1+4+2=7
信号機が、黄色と赤で点滅しているな。ぴゅうっと吹く北風が、左頬を叩いて去っていくな。街灯が10メートルごと(目測なのでおそらくだけど)に並んで、そこからぶら下がったような蛍光灯だか、LEDだかが、寒そうな白色で光っているな。ただ並んで立っている街灯の、ちょうど間ぐらいに差し掛かると、オリオン座やらの星座が(星座の種類がわからないだけで、本当に星は輝いているよ)細々と、またチカチカと光っているな。そんなことを考えながら進んでいく。
夜に散歩をすると、昼に散歩をするときよりも暗い。仕事からの帰り道。ただ繰り返しているだけの日常に少しでもアクセントを加えたくて、僕は自転車を駐輪場に置きっぱなしにして歩いている。少しだけだけれど、気分が晴れていく。少しだけだけれど、少しだけでもいいのだ。右足を前に出しながら、左足はコンクリートで出来た地面を蹴る。無事、右足が地面にたどり着いたら、次は、左足を前に出しながら、右足で地面を蹴る。繰り返す。繰り返して、繰り返して、ただ繰り返して…。足を片方ずつ、一メートルになるかならないか、たったそれだけ前方に送り出す。そうしているだけで、いつの間にか僕は家にたどり着けるんだ。歩くってことは、やっぱり人類史上最高の発明だな。
夜は、怖い。怖いけど、随分と大胆に僕を誘惑する、魅惑的な一面も兼ね備えている。なんともミステリアスで、それでいてどうしても正直だ。人間にも表ウラがあるように、空にも表とウラがある。太陽が見張っている昼と、月が見守ってくれる夜。表ウラなんて言い方をするから、夜がウラみたいになってしまう。ウラってなんだか悪いところなイメージがあるから、夜が悪い一面、みたいな感じを僕に持たせる。でも、表ウラっていう言い方が悪いんだと思うな。昼と夜は、別モノだと思うから。昼には昼のいいところがあるし、夜には夜の良いところもあるんだよ。大きな誰かにかじられたみたいに欠けた月が、僕を静かに見守る今夜。まだ小さな子どもたちに、説教を垂れたい気分だ。
今日は授業の後に会議があって、いつもより一本遅い電車に乗って帰ってきた。時間が三十分違うけれど、道のりも、車窓から覗く景色も、きっといつもと同じだった。だけれど、今はそれが嫌なのかもしれない。
自宅から一番近い駅に着いたようだ。ホームにコトンと降りて、コートのポッケに入れておいたスマートフォンを取り出した。電源ボタンをカチ、と押して今の時間を確認する。11時20分…。どう考えたって、いち早く家に帰らなければならない。エスカレーターを駆け足で下り、スイカをかざして改札を抜ける。駅舎を出ると、耳元でボオオオ…という音がしている。コートに覆われた上半身と、スラックス一枚で脚を守る下半身とじゃ、まるで身分の差に苦しむ禁断の恋だな。ロータリーの先にある歩行者用の信号機が、緑色で点滅を始めたので僕は走った。横断歩道の3分の2に差し掛かったところで信号は赤色のLEDに切り替わってしまったけど、構わずに走り抜けた。
仕事帰りにいつも寄るコンビニエンスストアに入る。楽しげなBGMの鳴る店内を見回すと、やっぱり店員さんは深夜シフトの人に変わってしまっていた。おにぎり2つとエナジードリンクをレジに通して、さっきまでの寒さに怯えながら、渋々外に出た。ガラス張りのコンビニ正面、据え置きの灰皿の横に立ち、スマホのしまってあるのとは逆側のポッケからキャビンの8ミリを取り出した。ライター(Bicのライターは火力が調節できない代わりに、原色の色使いがチープで可愛い)でシュボオッ、と火をつける。タバコを挟む左手と、咥えたときの口元がほんの少しあたたまる。苦味の強い煙が体中に染み渡る感じがする。うん、いつもどおりで安心したよ。
吸い殻を灰皿(銀色だから鉄製かな、ステンレス製かな、)にポイと投げ入れ、思いついた。今日は、自転車はほっぽって歩いて家まで帰ろうか。そうだ、そうしよう。思いつくと、僕はなんだかうきうきしてしまって、いてもたってもいられなくなってしまった。背中のリュックを背負い直すと、駐輪場は通り過ぎてそのまま歩いた。
