log87.マインド・ダイブ
人の技術は日進月歩。長い年月をかけ、人の技術はゆっくりと進化していった。
そんな中で、VRMMOに関わるマインド・ダイビングと呼ばれる技術は恐竜的進化と呼ばれるほど、急激に進化していったと言われている。
かつてのVRMMOは、ヘッドマウントディスプレイを利用しただけの、とてもバーチャルリアリティとは呼べない代物であった。それが販売されてから数年後にはロボット工学に使用される操作法の一つであるマスタースレイブ方式を応用した、疑似VRとも呼べるゲームシステムが完成した。ここまでは良い。だが、そのさらに数年後にはマインド・ダイビングによる完全なるバーチャルリアリティが完成してしまっているのだ。
ヘッドマウントディスプレイ方式から、マスタースレイブ方式。これはまだいい。まだ現実の感覚を利用してゲームをプレイしている。
だが、マスタースレイブ方式からマインド・ダイビング法式。これは訳が分からない。海を泳ぐトビウオが本当に空を飛んでいくようなものだ。この二つの間に存在するはずの進化の歴史を完璧に把握している者は、ほとんどいないと言われている。
……そんな進化の空白、その一端を握っているのがセイクリッド社の社長であり、イノセント・ワールドのプロデューサーである如月純也だということを知るものは、この世界にほとんどいない。
「―――ふむ」
薄暗く照明を落としたモニター室の中央に据えられた、ディスプレイの前に、一人の男が座っていた。
頭髪はやや薄いが、生気に満ち溢れた様子を失っていない壮年の男性……イノセント・ワールド内のチャットでカネレに純也と呼ばれていた男だ。
彼こそが如月純也。イノセント・ワールドのプロデューサーであり、セイクリッド社の社長でもある人物である。
如月純也はディスプレイを見つめながら、満足げに小さく頷いた。
「今月のマンスリーイベントの一日目のDAUは140万と少し、か……。さすがに全盛期ほどではないが、今でも十分楽しんでもらえているようだ」
DAUとは、デイ・アクティブユーザーの略称。つまり、一日でどれだけのユーザーが対象のネットゲームをプレイしているかを測るための指数のことである。
一般的にこのDAUが多ければ多いほど、そのネットゲームは人気であると考えられている。
イノセント・ワールドの場合は、DAUは100万であると言われているので、普段の1.4倍のユーザーがイノセント・ワールドをプレイしている計算になるわけである。
純也が目に見えるイノセント・ワールドの人気を確認し満足そうに頷いていると、小さなノックの後に一人の青年が部屋の中へと入ってきた。
黒いスーツを着こなし、オールバックで髪を固めた青年はディスプレイをじっと見つめている純也と薄暗い室内を見比べ、ため息を突きながら彼に近づいていった。
「社長……何度も申しあげておりますが、せめてモニター室の明かりくらいは付けてください。お目を悪くされてはいけませんよ?」
「そうは言うがね、クレス君。今回のマンスリーイベントは何かと支出が嵩む。であれば、少しでも倹約に務めるべきが、イノセント・ワールドのプロデューサーたる私の使命ではないかね?」
純也はマウスを何度か操作し、ディスプレイの電源を落とす。途端に薄暗くなる室内。
腰かけていた椅子から立ち上がった純也は、持っていたペンライトに光を付けてクレスと呼んだ青年を照らしてやった。照らされた彼の顔は、しかめっ面になっていた。
クレスはしかめっ面のまま、純也を睨みつけた。
「支出が嵩むとわかっているなら、あまりこう言った無茶はやめていただきたいのですが」
「重要なのは、何よりもユーザーの満足だ。違うかね?」
純也はそう言いながら、クレスに背を向け彼が入ってきた扉へと近づいてゆく。
クレスもそれに続きながら、純也の背中を見つめる。
「仰ることは理解できます……しかし、我が社の業績は他社のVRMMOと比較すると相当に悪いことは自覚しておられますね?DAUで考えれば異様と言えるほど低い」
「採算度外視だからな。まあ、年寄りの道楽だよ」
純也はそう言いながら扉を開ける。
その向こうの光景を眺め、彼はまた満足げに頷いた。
「何しろ、雇っている社員に率先してゲームをプレイしてもらうくらいだからな」
「プレイと言っても、管理者側としてですが、ね」
呆れたようにクレスも扉の向こうの光景を見る。
そこに並んでいたのは、大量のポッド型ベット。百はくだらないであろう、その大量のベッドにはすべて人間が横になっており、一様に大きなヘッドギアを装着しているのがわかる。
彼らが装着しているのは、イノセントワールドをプレイするために使用されるヘッドギア……それを大型化した、管理者用と呼ばれるヘッドギアだ。ポッド型ベットに接続されたそれは、普通のプレイヤーたちでは使用できない様々なコマンドを実行することができる。
そう、ここで横になっているすべての人間は、今、イノセント・ワールドをプレイしているのだ。
「生きた人間による、イベントの管理統制……マインド・ダイビングによる制御が可能であるとはいえ、人件費や必要経費を考えるととても効率的とは思えません。いえ、不経済と言い切ってもかまいません」
「もちろんだ。人海戦術ほど、効率の悪いものもない。だが、城砦攻略のようなVS系イベントは、やはり血の通った人間と相対した方が盛り上がるものだからな」
