阿僧祇の果て
リンは自分の心臓めがけて目の前の長剣に倒れ込んだ。
刃が身体が裂くのを生々しく感じるが、構わず体重をかける。おそらく切っ先は背の先まで貫通しただろう。
身体が傾いで支えきれず、そのまま床に倒れる。血が少しずつ流れ出していた。
焼けるような痛みも、突き抜けると麻痺してくるらしい。苦しいのに、心は徐々に凪いできた。
まわりは先ほどの重苦しい膠着状態から一転し、阿鼻叫喚の騒ぎが起こっていたが、それすら紗の幕がかかった先の出来事のよう。
ぼんやりとした視界の中で、リンの仲間である第一王子派の者たちが、敵対する第三王子派の兵たちを斬り捨て、捕縛していく。
そのうち、遠くのほうから鬨の声があがり、首謀者を捕らえたことが伝わってきた。
(あぁ、これで全てが終わる…。)
第三王子派の陰謀は潰え、第一王子であるクリストファー様が正式に王太子として立たれ、ゆくゆくは王になられる。あるべき姿に戻るのだ。
長かった。
国王陛下が病の床についたときから、熾烈な後継者争いが始まったのだ。
リンのお仕えするクリストファー殿下は、他国の王女であられた正妃様との間に生まれた初めてのお子様で、身分的にも序列的にも王太子に相応しいお方だ。
また思慮深く、学問にも優れ、剣の腕も日々磨いており、まさしく文武両道。非の打ち所のない王太子のはず、だった。
しかし、生母の身分が低い第二王子を差し置いて、公爵家から嫁いで来られた側妃様を母にもつ第三王子派が、クリストファー様の立太子に異議を申し立てた。
それからは、陰に日向に二つの陣営が争うこととなった。とくに最近は暗殺を恐れてうかつに動くことさえ出来なかった。王子たちは王宮の中でそれぞれ離宮を与えられ、住んでいる。襲撃されたこともあったが、そんなことは序の口で、一番怖かったのが毒殺だ。使用人はそれぞれ長年勤めている者たちばかりで固めていたが、どうしても外から食材を求めなければならない。そこに毒が混入されていたことが何度かあった。残念ながら死者が出たこともある。使用人たちはみな持ち回りで毒見をすることになった。食事は毎日のことで欠かすことができない。その毒見は使用人たちに重度の精神的打撃を長く与えることとなったのだった。
クリストファー様暗殺がいよいよ難しくなると、ついに謀殺計画…偽りの罪をでっち上げ、武力で鎮圧しようとしてきた。
その証拠を集め、決行の日取りを突き止め、ようやく今日、第三王子派を壊滅させることができた。
リンは、もう何も思い残すことはなかった。最後の最後で仲間の足を引っ張ってしまったが、卑怯にもリンを人質にとってこちら側を脅したことは全面的にあちらの非となろう。そして、自分が重荷になることなく、今回のことがなせたことが誇らしい。これでクリストファー様の憂いの大半を取り除けたことだろう。
(………。)
薄れゆく意識の中で最後に見たものは、主であるクリストファーの姿だった。大切な大切な我が君。
畏れ多くもリンの元へと駆けつけてくださったが、残念なことにもう声は聞こえない。視界もだんだん狭まっていく。
「クリス様の世が…。」
訪れますね、というつもりが言葉にならない。もう、最期だというのに。
「これで、来世は幸せに…。」
最期にクリストファーの顔を目に焼き付けて、意識は奈落の底へと沈んでいった。
〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・
クリストファーの腕の中で、今、最愛の人の命が潰えようとしている。
「リン! リン! 逝かないで!! ようやく、ようやく終わったのに……っ!!」
しかしリンの瞳からは徐々に光が失われていくのが、クリストファーにも感じられた。医術を学んでいたリンの腕はたしかで、長剣は過たずリンの心の臓を貫いていた。
リンの唇が戦慄き、微かなささやきが漏れてくる。
「クリス様の世が…。」
訪れますね、と続けようとしたのだろう。だがそれは叶わない。仲間たちが切望したクリストファーの治世。それを夢見て戦ってきた筈だった。それが、もうすぐ叶う、その時に。神はクリストファーの一番大切な人を奪い去ろうとしている。
「死んでは駄目だ、リン!もうすぐ、我々の願いが叶うのに!!リン!リン!」
命が、こぼれおちようとしている。その中でもリンは懸命に言葉を紡ごうとしていた。
「これで、来世は幸せに…。」
終わりまで言うことなく、リンの魂は天に召され、クリストファーの手の中には、最愛の人の亡き骸だけが残された。かき抱けばまだ温もりを感じる身体は、もうピクリとも動かない。
『来世は幸せに生まれてきます! だから今、正しい世を作るためなら、どんなことになっても悔いはありません!』
来世のために今を生きる、そう口癖のように言っていたリン。今思えば来世にしか希望を託せないような人生だったのかもしれない。
権謀術数が渦巻く世界で、リンは性別を偽りクリストファーに仕えていた。男のふりをして、薄氷を踏むような場所で、綱渡りする様な生活。裏切り・暗殺・襲撃その他なんでもありな日常。着飾ることもせず、命の危険に晒されながら、懸命に仕えてくれた。
何度役目を外そうと思ったか。女性の仲間もいるにはいたが、普通の少女は彼女だけだった。
彼女だけが殺伐とした世界の中で、色づいていた。彼女のまわりだけ、彩りがあった。
(あ、あ、あ………リン、リン、リン…っ!!)
この手で幸せにしたかった。誰よりも何よりも大切だったリン。危険だとわかっていたのに、手放せなかった愛しい人。なにもかも片付いた暁には、愛を告げ、愛を乞うつもりだった。もし今日ここで君を失うと分かっていれば、国も身分もなにもかも捨てて、二人で逃げてしまったのに。そこまで思い切れなかったのは己の罪だ。クリストファーが、リンを殺した。
クリストファーの深い慟哭は、二度と表に出ることはなかった。が、それは内なる嘆きとなり、精神を徐々に蝕むこととなったのだった。
〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・
第十三代国王クリストファー二世の治世はのちの歴史書にも平和で豊かな時代の始まりとして記されるほどだった。
生涯、妃を娶らず、第二王子の遺児を王太子として迎え、その子が成人した暁にはすみやかに王位を譲り、影からその治世を支えたという賢君。
しかし、クリストファー二世が立太子する前に起こった内乱のことを詳しく後世に伝える歴史書は少ない。
(…リン、君はもう転生したのだろうか。転生し、平和な来世を謳歌しているのだろうか…。)
(僕は君のために、王様になったよ。)
(そしてこの国は、豊かで平和になった。)
(飢えに苦しむこともなく、謀略で家族を奪われることもない…。)
(…でも、君は僕の前には現れてくれなかった…。)
(ずっと、ずっと待っていたのに。)
(それとも、僕のことを、天上の世界で待っていてくれている…?)
(…もうすぐだ…もうすぐいくよ、リン。君の元へ…。)
(だから、待っていて………次こそ、生まれ変わって、また巡り合って……今度こそ幸せになろう。)
(いつまでも、二人で…。)
(……死が二人を分かつまで……)