復活編1-3<朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり>
そして、半年が過ぎた十二月十三日の今日、僕はここで全てを終決させようとしている。
災厄が悲愴を生み、悲愴は同情を生み、同情が隔絶を生み、隔絶は廃絶を齎す。
切り良く一年間はなんとか生きてやろうとも思っていたけど、欠けた穴を平然と埋め合わせしていく世界に生き続けるのはもう耐えられそうにない。
可哀想な奴らを眺めていても、この変化に意味を感じているのが僕だけなのだ。
死者は残された者の心の中で生き続けるなんて言うけど、あれは美辞麗句なんかじゃなかった。
その言葉は良くも悪くも的確だった。
フェンスの上で感情を殺そうと瞑想したまま、どれだけ地球は回っただろうか。
五度くらいは回ったかな。角度なんて目分量じゃ分からないな。
ビルの溝を縫って姿を見せ始めたお天道様も、今なら眩しくない。
この時節、入れ替わり地平線に沈むことも許されない月。
そのお月様はほとんど光を失いとても切なく儚く感じられる。
そんな月が僕に勇気をくれた。
「――それなら僕が呪うよ」
白々しい太陽を睨みつけながらフェンスを力いっぱいに蹴った――。
宙を舞う身体は自由なようでとても不自由だった。
冷え切った空気を切り裂きながら僕は落ちていく。
先程まで地表に闇を演出してくれていた朝靄も日の光を浴びてあっさりと寝返り、霜が解けだして黄金色に輝くアスファルトに僕の視界は覆われる。
目が眩み、逆らわずに瞑る。
痛覚が機能する隙もなく僕の心臓は止まった。
その時、僕は今度こそ確実に意識を、そして自我さえも完全に喪失した。
喪失したはずだった。
だが、全てを失った途端、身体から漏れだした何かが再び身体に収まる感覚、切り裂かれ砕け散ったはずの身体が再び接合されるような感覚が体中を満たしていく。
まるでビデオの巻き戻し映像を体現しているような感覚。
自我が再構成されていく。
そして漸く、感覚がそこにあることに気付く。
眼を覚ますと僕の身体は重力に逆らっていた。
なんだかまるで夢でも見ているようだった。
「オモシロイ」
どうやら逆らってなんかいなかったようだ。
その実、ただ首から吊られているだけだった。
自分の足で蹴り飛ばして僅かに撓んだフェンスは確かにそこにあったし、確実に真新しい落下の感覚と紛れも無い死を体験したはずだったのだけど……。
「?」
限界まで感情を殺した今の僕は、その存在に対してただ驚愕と恐怖に従って身を震わすこともままならない。
ありふれた人間味の有る対応を返してあげられない。
首に触れられる感覚はありながらも苦痛を感じることは無く、突然聞こえたモザイクがかった少女の声にも大した反応を示すことは無かった。
不自然な現象を不自然であると認識できても、その現象が起こったことに対しての動揺が全く無かった。
「驚イテモクレナイノカ、マアソウデナケレバ、吾ガ惹カレルコトモアルマイ」
機械的な音声と共にぶらりと垂れ下がる僕の体躯が声の主にゆっくりと引き上げられる。
「古代マヤダカアステカニハ自殺ノ女神モイルラシイガ。ンア? アレハ首吊リ限定ダッタ気ガシナイデモナイナ。ハテ、ドウダッタカナ」
屋上の縁に転がされた僕は手で首を擦りつつ顔を上げる。
話の意図が掴めないが自殺という行為の善し悪しに今更興味は無い。
大事なのは本当に自殺したいかどうか、その真意だけだ。
「汝」
身に纏うのは丈の長すぎる煤けた漆黒のローブのみで、裾から飛び出した血肉の無い白樺の如き腕骨が鋭利な大鎌を肩に担ぐ。
髑髏の後頭部を大きめのフードで覆い、全身を冷気のような白い霧が包んでいた。
「ドウセ捨テルナラ……其ノ身体」
鎌の柄は人間の脊柱そのもの。
頭頂部には髑髏が置かれ、その髑髏の歯間から薄く巨大な白刃が生えている。
「コノ名モ無キ哀レナ死神ニ貸シテモラエヌカ?」
黒に染まるシルエットの中、反射とは違う、自らが煌々と発光する真紅の眼光。
恨めしさを滲ませるようにその背を照る朝日も、今の僕には後光にしか見えなかった。