渋面を止めないクレスの様子に笑いながら、純也はポッド型ベッドの脇を歩いてゆく。
「やはりゲームは楽しくなければならない。人々に楽しみを提供するためであれば、私は喜んで血を流そうと思っているのだよ」
「社長の理念は存じております。ですが、企業としての経営も忘れずにお願いいたします」
夢を語る表情で笑う純也に対し、クレスは厳しい顔をしてシビアな意見を述べる。
「今はかろうじて黒字となっていますが、このような採算度外視の支出が続くようであれば再び赤字に転じてしまいます。昨年、多くの社員の努力によってもたらされた結果を不意にしてしまうおつもりですか?」
「耳が痛いな」
純也は小さく苦笑する。会社経営において、クレスほど有能な秘書はいない。いないとわかっているのだが、そんな彼の意見をほとんど取り入れずにいるのは、他ならぬ純也自身なのだ。
クレスの厳しい言葉を申し訳なく思いながら、純也はゆっくりとベッドの間を歩いてゆく。
「だが、このイベント……これだけはこなさねばならない。それだけは分かってほしいのだ」
「ユーザーの満足のため、ですか? 先月の妖精竜イベントの際には最高DAUは200万を越えました。新規加入者を多く見込めない今、これは喜ぶべき数字でしょう。社長は、これでは満足できないと?」
クレスは手にしたPDAから先月のイベントのデータを呼び出す。
だが純也はその言葉に首を振り、ゆっくりと振り返った。
「いいや、大満足だとも」
「では、何故です?」
振り返った純也を、クレスは厳しい眼差しで見つめる。
しばし、重苦しい沈黙がその場を包み込んだ。
「……クレス君。君は、ジュール・ヴェルヌという人物を知っているかね?」
「……? ジュール・ヴェルヌですか?」
クレスは純也の口にした名を聞き、しばし考える。
だが、思い当たる節がなかったのか、小さく首を横に振った。
「いいえ。寡聞にして存じませんが……誰です?」
「SFの父とも呼ばれている小説家だよ。彼が残した言葉の一つに「人が想像できることは、人が実現できる」というものがある」
「………? はあ、それがなにか?」
純也がなにを言いたいのか理解できないクレスは、疑問符を顔に浮かべながら純也の次の言葉を待つ。
続く純也の言葉は、こんなものだった。
「ではクレス君。君は……信じるかね? 電脳の中に生きる人間の存在を」
「? は、はぁ……?」
電脳の中に生きる人間。また突拍子がなく、さらに脈絡もない言葉だ。
それと今回のイベントの関連性が全く読めず、クレスは目を白黒させるばかりだ。
「電脳の中……ですか。どういう意味かは解りませんが、今ゲームをプレイしている彼らこそがまさに、電脳の中に生きる人間と言えるのではないですか?」
そう言ってクレスは周囲でゲームをプレイする社員たちを指差す。
彼の言うとおり、イノセント・ワールドをプレイする者たちは皆、電脳の中に生きる人間と言えるだろう。
だが、それがどうしたというのだろうか。つまり、このイベントで電脳の中に生きる人間の存在を証明したいのだろうか。
思わず思い悩むクレスに、純也は言葉を続けた。
「私はね、クレス君。ずっと、夢想し続けてきたのだ。ここではないどこかに存在する異世界のことを。その世界で嫋やかに微笑むエルフを。豪快に笑うドワーフを。淑やかにはにかむ人魚を。ずっと、ずっと夢想してきたのだよ」
「……その夢を結実させたものが、イノセント・ワールドなのですか?」
純也の告白に、クレスは小さく問いかけた。
純也は、小さく頷いた。
「そうだな。だが、まだ足りない。足りないのだよ。多くの貴重な友人たちのおかげで、今の形にまで持ってこれた。だが、まだまだなのだよ」
「……なるほど。イノセント・ワールドはまだ不完全……であれば、より多くのデータが必要というわけでしょうか?」
より多くのデータを取るには、もっと多くのユーザーにゲームをプレイしてもらう必要があるだろう。そして、そのためには多くの人間を魅了する、そんなイベントが必要になるだろう。
今回のマンスリーイベントで人間の管理者を立ててイベントを進行するのは、そうして魅力的なイベントを定期的に開催することで、多くのユーザーの目を引き付け続けるためだとクレスは結論付けた。
この会社、セイクリッド社……そしてイノセント・ワールド。この二つは純也が己の夢のために生み出したものだとクレスは聞いている。であれば、収益を上げられずとも、純也にとってこのイベントは必須のものだろう。
クレスは納得し、純也を見つめる。
「まあ、そう言うことであれば致し方ありませんが……なるべくはご自重ください。収益を上げねば会社は倒産し、社長の夢も泡沫と消えます。そうなっては元も子もありません」
「……わかっている。これが終われば、しばし倹約に務めるとしよう」
「そうしてください。それでは」
クレスは一礼し、ベッドルームを後にする。
あとに残された純也は、ベッドの中で眠る社員たちを眺めながら、ポツリとつぶやいた。
「……これだけの人間を用意せねば、彼は出てきてくれないのだ。人を学び、そして生きるために学ぼうとする彼を呼ぶには、こうするしかないのだよ……」
部屋を後にしたクレスに声は届かず、ベッドで眠る者たちには聞こえない。
純也のその呟きは、暗闇の中にただ消えてゆくのみであった。
なお、ゲーム会社としては一流でも企業としては赤字スレスレの三流企業の模様。




