log2.初めてのログイン
荒木教師よりイノセント・ワールドの仕様に関する簡単なレクチャーを受けた真樹は、何もない電脳空間の中にぽつりと座って一冊の本を読んでいた。
タイトルは“イノセント・ワールド説明書”。ごく普通のゲームの説明書である。
「ふむ、なるほど……」
真樹は興味深そうに頷きながら、説明書のページをめくってゆく。
この電脳空間は、イノセント・ワールドに限らず、VRMMO全般において存在するキャラクリエイトのために用意される空間である。
ものによっては、どこか神々しかったり、逆に魔界か何かを思わせる禍々しい雰囲気を伴っていたりするが、イノセント・ワールドの場合は真っ白などこまでも続く地平線の形で構成されていた。どこまで行っても何もないその空間は、どこか物寂しい雰囲気すら漂わせている。
ここは初めてVRMMOにログインする者にとっては、VRMMOでプレイするための練習場としても機能する。要するに、ゲームの中で体を動かす感覚になれるためのスペースということだ。
そして今真樹が読んでいる様な、説明書を読むためのスペースでもある。もっとも、説明書に関してはプレイ中でも再確認は可能だ。真樹のように真剣な表情で説明書をこのスペースで読むものはほとんどいない。
大抵のものは、一刻も早くゲームをプレイしたがるものである。
あるいは、真樹のように生真面目なものは、一度くらいは説明書に目を通すやもしれない。
「………」
さて、真樹は最後のページを読み終え、ぱたんと説明書を閉じる。
閉じられた説明書は真樹の手の中でどこかへと転送されるかのように消えた。
それを見て感心しながら、真樹は立ち上がった。
「さて、一通り説明書には目を通した……初めてみるか」
真樹はそう呟き、虚空を見上げて一言つぶやいた。
「イノセント・ワールドへのログインを希望する」
〈了解しました。ログインに必須な項目が完了しているか、確認いたします〉
真樹の声に応えるのは、無機質なナレーション。
数秒の間を置き、ナレーションの声が返ってきた。
〈確認終了しました。イノセント・ワールドの筐体に、スマートフォンの接続を確認。ゲーム内でのインターフェイスに使用いたしますか?〉
「頼む」
ナレーションの確認に、真樹は肯定を返す。この確認は、ゲーム内でスマートフォンを使用するかどうかの確認である。と言っても電話はできず、スマートフォンの中もアプリではなく、ゲーム内で使用するインターフェイスに置き換わり、名前もクルソルと呼ばれるようになる。
説明書によれば、イノセント・ワールドは中世時代をモチーフにした、オリジナルのファンタジーアクションRPGとなっていた。
そんな世界にスマートフォンを持ち込むのもどうか、と真樹は思うのだが、荒木教師曰く「知り合いが見つかりやすくて便利なんだ、うん」とのことだった。無論、接続せずともゲームはできるが、やはり便利さが違うらしい。
特にスマートフォン内の電話帳に登録されている者同士だと、ゲーム内にログインしているかどうかがわかるという話であった。おかげで、真樹の電話帳の中に荒木教師のメールアドレスが一件増えている。
〈了解しました。インターフェイスに接続されているスマートフォンを登録。――登録完了。ログインのための必須項目はすべて整っています。ログインを開始いたしますが、よろしいですか?〉
「かまわん、頼む」
〈了解いたしました〉
真樹の肯定を受け、ナレーションが返答すると同時に真樹の体……より正確にはイノセント・ワールドにおける彼のアバターの周りに光の輪が現れる。
いくつかの輪がアバターの周りに現れ、そして光の幕をカーテンのように張る。
〈プレイヤー名“正道真樹”のイノセント・ワールドへのログインを開始します〉
少しずつ視界が光の覆われていく中で、真樹はナレーションの声を聞く。
〈イノセント・ワールドへようこそ。―――楽しんで、いってくださいね……〉
「む……?」
そのナレーションの声に感じた違和感の正体を探る間もなく、真樹の視界がすべて真っ白な光で覆われてしまう。
「む……」
思わず真樹は目をつぶる。
そして、次の瞬間、足元に重力を感じる。それと同時に、にぎやかな喧騒が辺りを包み込んだ。
頬を風が撫で、日の光が体を照らしているのを感じる。
「む、あ……? 着いたのか……?」
体に受ける感覚に戸惑いながら、真樹は目を開く。
そうして視界に飛び込んできたのは、数多の人間が行きかう町の賑わいであった。
「これ、は」
思わず真樹は息を呑む。
視界に広げる光景は、とてもゲームの中とは思えないリアルさを真樹に伝えてくる。
「安いよ安いよー! 今日も野菜がお買い得だよー!」
「じゃあ、ニンジンとおまめ頂こうかしら?」
「へい毎度!」
「今日はどこ潜る?」
「アルフヘイムのゴブリン砦でいいんじゃね?」
「うう……武器の強化が、すすまなーいー……」
「とっととドワーフに武器作ってもらえよ」
「今日もソフィの太ももは宇宙一ィィィィィィィィ!!!」
「下らんことを叫ぶな戯けがぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
当たり前のように、買い物をする主婦に、会話をしながら歩く若者たち。
中には奇行に走るものもいたが……真樹の視界にあったのはごく普通の街の風景だ。
頬を撫でる風、天頂に浮かぶ太陽……そして、町を行きかう人々。
どれを切り取っても、とても作り物だとは思えないほどのリアリティが籠っているように、真樹には感じる。
