log162.殺す心
ウォルフとの戦いに勝利したセードーは、ふらふらとヴァナヘイムの街の中を歩いてゆく。
「はい安いよ安いよ! 新鮮な取れたて魚介が安いよー!」
「はーい! 人魚さんお手製の貝殻アクセ、そこ行くシーカーさんおひとついかがー?♪」
「漁港だからって武器がないと思ってないかい? 大鯨の骨を加工して作ったこの武器武器を見てみろよー!」
そこかしこから響き渡る客引きの声が、いつになく煩わしく感じる。
セードーの足は自然と、人気のない場所を求めて動き続けた。
細い路地を曲がり、白い砂浜を歩み、やがてセードーは街とフィールドの境界ギリギリの岩場までやってきていた。
人気どころかモンスターの気配もない。日々の喧騒から遠ざかりたい、今のセードーのような人間にはちょうど良い場所だった。
寄せては返す波が飛沫となり、セードーの顔にまで飛んできた。
顔にかかる冷たい飛沫の気持ちよさに目を細めるセードー。
ふと気が付くと、辺りが赤々とした夕日に照らされていた。
「………」
見上げてみれば、太陽は水平線の中へと潜りこもうとしている。リアルでは、まだ太陽は天頂にかかろうかどうかというところであるというのに、こちらの太陽は気が早いことだ。……もっとも、日照時間が不安定なイノセント・ワールド、実はこの夕方の時間もかなり不安定で、このまま半日経過したという日もあったりするわけなのだが。
そんな気まぐれすぎる太陽を眺めるセードー。茫洋とした眼差しは、やがて照る日の光から逃げるように歪み、そして視線が俯く。
固く握りしめられた拳は白くなり、引き結んだ唇は嗚咽を漏らさぬようにこらえているようにも見えた。
閉じられた瞼の裏に何を見るのか、セードーは微かに体を震わせ。
「――何を悩むね? 若き拳士よ」
「っ!?」
不意にかけられた声に驚き、勢いよく顔を上げる。
気が付けば、いつの間にか近くの岩場にアレックス・タイガーが立っており、まるで沈みゆく太陽を引き留める様に自慢の筋肉でダブルバイセプスを構えていた。
「……いつの間に」
「つい先ほどだよ。しかし吾輩の接近にも気が付かぬほどの悩みとは何かね、セードー少年?」
腕をおろし、サイドリラックスのポーズを取るタイガー。
セードーはタイガーの質問に微かに瞳を揺らし、それからゆっくりと首を横に振った。
「……悩みなど、ありませんよミスター。特に、貴方にお聞かせするような――」
「ウォルフ少年を殺せなかったことかね?」
「っ!」
タイガーの問いを否定しようとするセードー。だがタイガーは彼の言葉を遮り、はっきりとそう言い切った。
先の戦い……どう見たところでセードーがウォルフを一方的に傷つけ、殺していたように見えた。タイガーの指摘も、先の質問のように否定するのは容易だったはずだ。
……だが、セードーは言葉よりも雄弁に語ってしまった。動揺し、目を見開き、タイガーを見てしまった。
微かに震える瞳の中に、小さな恐怖が残るのをタイガーは見逃さなかった。
「……やはりそうかね」
「あ……う……」
セードーは微かに声を詰まらせ、それから俯き心中を吐露した。
「……はい……。俺に、ウォルフは、殺せませんでした……。いえ、シャドーマンさえ……」
「ふむ、シャドーマン……。君は、彼を殺そうと?」
「ええ……。直感ですが、アレは生きていてはいけないと……思って……」
まっすぐと自身を見つめるタイガーから逃げるように視線を逸らし、セードーは続ける。
「ですが、駄目でした……。殺せなかった……。キキョウの声を聞いた途端、体が震えた……。さっきだってそうだ……。ウォルフの目を見ていたら、気が挫けそうになった……」
自らを恥じる様に唇を引き結ぶ。
「師なら……我が師なら、動揺なく殺していたでしょう……」
「ふむ? そうかね」
セードーの言葉にタイガーは一つ頷き、特別感慨もなさそうにこう続けた。