なんだか楽しいなあ。やっぱり歩きにして正解だったよ。深夜で、誰も歩いていないし車も通らない帰り道。僕はそれをそっくり独り占めできる。電車や学校での席だって、譲って譲って余り物に座ってばかりの僕にとって、何かを独り占めできることは、心をうずうずさせるのに十分すぎるほどなんだ!駅から離れるに連れて、人工的な光が更に少なくなる。ついには街灯だけになって、星までもが僕だけのものになる。もしもこの星の何処かで、僕と同じことを思い、考えている人がいるならば、ましてや星も彼(あるいは彼女)のものになりたいと思っていたならば、僕はきっと嫉妬するだろう。こんな想像をするだけで心のうずうずが弱まったので、この話は終わりにしよう。そうしてしまおう。今くらいは、たったの今くらいは、悲しい話はよしにしよう。高校時代に付き合っていた女の子のアイコンが、新しい彼氏との写真に変わっているのを偶然見てしまったこととか、今日の仕事でヘマをしてしまったこととか、猫が大好きだから、将来は必ず猫と暮らすんだって決めていたのに猫アレルギーだったことまで。全部、今は夜の帳の外へ追い出してしまおう。小さな悲しみも大きな悲しみも、心がどんよりしてしまいそうなことは全部。そうしたら楽になれるだろう。誰かを隠すカーテンみたいに、帳が視界の端っこで膨らんでしまっていても、それはきっと気にならない。
今日の僕は勇気があるみたいだ。帰路の間中、思考が冒険することを止める者はだれも居ないようだ。深い森の中へ迷い込んで、歩くに連れて少しずつ不安になってきても、助けてくれる人も居なければ、もう帰ろうとゴネる人も居ない。責任を負うってこういうことなのかな。こういうことなんだろうな。
まだ年が開ける前。いや、それどころかクリスマスもまだだったな、あの子と出会ったのは。正確に言えば、出会ったのはもっともっと前だったのだけれど。お互いに存在は知っていたのだけれど。でも、初めて言葉を交わしたのは12月のはじめ頃だった。僕は、ちっこくて可愛い子だな、って思ったのをよく覚えている。だって、今ではもっと強く思っているから。
グループワークで同じ班になったんだったな。僕の一つ前の席に座ってた。グループ発表用のパワーポイントの資料を僕が勘違いして表の一枚しか作ってこなかったときも、簡潔でわかりやすいからだいじょーぶってフォローしてくれたんだ。それは紛れもない彼女の優しさだった。例え苦し紛れでも、笑って親指を立ててくれた笑顔は忘れられないだろう。だって忘れたくないもの。
お腹すいたね、とか、ジャスミン茶って美味しいよね、とかそんな他愛もない会話が、ぎこちない会話が楽しかった。すべすべして見える黒髪は長く、それでいて困り眉。僕の好みには当てはまらなかったはずなのに、学期末になって授業が終わる頃になると、この先もう話すこともないのかと寂しくなった。いつの間にか、お友達になってくれませんか、と言っていた。SNSのメッセージだからなんとも情けないけれど。いいよ!って返信が来たときには、飛び上がるほど嬉しかった。そのとき僕の体は電車に揺られていたから飛び上がれなかったけれどね。
今日、身体計測があった。そのことで例の彼女とまたやり取りをしていた。僕の身長が180センチに2ミリ満たないことを伝えると、天使の輪が乗っかった顔文字が帰ってきた。私の身長は142センチしかないから来世に期待すると言うので、数字を足したらラッキー7じゃないかと返した。バレンタインだから、するべきじゃない期待をしていた僕もいたけど、話題にさえならなかった。もうバレンタインは僕の辞書からはなくしてしまおう。また一つ、夜の帳から追い出される犠牲者の増えた音がした。
コツン、コツンと僕の足の裏を守る革靴がコンクリを叩く音がする。僕の両手を赤くするほどの北風がぴゅうっと過ぎていく。夜の散歩は、昼の散歩よりも、暗い。そして、寒い。怖い。苦しい。エロい。不思議と楽しい。こんな気持になるのは、何度目だろう。このふわふわした気持ちをふわふわしたままで誰かに伝えたいな。誰かに?うん、誰かに。誰にとか、そういうのはないよ。だって、そんな関係じゃないもの。