腐りゆく男。
発車を告げる音と共に駅のホームで目を覚ました。
そうだっただろうか、随分前から目を覚ましていたのかもしれない、
それとも、灰色の冷たいコンクリートの床を眺める夢を見ていたのだろうか、
顔を上げるまでもなく、多くの人が列をなしている事がわかる。
順番に電車に吸い込まれるために、その最後尾に並ぶためにまた列を作り、
緩慢な動きで人の列は流れて行く、知りたくもない事だった。
これ程の数の人が居るというのに、ここはあまりにも静かだ、
沈黙と言う静寂の中、緩慢な足音だけが鳴り響いて、
それに耐えかねたように、硬い椅子に押し付けられ悲鳴を上げている身体を起こすと、
固まったひざの関節がメキメキと嫌な音を立て始めていた。
ゆっくりと体の関節の感覚を確かめ、
それがまだそこにあると知ると、少しほっとするような気分になる自分を
嘲け笑いたいと考えるのは、いつの自分であるのだろうと思いだそうとするも、
列を作る人々の列から立ち込める、強烈な肉の腐る臭いが
今の自分の姿を取り戻させ、それを意識の下に沈めるように改札を抜け出ると、
街に染み込む人の流れに紛れ込んでゆく。
腐りゆく人々の列に並び、
灰色のビルに染み込んでいく流れに逆らうことなく、
通い慣れた道を歩いて行く先には、窓から重い空気を垂れ流すビルがあった。
何も変わらぬかのように自動扉は私を迎え入れ、
ゆっくりと向かったオフィスのデスクの上には、
会議で使う書類が山と積まれていた、
他には何の関心もないようにモニターを食い入るように見つめている男に、
何も考えることなく書類を運び続けている男、
ここは何も変わる事が無く、
いつもと同じ光景が繰り返されている、
私の居場所だった。
書類は捲る度にべリべリと嫌な音を室内に響かせたが、
誰も気に留める事もなく、それぞれの役割だけをこなしていた。
ゆっくりと時間の流れる長い会議を終えると、
陰鬱な色のついた重苦しい空気から逃れる様に、
開け放たれた窓から通りの底を漂う人々を眺める。
そこにあるのは受け入れ難い現実であるのか、理解しえない夢なのかと、
誰かに問いかけてみたかったが、
隣りには、腐り落ちた肉片があるだけだった。
誰かと分かち合いたかった、それを忘れたかった、
その想いだけがゆっくりと腐りゆく身体から滲み出て行く、
虚ろな電球を並べ立て、表面だけを照らした夜の街は飾り立てた女たちの
ドレスから伸びる白い手足から剥がれ落ちた皮膚をいつまでも照らし、
流し込まれた酒が臓腑に空いた穴からゴボゴボと流れ出るにまかせて、
夜の店を渡り歩いて行く。
当てもなく歩き続け、灯りに導かれるままに歩いては、
私は小雪を探していたのだ。
この街で小雪に出会う事など不可能であることはわかっていた。
腐りゆくこの街に小雪の居場所があるとは考えたくもなかった、
嫌な臭いのする茶色い液体を垂らしながら引きずるように歩く彼女の姿など。
しかし、そうであれば、
共に歩くことが出来るのだろうか、
いつまでも終わる事の無い死人たちの列の中をいつまでも一緒に歩き続けるのか、
いつかあの怪物に頭から食われることだけを恐怖して。
いつしか空が煤けた光に照らされ始めると、
着飾った女たちが慌てて剥がれ落ちた皮膚を拾い集め、
いそいそと、夜の闇の中へと戻って行く。
灰色のビルに反射した光が通りを照らし始めると、
改札から吐き出された人の列が街に染み込んでいく、
その足を踏み出すたびに、嫌な臭いのする汁をまき散らせ、
そこに汚い染みを作り、その事を気にすることさえも出来なくなって行く。
ただ、それだけを繰り返し、
ただ、腐りゆく、
終わる事の無いその道に長々と作られる死人の列を歩き続けた。
前を歩く者がどれだけ腐ったのかさえ、最早どうでもよく、
右腕がいつの間にか無くなっている事さえ、最早意味を成さなかった。
いつまでも、ただ歩き続けて行く。
いつまでも、この腐りゆく身体を引きずりながら、
時折落とす腐った肉片を次の誰かが踏みつけ、
その足の裏に張り付かせたまま長い列は続いて行く。
終わる事無くいつまでも。
だが、全ては間違いだった。
人は一度しか死ねない、
それに気が付いた時、私の体は崩れ落ちた。