「その手を血で汚すことを厭わぬ外道だったというのかね? 君の師は」
「それは……!」
タイガーのあまりにも遠慮のない一言にセードーは激高しかける。
だが、まっすぐに自信を見据えるタイガーの……反論を許さぬほどに圧の籠った瞳を見て、喉元に出かけた言葉を飲み込んでしまう。
「っ……」
「セードー……君は、自身の師がいともたやすく人を殺す外道だと……本当に思うのかね?」
「………。………、……いえ」
セードーの逡巡はわずか。小さく首を振り、呟く。
「……ですが、殺すのであれば迷わなかったはずです……。俺は……」
「セードー。では問うが、何故君の師は、君に殺す心を授けなかったのかね?」
「……? 殺す心……?」
タイガーの問いの意味が解らず、セードーは首を傾げる。
そんなセードーに、腕を組みながらタイガーはゆっくり語る。
「吾輩もこの世に生を受けて長い……。プロレスを通じ、世界を股にかけ、あるいはその裏を覗き、この世の武の清濁をゆるりと見続けてきた。その中でも一際恐ろしいと感じたのは一人の男との邂逅だ」
「ミスターが、恐れた男……」
「うむ。かの男はジャパニーズであり、伝説に聞くニンジャであり、そして殺す心を持っていた」
タイガーは瞳を閉じながら当時を述懐した。
「心底震えたものだ……。我が国を訪れた彼は音もなく忍び寄り、そして必殺の技で吾輩を殺そうとしていた……。彼の足元には死体があり、目撃者であった吾輩を消すためだと知れた。吾輩も応戦したが、何より恐ろしかったのは、その瞳だ」
「瞳……ですか」
「うむ……。その瞳にはな、何も写っておらなんだよ」
「え……?」
瞳に何も写っていない、とはどういうことか?
セードーがそれを問うより、タイガーの言葉の方が早かった。
「吾輩のことも、自らが殺した者のことも……あるいは周囲の風景、そして世界さえも写っておらなんだ。完全な虚無……自身の心の内さえない、何もかも亡くした者の瞳であった」
タイガーは微かに瞳の内に影を宿す。
その瞬間を思い出し、対峙したその人物のことを想っているのだろうか。
憐れんでいる……ように、セードーには見えた。
「幸いなことに、吾輩はその瞬間を生き延びた……。そして知ったよ……あれこそが殺す心なのだと……。人を……誰かを殺す者は、殺した人間の魂と、自らのうちに眠る何かを同じように殺すのだと……」
「………」
セードーはつばを飲み込んだ。
“人を呪わば穴二つ”という言葉がある。誰かを呪うのであれば自分の墓穴も用意しろという言葉であり、他者を害すれば自分にも必ず返ってくるという言葉である。
ならば、人を殺せば自身も死ぬのだとセードーは山籠もりの中で学んだ。
中学に上がってからの三年、勉学のために学校へ通っていたが、それ以外は常に山の中で過ごした。生きるために山の幸を、川の魚を、大人しい生き物を……そして時として牙をもつ獣を殺し、自らの糧とした。
弱肉強食の摂理の一部となり、感じ感得したのは殺される覚悟だ。相手を殺すときは、自身も殺されるのだと知った。
ならば……その先は? セードーは獣を殺し、生き残った。幸いにして人を殺したことはない。生きた同族を殺したことはない。故に、その先を知らない。
人を殺し、修羅道へと堕ちた者の末路を……セードーは理解していなかった。
タイガーの語ることが事実なのであれば……修羅の果てとは、がらんどうなのだろうか。何もかも亡くし、空っぽのまま彷徨うこととなるのだろうか。
「……我が師には、生き延びる術を授けていただきました。俺はその中で、殺すことの心構えを学んだつもりでした……。でも、俺は分かっていなかったのですね……。殺す心を、俺は―――」
師に学んだつもりで、何もわかっていなかった。それを理解し、セードーは俯く。己が不甲斐ない。何を偉そうに、ウォルフに殺すなどとのたまったものか。
