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腐りゆく男  作者: 海土竜
17/18

一人で過ごすアパートの小さな部屋は、

あまりにも広く寒々しく、

時計の針が刻む音が響くたびに体から流れ出す

それを押しとどめるすべもない事に耐えることが出来ず

いたたまれぬ思いに駆り立てられるかのように

防波堤から海を見ていた。

ただ澱まぬように繰り返し動き続ける波の営みは

あの時から何も変わることなく

上に下へと動き続ける、あの流木はもう沈んでしまったのだろうか。

何の感傷も無く、そう問いかけるも、

波は同じ動きを繰り返し続けて、

岩肌で砕けるたびに潮の臭いをまき散らしていた。

何処までも続いているその無限とも思える広がりの中

いつまでも変わらずそこで動き続ける波も

その役目を終え深く沈んで行く恐怖に耐えながら、

ただ澱まぬようにと繰り返しその流れの一部であろうとしているのか。

ただ防波堤かかそれを眺める体を

きつい潮の香りを乗せた風に晒しながら

二の腕の内側が痒く、

そこを掻く度に錆付いた標識がギイギイと音をたてていた。


それでも海を眺めながらただ待っていた。

決して戻る事は無いと知りながら

ただ朽ちて行く、赤錆びがこびり付いた

この小さな町で何を待っているのだろうか。

ここには何もないというのに。

人の住まなくなった民家の崩れかけた屋根を支えている

ひび割れた壁が潮風に吹かれるたびにポロポロと何かを吐き出し、

ギイギイと汚い声で鳴きながら

錆付いた門が侵入者を押しとどめようと警告を発し、

その音に追いやられるかのように

ブリキ細工の様な老婆がギリギリと小さな音をたてて去って行く。

潮の香りがする風が体に吹き付けるたびに

どこかしらが痒く、皮膚の上を足の多い生き物が這いずり廻る感覚に

その場所に手を伸ばさずにはいられなかった。

硬い爪が触れたその皮膚はさらなる刺激を求めるかのように

強い痒みかその存在を主張し始め

その下の柔らかい肉が押しつぶされ半透明の液体を滲み出し

小さなアパートの畳に汚い染みを作って行く。

服の上から掻きむしった脇腹はヌチャヌチャする小さな物が剥がれ落ち

手の届かない背中から分泌された液体が垂れ下がる後に

体温を奪われた皮膚がゆっくりと縮みあがりプツプツと繊維の切れる音がしている。

進むべき道の無い小さな町で

後どれほど待ち続けようというのか、

決して戻る事の無い者を、決して訪れはしない者を、

ここではただ朽ちて行く事でさえ私の役割ではありはしなかった。


つかの間の安らぎを感じたこの場所が

自分の居場所ではないと認めることが出来ず、

海辺に流れ着いた流木は再び波に攫われいつか深みに沈み込むのか

その流れに乗る事も出来ず

その道を歩く事も出来ず

そこに残る手紙の断片をかき集めながら

ただ、腐りゆくのであろうか。

それさえも許されざることであったのだ、

体から染み出す半透明の粘度の高い液体が

もうこれ以上部屋の畳に染みを作る事には耐えられなかった。


歩く度にギシギシと音をたてる足を引きずりながら

朽ちた民家を通り過ぎ、波の音から逃れるように歩き続け、

錆付いた標識が指し示すかつては多くの人で賑わった通りを

いや、この道を歩いた人間など誰も居なかったのではないだろうか、

この先に待っているのは錆に覆われた一本のレールだった。

何処までも真直ぐに進むと信じてきたそれは

見るものに小さな感傷を残すだけで

もはや何者もそこは通りはしないのだと

ゆっくりと覆いつくす草の緑がそう物語っていた。

不意に強い潮の香りに包まれそれと共に波の音が聞こえ、

レールにこびり付いた錆がうっすらと赤みを増した気がした。

空気に混じる塩が濃くなり、

この小さな町には雪が降らないと知ったのであった。


繰り返し現れては朽ちて行く民家を通り過ぎ

錆付いた標識を眺めながら

進むべき道もなく彷徨い続けるかとそう思い至った頃

潮の香りを運ぶ風を遮るかのように

駅のホームにゆっくりと電車が入ってきた。

そこだけが切り取られた、隔絶された空間であるかのように

いつも変わらないそこに吸い込まれるように乗り込むと、

人の居ない車内の異様なほど長い椅子に深々と腰を掛けた。

硬めの座席のクッションが背中に電車の振動を伝えてくる。

今はただその心地よさにゆっくりと瞼を閉じた。





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