも悲しいともいえない、そんな色を飲み込んだ声だった。


「ふーん」


「あ、もしかしてみんなから聞いてない?」


「うん、聞いてない」


開けた飲み口を覆うように缶ビールを掴み、ベランダに出た。出てから今が冬だということに気づく。中に戻って何か羽織るのは面倒だったので、半袖のままで夜の街を見下ろした。


「聞いてないのね、ふふっ」


地声よりさらに高い声で、彼女は笑った。僕はそれを聞いてほっとすると、まあ嘘だけどね、と呟いた。乾燥した風が僕の肌を撫でるたびに寒さが際立つ。


「嘘なの? なーんだ、知ってるんだ。なんでそんな嘘をつくの」


「いや、ただ場を和ませたかっただけだよ。君が少し暗い声だったから」


朝、雪に変われない雨が降っていたのだろうか。湿ったコンクリートが僕の裸足から熱を奪っていく。変色していない場所を探して足を移動させた。その間に、向こう側から「そっか」と相槌が聞こえた後に大きく息を吸う音が続いた。


 彼女の言葉を待った。青信号が点滅するスピードがどんどん遅くなるように感じるには、十分な沈黙の長さだった。


 彼女の上京を知ってから、彼女と会話を交わす度に時間が有限であることを肌で感じる。別れの決まった人と時間を共有することが感情の足し算引き算だ、というのが今なら分かる気がした。


「あのね、来ないでほしいの。見送りに」


隣に彼女がいるような錯覚を覚えた。はっとして携帯電話を耳にあてていた方を見た。奇跡も何もないのは当たり前、誰もいない。


「……ごめん、どういうこと?」


無意識に空いている手で頭を掻いた。あまりにも理解が追い付かないので、意味もない笑みが勝手に浮かんでくる。今の僕を鏡で見れば、だいぶ滑稽な姿になっていることだろう。


「ちょっとだけ話を聞いてくれる?


さっき言ったけど、あなたには見送りに来てほしくないの。もちろん理由があって、それは、あなたも知っている通り、私が東京へ行くのは昔からの夢――ミュージシャンになるっていう夢を叶えるため。


上京を決めたのと同時に、成功したらこっちに帰ってこようって決めたの。だから、これは私にとって『別れ』じゃなくて『旅』。あなたに見送られたら二度と帰って来られない気がした。本当の『別れ』になるんじゃないかって。


あなたには、成功を信じて待っていてほしい。……必ず帰ってくるから」


彼女は一息で強く言葉を紡ぐと、その反動で二回ほど大きく深呼吸をした。


 僕はゆっくりと目を閉じ、視界から無数の光を放つ夜景を断つと、たった一言を返した。


「嫌だ。」


彼女が何かを言おうと素早いブレスをしたが、間髪入れずに僕は喋り続ける。


「当然、君の上京は応援してる。成功だって誰よりも願っている。でも、『旅』の見送りすらしてはいけないの? これは理由にならないかもしれないけれど、僕は君の彼氏だし、最後の姿くらい見ておきたいよ」


しかし、彼女も気圧されずに言い返してくる。どこか買う語のようなものを感じさせる気迫だった。


「最後じゃないよ。だって私は必ず帰ってくるから。これは一種の願掛けなの。こうしないと、自分自身がどれだけの覚悟をしているか示せない」


「だからって僕に……」


「あなただからお願いしてるんだよ? あなた以上に大切な人なんていないんだから、あなたは……あなただけは、私の帰りを待っていてほしいっていう願いがあるの。」


そうやって君に「大切」とか言われたら、僕は断れない。ずるい。ここにきて彼女の無意識に正直な性格が、僕の言葉を喉で止める。


「お願い。帰ってくるときは、真っ先にあなたに会いに行くことを約束するから。」


分かったと言わざるを得なかった。ここで彼女の願いを受け入れるほど素直ではないが、彼女の話を聞いた上で僕が断れば、まるで僕が彼女の成功を信じていないみたいに聞こえるじゃないか。


「……わかったよ。不本意だけど受け入れることにする。でも僕は本音を言えば、この君のお願いを振り切ってまで見送りに行きたかったからね」


「うん。私はそれを聞けて良かった。もしこの話をしてすぐに、僕は行かないって言われたらどうしようかって思ってた」


そう言う彼女の声がいつも通りに柔らかくなったのを聞くと、これでいいやと思えてしまう。彼女には一生勝てないだろうな、と一人可笑しさに包まれていた。


 ふいに、ずっと待っていたかのような雨が降ってきた。ぽつりぽつりと降り始めたかと思うと、滝のような激しい雨に変わった。夜景ばかり見ていたからか、暗闇の中の空が雲で覆われていることに気が付かなかった。