自身の恥を噛み締めるセードーを見やりつつ、タイガーは話の続きを口にした。
「――そして数十年後、還暦の齢となったときに、その者と再会することとなった」
「―――! その、その者は……ミスターを、消しに?」
殺されかけた相手との再会と聞き、真っ先にセードーはそう思った。
だがタイガーは首を横に振り、楽しそうに微笑んだ。
「いいや、違った。吾輩のことを覚えていた彼は……なんと吾輩に相談に来たのだよ! 唯一殺しそこねた男だったと、それだけの理由で!」
「……はぁ」
「実に驚いたよ! 見違えたと言ってもいい! まさに別人だったよ! ハッハッハッ!!」
実に愉快そうに、タイガーが笑う。豪快な笑い声を聞くに、本当に想像もし得なかったのだろう。
数十年の時を経て、自らを殺しかけた人間が、まさか自分に相談を持ちかけるなど。
だが、彼の人柄を考えればあり得る話だ。世間を知らぬセードーから見ても、アレックス・タイガーは魅力的な人間だった。
力強い包容力にあふれた彼を頼る人間は後を絶たぬと聞くが、実際に付きあいを持つようになってセードーはそれを実感していた。―――誰にも明かすつもりのなかった胸中を溢してしまうほどに。
「いやはや、あの日の晩ほど笑った日もなく、悩んだ日もない……。すっかり様変わりした彼は小さな弟子を取り、その育成に悩んでいるというのだ!」
「弟子……ですか」
「そうとも! ――自らに憧れ、強くなりたいと願う童を、いかに汚さず育てればよいかとな」
「………」
タイガーの言葉に、セードーは聞き入る。
「自身が振るう技は、本来は名もなき外法の技……。自身で途絶えさせるべきものを、どうして授けられようかと。熱意に絆され、残りわずかな余生を捧ぐと決めたは良いが、どうすればよいのかと……」
タイガーは、ふと優しい眼差しでセードーを見つめる。
「血に濡れたこの両手で……今一度、小さな弟子のために道を紡いでゆけるのだろうか……とな」
「………」
タイガーの視線の意味は解らないが、彼に相談した男がひどく悩んでいたのは理解した。
何しろ、かつて殺しそこねた男を訪ねるほどだ。よほど、行き詰まっていたのだろう。
セードーは、疑問をそのまま口にした。
「ミスターは、何と答えたのですか?」
「うむ、吾輩はな」
タイガーは輝くほどに笑顔を浮かべ、しっかりと頷いた。
「“己が信じた道を……憧れた道を紡ぐのに遅いなどない! 貴公が信じた通り、感じた通り、愛弟子を育み育てればよい!”と助言したのだ!」
「ミスターらしいですね」
豪快なタイガーらしい答えだ。彼ならば、考えるよりまず行動だろう。
なんとなく納得して笑うセードーに、タイガーは告げる。
「……その時だよ。“外法式無銘空手”という流派が生まれたのは」
「―――え?」
「本来名もなき外法の技を、小さな弟子に伝えるべく生み出されたものが、外法式無銘空手なのだ……。やがてその弟子が己の道を見つけ、己が術に名を付けることを願い、あえて名を付けなかったのだよ」
セードーはタイガーを見上げる。
タイガーは慈愛に満ちた眼差しで、セードーを見つめた。
「ミスター……どういうことです!? 貴方は、一体――!」
「セードー。己の未熟を恥じ、そして思い悩む小さな武術家よ……。吾輩に言えることは一つだけだ」
そうして現れたもう一人の拳士の姿を見やり、はっきりと告げる。
「――今はただ、突進みたまえ。迷ったまま、己の道を見つけるまで」
「おう、セードー……ちょっとええか?」
「………」
彼の言葉を聞き、セードーはゆっくりと振り返る。
「……ウォルフ」
「おう」
小さなボクサーが、若き空手家をじっと見据えていた。
なお、空手となった理由は原型に最も近かったからというのと……彼自身、空手に強いあこがれがあったためである模様。