いや、実際に一瞬異世界に迷い込んでしまったと錯覚してしまった。街をゆく人々がスマートフォンを手にしていなければ、今自分がやっているのはゲームだと確信できなかったかもしれない。
「……荒木先生は、このゲームはリアリティが売りだ、と仰られていたが……」
真樹は目を細め、ゆっくりと町の中を見回す。
「さもありなん、確かにその通りだな……」
もちろん、何から何までがリアルというわけではない。よく見れば、町を行く人々の体はポリゴンで出来ているし、どことなく現実では無理そうな建造物の姿もちらほら見える。
だが、それらを抜きにしてもイノセント・ワールドの出来は確かなものだと真樹は肌で感じていた。
まさに“仮想現実”という奴であろうか。真樹の目の前に広がっているのは、まさに現実の風景そのものであった。
「こうして立っているだけでも、十分に楽しめそうだな……」
荒木教師が聞いたら泣いて地団太を踏みそうなセリフを呟きながら、真樹はしばしイノセント・ワールドを彼なりに楽しむ。
と、そんな彼の背中に。
「すごい……わ、っぷ」
「む?」
誰かがぶつかってくる。
突然の出来事に、真樹は思わず硬直してしまう。
そんな彼にぶつかって来た相手は、慌てたように後ずさった。
「あうっ!? ごごご、ごめんなさい、ごめんなさい!!」
「む、あ、いや……」
真樹は相手の声を受けて、慌てて振り返る。
彼に向かってひたすら頭を下げているのは、同い年かやや年下にも見える小柄な少女だった。
「ホントにすみません! ここっこのゲーム私初めてで! あんまりにきれいな風景なんでボーっとしてたんですすいません!」
「いや、こちらこそすまない。往来の真ん中で立ち呆けていたのは、俺も同じだ」
水飲み鳥もかくやという速度で頭を下げる少女に真樹は手を振って制止を呼び掛ける。
「だからそう、頭を下げないでほしい。周りの視線も痛い」
「あうぅ……本当に、すいませんでした……」
周りから突き刺さる他人の視線に少女も気が付いたのか、恥ずかしそうに頭を上げる少女。
そんな少女の顔を始めてまともに見て、真樹は顔をしかめた。
「……目に包帯? それで見えるのか?」
「ふえ?」
不思議そうに首を傾げる少女の目……もっと言えば顔の上半分は包帯の様なものでぐるぐる巻きにされていた。
着ている衣装はごく普通の旅装姿にマントを羽織ったものだが、顔に巻いている包帯が一種異様で何とも言えない違和感を生み出している。
対する少女は、そんな自分の姿に疑問を覚えていないのか、顔の包帯に手を当てる。
「はい、見えてますよ?」
「そうなのか……?」
「私もびっくりしたんですけど、ちゃんと見えるんですよー。それに、弟に聞いたんですけれど、こう言うゲームはなるべく顔は晒さない方がいいって」
「……まあ、俺もあら……いや、知人に同じことを言われたが」
周りを見れば、大きめの眼鏡や仮面、あるいは濃いタトゥーの様なもので顔を隠しているものが散見される。
昨今のVRMMOは筐体から流れる信号で骨格や筋肉、そして脂肪の付き具合を判別し、アバターに反映させる機能ができている。この機能がまた出来がよく、ほとんど自分の体と変わらないと評判なのである。
無論それだとリアルばれと呼ばれる、個人情報の特定がされやすくなるため、アバター作成の際に顔の形を変えたり、目の前の少女がやっているようにアクセサリーか何かで顔を隠すことが推奨されているのだ。
もっとも自己責任の範疇であるため、顔を隠さず形も変えずゲームをプレイするものももちろんいるが。
真樹も顔の形を変えるのに抵抗を覚え、素のままだったりするが、一応防護策は用意している。
口元に赤いマフラーを巻いて、顔の下半分を隠しているのだ。どこまで効果があるかはわからないが。
「……まあ、見えているならいいのだろう。少し驚いただけだ」
「そうですかー。どっちかと言えば私はあなたの格好の方に驚いてますけど……」
「む?」
真樹は思わず首を傾げる。
そんな彼を見て、少女はしげしげと真樹の体を見回す。
「赤いマフラーに上半身タンクトップ……そして下半身は忍者が来ている様な袴……」
「む」
言われて真樹は自分の体を見下ろす。
少女の言うとおり、真樹はどことなく忍者を思わせる格好になっていた。
空手をやっているので、兜鎧を着こむような重装は好ましくなく、なるべく動きやすそうな服をチョイスしていたらこうなった、と真樹は思っているのだが。
軽くマフラーを摘まんでみながら、真樹は少女に問いかけた。
「変か? 気に入っているのだが」
「あ、いえいえ! とっても似合ってると思います、はい!」
少し気落ちしたようにも見える真樹を見て、少女は慌てたように手を振る。
まあ、彼女にしても露骨に忍者っぽい真樹の格好に驚いただけなのだろう。
真樹は彼女の言葉に少しだけ気分がよくなった。
「似合ってる、か。そうか」
「なのです!」
力強く頷く少女に、微笑む真樹。
何とも言えない空気が流れ、周りの通行人もどことなく二人の周りを避けて歩きはじめる。
と、その時。
「そこな道行く初心者諸君!」
その場の雰囲気をぶつ壊すような大声と、適当にギターをかき鳴らしただけの騒音を背負い、一人の男が二人の目の前に現れる。
「む?」
「はい?」
真樹と少女が振り返ると、そこに立っていたのは……。
「このゲームは初めてかなぁ? 力を抜けよっ!」
ギターをかき鳴らしている、ポンチョに馬鹿でかい麦わら帽子をかぶった妙な男であった。
なお、どこかで見た変態もこのゲームをやっている模様。