「君は?」
我ながら淡泊な発声だったその声に、加工されたような声で返される。
「住所不定無職、死神」
「――」
毅然とした態度で放たれた言葉に対応しきれず、僕は暫し静止した。
手持ち無沙汰に振り回される大鎌を見たが、僕の思うアイツのそれではなかった。
「少年、ソノ顔ハ全ク吾ノコトヲ信ジテオランナ。ナラバ仕方アルマイ、暫シ待ッテクレ、エェトエェト、アレ? チョット待ッテ」
くぐもった声のせいで何を言っているか聞き取れなかったが、フードや腕の裾に手を突っ込んでいる様子から察するに何かを探しているらしい。
「チョッチョッチョ、確カコノ辺ニー……オッ、有ッタ有ッタ」
見るからに薄っぺらいローブに何かを収納できるとは思えなかったのだが、やがてローブを僅かに開いて腹部に肘まで突っ込んでから胸部から何かを引っ張り出した。
「スマヌスマヌ。大事ナ物ハ肋骨二仕舞ウ癖ガ有ッテナ。ソレヲスッカリ忘レテイタ」
少し気恥ずかしそうな茶目っ気溢れる挙動でローブを開いて見せてくるが、そこには当然ながら白い骨しかなかった。
「刮目セヨ!」
人差し指と中指で挟んだ黒く薄い長方形を見せられる。
そこには小さく金字で文字やら数字が書かれている。
その漆塗りのように光を弾くクレジットカードのような何かを得意げにくるりと反転して見せる。
そこには何も書かれていなかった。
馬鹿には見えないとかそういう類のものだろうか。
見抜けても暴けないインチキは腹が立つ。
「フフフ、コレデ信ジテモラエタカ?」
何を言っているかさっぱりわからない。
拒絶反応。
脳がこの件に関して思考するより早く、解答を導くことは不可能であると先回りして結論づけた。
「――つまり、どちら様?」
「今言ッタロウ、名ナド無イ。名無シ身無シノ死神様ダ」
僕の命の恩人は不審者というか完全に社会不適合者だった。
咲夜の事件以降、全てがどうでも良くなったせいか、極度の人見知りを克服したつもりだった。
しかし、初対面の人間と面と向かって話すものとはまた違う、フードの中から自分を値踏みするような視線を感じ身体が強張る。
「ソウダナ。一先ズ少年ノ名前ヲ聞カセテクレ」
線の綺麗な顎を細長い人差し指に乗せて、即興で会話を紡ごうとしてくる。
今度は馬鹿にでも見抜ける演技だった。
幾度とシミュレーションを繰り返された計画的な流れに不信が募る。
「――刈谷」
だが、ここで予め敷かれていたのであろう会話のレールから逃れることは難しいし、逃れる術も持たない。
そもそも逃れる意味も特にない。
「名ハ?」
そう問われて、自己紹介というよりは自己証明をするが如く、手前にあった水溜まりに軽く指を触れて、乾いた屋上の床に記して示す。
しかし、当然ながら思うように書けなくて苦戦していたが、死神には伝わったのか先を促してきた。
「――霊智。刈谷霊智」
死神は関節の無い宙に浮いた硬質な左手で徐に自らの頭蓋を掴む。
その手がゆっくり髑髏の仮面を外した。
フードの中から溢れ出る白銀の絹糸のような長髪が陽光を反射する。
途端、周りを漂っていた灰のような冷気が渦を巻いて死神を覆った。
「そうか。ならば、汝のことは親しみを込めて霊智と呼ぼう」
面を外したためか、骨身に沁みる玲瓏な声音が響く。
その声色からして彼女と形容すべき死神が、僅かに声を止めた瞬間、彼女を中心にして渦巻く冷たい灰は霧散した。
切れ長の目に高い鼻、少しだけあどけなさの残る大人びた整った顔立ち。
それ以上の説明はただ淡々と美辞麗句を並べ立てるようで躊躇われる。
長いローブの裾からはみ出した素足は触れれば折れてしまいそうなほど細い。
だが、先とは異なりしっかりと血を通わせた肉を全身に纏っていて、病的なまでに皓々とした肌がそれを包みこんでいる。
生地が薄い為なのか外套の上から映したシルエットでも思わず唾を呑むほどの幽艶さが滲み出ていた。
その時、内側から押し上げられるローブの胸元を見て漸く先の謎の行動の意図が掴めた。
白骨に色気を感じる者はそう居ないだろう。
