log5.初めてのレアエネミー
完全に二人の死角に現れた黒い靄は、音もなく形を作る。
それはかぎ爪を伴った巨大な腕。腕だけが、地面から生えているように見える。
カネレは、その奇妙な存在に覚えがあった。
(まずいっ……!)
背負っていたギターを素早く構え、ショートカットから魔法を選択。
黒い何かが二人を攻撃するより早く一撃を加えようとするが――。
(間に合わないっ!?)
だが、腕はカネレの想像以上のスピードで姿を形成する。
確かな質量を伴った剛腕は、木の影に自らの影を隠し、談笑を続けるセードーとキキョウに向かって己を振り下ろす。
「二人とも、逃げっ……!」
カネレは悲鳴じみた警告を上げるが、決定的に遅い。
ゴシャァァン!!
けたたましい破壊音を立てて、黒い剛腕はセードーたちが立っていた場所を打ち砕いた。
「……っ!」
カネレは息を呑む。
腕の一撃を喰らい、地面がまるでいたか何かのように真っ二つに割れ、隆起している。
まさに想像を絶する力。人間の体など、一撃で粉々になるだろう。それは、このゲームでも変わりはない。しかもレベル1の初心者が、今の一撃が受けきれるわけがない。
「――っと」
もっとも、喰らっていれば、の話であるが。
カネレの傍に降りてきたセードーは、姫抱きにしていたキキョウの体をそっと地面に下した。
「危ういところだったな……。すまなかったな、キキョウ」
「い、いえ」
「!? 二人とも、無事なのかい!?」
自身の頭上から降りてきた二人の存在に驚き、カネレは上とセードーを見比べた。
セードーは軽く首を回しながらカネレに答えた。
「無事だ。あと一瞬離脱が遅れれば、死んでいただろうがな」
「そ、それは良かった……よく気が付いたねぇ」
「気配はなかったおかげで、気が付くのに時間がかかった……」
セードーは剣呑に目を細めながら、自分たちを攻撃しようとした黒い腕を見る。
セードー達が姿を現し、そして自らの腕の下に何もないのに気が付いたのか、ゆらりと掌を上げ、セードー達のいる方に向き直った。
顔こそないが、全身から不思議そうな気配を漂わせている。
「敵……」
セードーが一言つぶやいた時、黒い腕が全身を震わせる。
先ほどまでしっかりとした質量を伴っていたはずなのに一瞬で気配が薄くなり、そして液体のように流動する。
グネグネと全身を揺らめかせ、そして次の瞬間には黒いヒトガタとなってそこに立っていた。
顔はなく、どこか不定形の化け物といったような風情だ。
顔のない顔を向け、ヒトガタは臨戦態勢?のようなものを取った。
ヒトガタの戦る気を見て、セードーは一人首を傾げた。
「……にしては奇妙だな。名前もレベルもHPも表示されない」
「そ、そうだねぇ……」
正気の削れそうな光景を見ても平然としているセードーと違い、カネレは挙動不審になっていた。
どこか声がしどろもどろとなっており、視線も落ち着かなさげに揺れている。
隣のセードーや、その後ろでヒトガタの変身した姿を見たせいで涙目になっているキキョウの様子を終始窺っている様子だ。
しばらく迷うように視線を森の中へと彷徨わせ、それから意を決したようにセードーに声をかける。
「……レアエネミーって、知ってる?」
「一応、存在は」
レアエネミーとは、言葉の通り希少度の高いモンスターの事だ。
通常、モンスターは特定の範囲やダンジョンでポップする。そしてゴブリンのような汎用性の高い亜人系モンスター以外は特定の地域にしか頒布しておらず、他の地域に出現することはない。亜人系モンスターも、人や動物が住めないような場所には出現することはない。こう言ったモンスターの出現地域を生息地域と呼び、NPCがプレイヤーの進行具合に応じてモンスターの生息図を販売してくれたりもする。
だが、レアエネミーにはそのような生息地域の縛りがなく、町以外のありとあらゆる場所とダンジョンに現れる。そして一度遭遇すれば、倒しきるまで何度でもプレイヤーの前に現れる、特殊なモンスターなのだ。
出現率がきわめて低く、遭遇すること自体が稀なのだが、モンスターとしての強度は同レベル帯のボスモンスターを軽く上回り、ドロップするアイテムも同レベル帯のダンジョンから手に入るアイテムを凌駕する。
かなり強力なモンスターではあるが、一度出会えれば倒しきるまで何度でも現れる上レアアイテムを落とすため、熟練プレイヤーからの愛称は“自走式宝箱”だったりするのがご愛嬌だろうか。