「雨がひどい、家の中に入るね」


携帯電話にそう話しかけてから、急いでベランダと居間を仕切るドアを開け、雨音に背中を向けた。片足を居間に置いてから、缶ビールを忘れていることに気付いて一歩戻り、無造作に缶を掴んだ。やっと家に入った頃には腕から水滴が滴っていた。さっきまでの寒さが塊になって襲ってくる。やはり半袖でベランダに出るべきではなかった。


「もしもし? ごめん今家に――」


 通話は終わっていた。じわじわと指の先が冷たい感覚が復活していく。暖かい家の空気と氷のような指の温度差にぞわっとした。中からベランダの方を見ると、窓を大量の雨粒が叩いていて、劈くような轟音が僕を孤独にした。文字通りの「ひどい」雨だった。




 会社の人たちの中に、彼女の上京の理由がミュージシャンになるというものであることに対して、何かといちゃもんをつける人がいた。応援するという人が大半だったのは言うまでもないが、誰しもが快く見送ろうとしているわけではなかった。


「あの子、意外と夢見がちだったんだね。もっと真面目というか冷静な子だと思ってた」


「分かる。ここにいた方が人生楽だと思うけどな~」


そんな戯言にしか聞こえない会話が耳に入った時、僕は思わず鼻で笑ってしまった。


 彼女は決して真面目なんかじゃない。


 ただ、正直者なのだ。他人にも自分にも正直なだけなのだ。特に自分の感情には嘘がつけなくて、すぐに顔や声に出てしまう。でもそれは決して彼女の意志なんかじゃない。無意識に正直なのだ。


 でも、そんな正直者の彼女が一つ僕に嘘をついたことを知っている。彼女らしいのはそれが「無意識な嘘」であるところだ。


 正直者は「帰ってくる」と言った。しかも「必ず」なんて信用ならない言葉まで付けてそう言った。でも僕は、「彼女」が帰ってくることはないと思うのだ。なぜなら、彼女との再会は彼女の夢の成功を意味し、成功は彼女が「誰もが知る女性」となってしまうことを意味するからだ。そう考えると、これが「彼女」との別れであることには変わりがないということに気付けた。


 彼女の言い分からすれば孤独とはいえないはずなのに、拳で破いた一枚の紙のように薄っぺらくて穴の開いたような感情が、ジュクジュクと染み出てくる。






 時刻はもう午後四時を過ぎていた。


彼女はもう東京に足を踏み入れ、僕の知らない場所で、知らない空気を吸って笑っているのだろう。いるはずもない彼女の匂いがふわりと通り過ぎる。


両手で重い身体を起こし、デジタルの置時計を手に取った。数字がどんどん移り変わっていくのをしばらく見つめてみると、案の定どんどん眠くなるだけだった。


 ひっくり返し、時刻をちょうど十二時間戻してみた。午前四時。この時間なら、まだ彼女の「さようなら」を独り占めにできるかもしれない。そんな不毛な妄想をしている間に、その時計は既に時刻を戻していた。電波時計だなんて忘れていた。時間は僕を現実から離してくれないようだった。


 何をするにも彼女のことが頭から離れない。しばらく彼女のことを考えていたかった。横からニュースを叩き込んでくるテレビの音が煩わしくて、消そうとリモコンを掴む。


「みなさん、空を見てください! 今年もついに本格的な冬がやって参りました!」


そう叫ぶレポーターと無数に降る白い粒が映し出されていた。僕はぽかんと口を開け、


「雪……」


と呟いた。ベランダ越しに見る外にはふわりふわりと舞い落ちる白い季節。僕はそれらに容易く呼吸と言葉を奪われた。しばらく呆けたように目を見開いたまま動けなかった。


 もう嫌というほど体験してきた初雪なのに、衝動的に彼女へメールを送っていた。


『ねえ、雪が降ってるよ』


彼女のいる東京に降っているはずがないことに気付いた時にはもう遅かった。僕が使う、いわゆるガラケーには、送信取り消しという機能はない。彼女がこのメールを受け取ったらどんな気持ちになるだろうと考えるだけで、酩酊の感情がふつふつと沸き上がってきた。


 そんな僕の心を揺らすように手の中の携帯が震えた。その媒体が放つ赤色の光は、彼女からのメールであることを示していた。


『綺麗だね』


文字化けした顔文字らしいものと共に、その四文字が送られたのだった。


 目を疑った。もう一度時刻を確認するが、時刻に変わりはなかった。


「きれい、だね……?」


思わず声に出してしまったものの、それでも理解ができなかった。首を傾げたまましばらく思考停止していた。


 少しの時間を経て、このメールには続きがあることに気付く。下へスクロールするボタンをおそるおそる押す。すると、メールの最後の一行、儚げな文字の羅列が僕を襲った。




『って、隣で言いたかったな』




 十年経った今でも、僕と彼女が一緒に初雪を見ることはない。



どうしようもない、もの書きの中学生です。

こんな奴の小説を読んでくださって嬉しい限りです。またどこかで出会えたらいいですね。


この度はありがとうございました。

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