そのままゆっくりと視線を上げると、目深に被るフードの奥に幽かに覗く整った顔が、僅かな笑みを湛えながら口を開いた。
「それでは吾は刈谷怜悧でいいかな?」
言うと同時、仰向けの僕にガラス細工のように儚げな白い手を差し出す。
何故親しみなんか込めてくるのか、何が『それでは』なのかは僕にはさっぱりわからなかったが、特に気に留める程でもなかった。
「――じゃあ……それで」
そのときの僕は、ほんの少しの違和感を覚えて首を傾げつつも、その名はただ彼女との会話の中で仮名として使われるだけのものであると、そう誤解していた。
「ありがとう」
差し出された手を取ろうと僕の指が彼女の柔肌に触れたその瞬間、目に映る彼女の姿は先の灰同様に霧散し、僕は軽く尻餅をついた。
(不肖刈谷怜悧、我が主君の為にこの魂を尽くそう)
その声は僕の鼓膜を叩くことはなく、それでいて僕の心に滔々と染み渡る。
「――何を、したんだ?」
「(幽契が成されたので霊化を解いて霊智の身体に吾を宿らせてもらったのだ。不束ものだが、何卒よろしく頼むぞ。ああ、それと、声は出さなくても良い。苦手なのだろう? 吾も御喋りはあまり得意ではないのでな)」
確かに僕は昔から発声が苦手だし、嫌いだ。『声』そのものが嫌いで、いつもワンテンポ遅れてしまう。そのせいでいつの間にか口数も減り……。
――いや、ちょっと待ってよ。まさかとは思うけど君は僕に、取り憑いたの?
先ほどと同じ容姿をそのまま半透明にしたような死神が、僕の内側から姿を見せる。
(たった今そう言ったろう。それと吾は君じゃない)
これでもかというように僕の面前で綺麗に一回転した。
怜悧の足元を包んでいた霧が広がり、風に乗せて捲れ上がったローブの長い裾の下から透き通る御御足をチラつかせる。
怜悧、刈谷怜悧……そういうことか。
つまり、僕も操影師なのか。
僕の呪力はすっかり零奈の百鬼夜行に委譲できたものと思っていたんだけど。
(自覚が無かったのか、ネクロマンサー?)
アレが未練だったのか。
やっぱりまだまだ現実から抜け出せないみたいだ。
そこまで考えてふと違和感を覚え、疑問として像を結ぶ。
――怜悧はいつから僕に憑いてたんだ?
まさか今ということは無いだろう。それにしてはタイミングが良すぎる。
(霊智が私を倉庫から開放してくれた時からだ。それより昔の記憶が曖昧なのだが、霊智が自身を依代に降霊術を試みようとしていたことは覚えている)
――倉庫?
(やはり覚えていないか。まあ、あの時の霊智はそれどころでは無さそうだったからな。霊智がまるで何かに取り憑かれたように倉庫を漁っていた時、霊智は大きな白い鎌に貼ってあった札を剥がしたな)
白い鎌は解らないけど、札ならガムテープか何かと思って剥がしたかもしれない。
(何はともあれ。その瞬間、晴れて吾の封印は解かれてしまったわけだが……はぁ。全くこれではモーテ達を笑ってやれないな)
封印されていたってことは、怜悧はその……。
(まあそうだろうな。吾はこれでも死神なのだし)
そう言って、にぃ、と白い歯を見せる怜悧。
そしてもうひとつ、これだけはどうしても聞かねば生きても生き切れない。
――じゃあ怜悧はどうして僕を救ったの?
(ああそれは……フフ、安心しろ。霊智を取って喰おうというわけではない。私利私欲半分、使命感半分だな)
得心行くかどうかはともかくとして、死神のきまぐれではなかったことに安堵しつつ、僕は口を閉じたまま先を促した。
もしも『なんとなく』とか言われていたら、また勇気を振り絞らなければならないところだった。
(私利私欲の方についてだが……理由有って実体を失った吾は、ずっと器を探していた。しかし二級神格の吾が入るにふさわしい器は中々無くて路頭に迷っていたのだが、気づけばあの倉庫の中さ)
――つまり死神に憑依された人間は死ぬってこと? それで僕の先代は怜悧が誰にも取り憑かないように封印したと?
(まあそんなところだ。でもちょっとだけ違うな。人間の中でも極一部の降霊術師は例外だ。吾ら神格が憑いても寿命を全うできる)
――まさか、それが僕なの? 零奈じゃなくて?