カネレは黒いヒトガタを指差し、あれこそがそのレアエネミーだと口にした。
「あれが、そのレアエネミーだよ。……レアエネミーは基本的に一度倒すまで視覚からの情報以外がすべて制限されるんだよ。だから、名前もレベルもHPも見えない」
黒いヒトガタはこちらの様子を窺っている。
その隙にカネレは立ち位置を変え、囁くようにセードーの耳元でつぶやいた。
「出会えたのは運がいいけど、勝てるとは限らない……。今回は逃げに徹しよ? 逃げるのは悪いことじゃないし、まだ死に戻りなんて経験してほしくないんだ」
微かな悲哀と苦悩を込めたカネレの声。
そんな彼の声に頷きながら、セードーははっきり答えた。
「そうか。だが断る」
「何故にWHY!?」
「死んで戻るのもまた一興。そういう経験ができるのもゲームならではだろう」
自身の返答に驚愕するカネレを置いて、セードーは拳の骨を鳴らしながらヒトガタに近づいてゆく。
「そしてこれもまた絶好の機会。自らよりも強いものとの戦いこそ……武術家の本懐というものだ」
「あああ~もぉ~!」
カネレは悔しそうにギターを鳴らしながら地団太を踏む。
キキョウはそんな二人のやりとりを見て、小さく頷きセードーに声をかけた。
「セードーさん、頑張ってください!」
「応」
「聞いてたんなら止めてよねぇ!?」
もはや半泣きになりながら訴えるカネレだったが、二人ともその訴えを無視した。
セードーは悠然とヒトガタに近づきながら、その様子を観察する。
黒いヒトガタは戦闘態勢を取りながらも、近づいてくるセードーに対してほとんど無防備であった。
“襲う”つもりはあるが、“襲われる”つもりがない……というわけではなさそうだ。
(防御を捨てて……いや、守ることを知らないように見えるが、さて……)
セードーは不可解な襲撃者を前に、軽く腰を落とす。
ヒトガタは、立ち止まったセードーを見て好機ととらえたのか、一気に彼に向かって駆け出す。
矢のような勢いで飛び出したヒトガタは腕を上げ、セードーに向かって振り下ろす。
だが。
「コォォ……」
セードーは呼気を吐きながら腕を回す。
真円を描くような動作。軽い運動のようにしか見えないそれは、振り下ろされたヒトガタの一撃をあっさり捌いた。
空手の防御技術の一つ、廻し受け、である。
そして、ヒトガタの体ががら空きになった瞬間。
「――ぬぅん!!」
稲妻のような素早さで、セードーの正拳がヒトガタの体に突き刺さる。
正中線における五ヵ所の急所を連続で貫かれ、ヒトガタの体が後ろへと吹っ飛んだ。
「正中線五段突き……」
小さく呟くセードーの目の前で、吹っ飛んだヒトガタは巨木に叩きつけられる。
ベシャッ!と泥か何かのような音を立ててヒトガタの形が崩れる。
そのまま木の根元に崩れ落ちるヒトガタを見て、セードーは眉根を顰めた。
「……聞いていたほどの実力ではないな? 本当にレアエネミーか、こいつ」
ぐずぐずと元の形を取り戻そうとするヒトガタ。だが、ダメージが大きすぎたのか、なかなか元の姿を取り戻せないでいる。
リアルでのセードーは空手有段者十人を、たった一人かつ素手で全員病院の中に叩き込むような猛者である。その技術がいかんなくイノセント・ワールド内でも発揮されているのは、先ほど犠牲になったゴブリンの事実を鑑みても明らかである。
だが、そんな彼も今はまだレベル1……すなわち初期ステータスのままだ。当然彼の拳がモンスターに与えられるダメージはレベル1かつ素手の状態で得られる攻撃力以上には基本的になりえない。なるはずがないのだ。これは、ゲームなのだから。
だが、目の前のレアエネミーはそんなセードーの攻撃を受けて、まだ立ち上がれないでいる。見た目こそ異様であるが、とてもレアエネミーとは思えない弱さだ。
初遭遇したレアエネミー?の存在に落胆し、ため息を突きながらセードーは止めを刺すべくヒトガタに近づこうとする。
「あぁーもぉぉぉぉぉ!!」
そんな彼の耳にけたたましいカネレの叫びと、耳をつんざくような高音が聞こえてきた。
「色々段取り考えてこっちも頑張ってんのに何でこんなタイミングで現れるのかなぁぁぁもぉぉぉぉぉぉ!!!!」
「か、カネレさん!?」
「なんだっ!?」
セードーが思わず振り返ると、カネレがギターをかき鳴らしながら目の前で巨大な光球を生み出しているところであった。
激しく上下する掌が甲高い騒音を奏でるたびに、光球から稲光が生まれ瞬く。どうやら雷の塊のようだ。