(霊智の妹御も中々の霊技師のようだが、それでも器量だけに限れば霊智には及ばない)
――そんなはずはない。第一、僕は還元術式に失敗しているし、仮に操影師としての素質が有ったとしても、その力は未だ発現すらして――、
僕の無声の言葉に乗せて怜悧は返す。
(発現しているんだよ、遠の昔に。霊智も含め、誰も気づいていないだけで発現している。妹御だけは感じ取っていたみたいだがな)
脳裏に何かが引っかかる。僕は、疑問をそのままぶつけた。
――そういえば、なんで怜悧が零奈の、僕の妹のことを知っているの? 確か僕が倉庫に入った日には既に零奈は――、
(その件だが、どうやら霊智の妹御はソロモンの再来として斯界でも名が知れた巫女だったらしい。更に霊智と同様に本件の重要参考人なのだ)
なんだよソロモンの再来って。
――どういうこと?
(それについては、私が霊智を救った理由の残り半分使命感の方の話になる)
怜悧は屋上のフェンス越しに警備員が珀楼高校の正門を開くのをぼんやりと眺めながら続ける。
(吾は霊智に開放してもらった後、とりあえず吾の所属する教際死神協会に無い足を運んだのだが、そこで聞いた話によると、赤羽という死神が――)
――アイツを知っているの!?
人としての感情を失っていたはずの僕だが、憎悪だけはまともに機能しているようで、その名に飛びついてしまった。
僕以外から見ればさして普段と変化ない淡白さだったろうが、僕としてはこの反射的言動に思わず口を覆いたくなる。
口開けてないけど。
(やっぱり赤羽の仕業か……赤羽は死神の掟を破って、今尚人々に死を与え続けている。しかし、協会から除名された彼の齎す不当な死であっても、原則取り消すことはできない。故に吾は赤羽の及ぼす災厄の影響で命を落とす運命にあった霊智を救ったのだ)
――それでアイツは、赤羽はどうなったの?
(協会の資料では霊智に接触した後、日本中の神々に追われて、今は姿を眩ませているそうだ)
結局何一つ取り返せないのか。
いや……。
(しかし、赤羽が霊智を襲撃した件においての死者名簿欄には、花原咲夜、刈谷礼司、刈谷明日香の三名しか記載されていなかったのだ)
一瞬、怜悧の話の意味がわからなかった。
何を当たり前のことを、と思った。
しかし、
――それってつまり、零奈は生きているの?
(うむ。死神日誌は自動書記だからまず間違い無いだろう。少々不謹慎な言葉を使わせてもらうと、仮に死神日誌のシステムに欠陥や改竄があるとすれば、こんな些細なミスでは済まないさ)
怜悧は僕にとっての零奈の価値を慮って断りを入れたようだが、事実、死神にとって死者の一人や二人、ちっぽけなものだろう。
そうか。零奈が生きているのなら、兄貴一人、勝手に死ぬわけには行かないかな。
律儀で生真面目な零奈のことだから、てっきり両親の後を追ったものだとばかり思っていたけれど。
(霊智に宿った以上、霊智の死期は吾の死期でもある。そして、吾は二度と死ぬつもりは無い)
それに続く言葉は孤独な僕の心に強く響く。
(神を呪うのだろう?)
――あんな恥ずかしい妄想を聞かれていたのか。やっぱりもう一度飛び降りるかな。
本当はこれっぽっちも恥じてなどいないのに、自分の心の中でさえ嘯く。
僕はそんな自分が心底嫌いだ。
(でも吾が聞いたお陰で妄想は現実となり得る。鬼とて叛逆の徒は笑えまい)
――まさか神殺しを頼めるの?
百聞は一見に如かずとか言ってもその一見にどれだけの信頼が置けるのか。
人心を掴む術は数あるが、不可能を可能にして見せられた時、人の心は容易く魅せられ惹かれる。
こんな突拍子もない願いごとをしようしている時点できっともう僕は死神の術中なのだろう。
(ああ、吾は既に霊智の居候だからな。一宿一飯の恩義を果たしてくれよう)
その実、魔術師だろうが奇術師だろうが得られる結果に差異は無い。
心の掌握は真贋の事実よりも信疑の具合が左右する。
わかっていても騙される。
自身の心と距離をおいて観測していてもその手法から逃れることはできない。
――一つ聞くけど、本来今ここで死んでいたはずの僕の延命はどうするつもりなの? 死神が人命救助だなんて、その死神協会とやらが黙っているとは思えないんだけど?
(吾を心配してくれるのか? フフフ、ありがたいがそれには及ばないさ。協会に話を付ける算段ならもうついている。ただ外野がなんて言うか……)
――いや、社会的な居場所なんて要らないよ。嫌われるのは慣れっこだし、万人に受け入れられようなんて端から思ってないさ。そもそも僕自身、僕のことが大嫌いだからね。