キキョウが引くほどの強さで輝く光球を生み出し、カネレは天を仰ぎ見る。
「プゥラズマァァァァァ!!!」
彼が手に持つギターからは決して奏でてはいけないようなサウンドの中でも、不思議とよく通る声が、最後の呪文を完成させた。
「ブレェェェェスゥゥゥゥゥゥ!!!!」
「セードーさん逃げてー!」
膨れ上がった光球が破裂する寸前、キキョウが叫ぶ。
「うぉ……!」
それに呼応するようにセードーが飛びのいた瞬間、光球が一直線にヒトガタの元まで伸びる。
もはや光の柱とでも呼ぶべき雷撃は、狙い違わず黒いヒトガタに突き刺さった。
瞬間、瞬く激しい雷光。耳を突き刺す轟音。
さく裂したプラズマブレスの威力は余波だけで衝撃波を生み、木々を薙ぎ払い草花を消し飛ばし、木の葉か何かのようにセードーの体を吹き飛ばした。
「うぉぉぉぉ!!??」
カネレの一撃によって生まれた衝撃波は、セードーに受け身を取る間さえ許さずその体を木に叩き付けた。
「がっ!? ……ぐぅ」
セードーの全身を強い衝撃が襲う。……が、幸いなことに痛みもなければダメージもない。
基本的にこのゲーム、プレイヤーキルの概念がない。そのため、プレイヤーがプレイヤーを攻撃しても、衝撃はあってもダメージはないのだ。もちろん、プレイヤー同士が敵対する方法がないわけではないが。
ともあれ、木に勢いよく叩きつけられたセードーは頭を振りながら立ち上がる。
濛々と立ちこめる爆煙を前に、うっそりと目を細める。
「……熟練プレイヤーだとは思っていたが、これほどの威力を生み出すとはな……」
煙と共にセードーの傍に漂う匂いから察するに、相当の範囲が燃えているように思える。
そして、かすかに見える地面からは土の色が完全に露出していた。
おそらく爆心地はもっとひどいだろう。無残に抉れている姿を想像するのは難しくない。
視界は悪いままだが、見なくてもセードーにはヒトガタの未来が想像できた。
「型が残っているとは思えんな……」
「ブラストストォーム!!」
自らの手で止めをさせないことを残念に思うセードーの耳に、カネレの次なる呪文が聞こえてくる。
強風を生み出す呪文であったらしく、セードーの視界を塞いでいた煙を一瞬で蹴散らしていった。
「っと……」
吹いた強風に思わず目を閉じるセードー。
そして、次に目を開けた時に見えたのは、カネレの呪文によってすっかり様変わりした始まりの森の姿。
そして。
「……なんだと」
先ほどの一撃を喰らってなお……立ち上がろうとする黒いヒトガタの姿であった。
愕然としたセードーの耳に、忌々しげなカネレの舌打ちが聞こえてくる。
「チェッ……。やっぱダメかぁ」
「どういうことだ、カネレ……あれは一体!?」
拳を固め、構えながらカネレに問うセードー。
カネレもまた、油断なくギターを構えながらセードーの疑問に答えた。
「見てのとーりさ……。あのレアエネミー。なんでか知らないけど、こっちのダメージがほとんど通んないんだよ。前に僕と、もう一人友達がいたときも全力で攻撃したんだけど、結局逃げられてね……」
「ダメージが通らない……だと? カネレ、レベルは?」
「こう見えて91なんだけどねぇ……自信なくすなぁ」
「91……」
イノセント・ワールドにおける最大のレベルは99。その上も一応あるが、ゲームを極めた人間へのご褒美兼おまけなので、実質レベル99が最大と言っていい。
その中でのレベル91。言うまでもなく、セードーなど足元にも及ばないような、言ってしまえば廃人レベルのプレイヤーだ。
そんなカネレと、彼の友人が全力で攻撃して取逃してしまうようなレアエネミーが、今セードーの目の前で再生を繰り返している。
「……すまない。どうやら、俺は慢心していたようだ。お前の言うとおりにすべきだったな」
セードーは先ほどの自身の言葉を反省し、カネレに詫びた。
カネレは笑って首を振った。
「いいさ。君のしたいようにすればいい。それが、このゲームだからね」
「それで、どうするんですか!?」
ようやく立ち直ったらしいキキョウが手に武器を構えながらカネレに並ぶ。
カネレは弦を一鳴らししながら、難しそうにつぶやいた。
「どうしようかなぁ……。君たちを巻き込まずにうまく立ち回れればいいけど……」
グネグネと、自らの体積を増していく黒いヒトガタだったものを見ながら、カネレは乾いた笑い声を上げた。
「うまくいかない予感がするなぁ。死んじゃったら、ごめんね?」
なお、SAN値喪失は1/1d6程度の模様。