log1.猶予は三か月
たった一人で十人にも及ぶ空手部員……しかも全員有段を持つ黒帯級の猛者たちを返り討ちにし、あまつさえ病院送りにさえしてしまった高校生、正道真樹。彼もまた、とある高校の空手部に所属する空手家である。
誰が聞いても耳を疑うような戦果を挙げた彼に対する学校の処罰は、三ヵ月間の停学というものであった。
「いやまあ、俺もケンカをするなとか、百点満点優等生なこと言うつもりはねぇよ、うん? 長い人生、ケンカの一つもすることはあるさ」
真樹の担任である荒木が、やや呆れたような表情でコツコツと机を指で叩く。
場所は真樹が一人暮らしを行っているワンルームマンションの、彼の部屋だ。
年頃の高校生が暮らすにしては殺風景に過ぎる部屋の真ん中にぽつんと据え置かれたちゃぶ台を挟み、荒木と真樹は対峙している。
軽く顔を伏せながら、荒木は真樹を見やる。
精悍な顔つきだが、全体的に野暮ったい印象を受ける青年だ。おそらく、伸ばし放題のままにしている上に整えている気配のない髪型のせいだろう。瞼の上までかかっているせいで、いまいち表情が掴みづらい。
ファッションに気遣う様子もなく、色気のないTシャツとジャージのズボンがより野暮ったさに拍車をかけている。
が、シャツやズボンの裾から覗く手足は引き締まっており、かなり鍛えているのが窺える。部屋の中に転がっているダンベルをはじめとする、トレーニング用器具がその証拠だろう。
真樹の姿から部屋の内装、そしてその辺りに転がっているものへと目線を変えていき、荒木は大きくため息を突いた。
「ただまあ、何事も加減ってもんが大事だ、うん。相手を全員病院送りってのは、いささかやりすぎだな、うん」
「むぅ。お言葉ですが、先生」
荒木の言葉に、真樹が唸りながら反論をしようとする。
困ったように眉毛を八の字に形作りながら、荒木をじっと見つめた。
「学校でも弁解しましたが、先に手を出したのは彼らです。襲ってくるというのであれば当然、反撃に返り討ちも視野の内かと」
「まあ、お前はそうなんだろうよ……うん」
学校でも聞いた彼の反論を聞き、荒木は項垂れる。
どこまでも生真面目な返答だ。声に一点の迷いも曇りもない。この真面目さは美徳と言っても良いだろう。
ただまあ、だからと言って、相手を怪我させたうえ、病院に叩き込んだ事実が消えるわけではない。
「相手が向こうの学校でも札付きの悪だったからいいようなものの、最悪、お前さん、退学もあり得たんだぞ、うん」
「その節は、大変ご迷惑をおかけしました」
荒木の言葉に、真樹は深々と頭を下げる。
真樹の真摯な態度に、荒木は苦笑する。
それなりに骨を折ったのは事実だが、生徒を守るのが教師の仕事だ。
それに、真樹自身、空手部の部員として華々しい功績を残していたのも幸いした。
……入学してから出場した高校生空手選手権で、ことごとく優勝をかっさらっていった彼の存在は、学校としても得難いものだろう。
荒木は鷹揚に手を振る。
「ああ、いい、いい、気にするな、うん。こういうのも、教師の仕事だ」
「………ですが」
顔を上げた真樹は、申し訳なさそうな顔で荒木を見つめる。
どうしても、申し訳なさを感じるのだろう。
そんな真樹の姿に苦笑し、そしてニヤリと笑ってみせた。
「フフン。そこまで気にするんなら……少し、お前さんには頑張ってもらわないとなぁ……?」
「頑張る……ですか? 何を、どのように?」
もったいぶるように言葉を口にする荒木を見て、真樹は首を傾げた。
現在真樹は停学一日目。こうして荒木が勉強を見に来てはくれているが、基本的に学校行事やイベントに参加することは禁止されている。
当然部活動も禁止されているので、真樹にとって人生ともいえる空手の大会に出場することもできない。
まあ、鍛練まで禁じられているわけではないが、真樹にとって空手の鍛錬は「頑張る」のうちには入らない。彼の人生は空手を中心に回っているのだ。
そんな、骨の髄まで空手がしみ込んでいる真樹の目の前に、荒木は一台のヘッドギアを取り出した。
「思うに、だ。お前さんが今回の事件を引き起こしちまったのは、同年代とのコミュニケーションが不足しているからだと俺は思う、うん」
「こみゅにけーしょん……ですか。むぅ」
荒木の言葉に自覚はあるのか、真樹は一声唸る。
実際、彼は同世代どころか同級生との交流もほとんどない。
ストイックに空手を突き詰め続ける彼の様子に周りの同級生たちは離れてゆき、真樹自身もそれを良しとしているところがある。
彼の持っているスマートフォンにも、家族のアドレス以外はまったく入力されていない始末だ。
荒木は、教師としてそれが真樹の異常であると考えたようだ。
「そこで用意するのがこいつ……VRMMO“イノセント・ワールド”だ!」
「ぶい、あーる、えむえむおー……」
真樹は復唱するようにそう呟き、目の前に置かれたヘッドギアをまじまじと見る。
VRMMO……いわゆる仮想現実オンラインという奴だ。
今はゲームと言えば、この手の仮想現実没入型ゲームが一般的となっている。十年ほど前に恐竜進化的な技術革新が起き、こう言ったヴァーチャルリアリティの技術が発展した……と真樹は聞いたことがあった。おかげでこの手のゲームに疎い真樹でも、ある程度は名前を聞いたことがある。昨今のゲーム市場は、ほとんどがこのタイプのゲームで、幼い頃などは父がこういうゲームを買ってきてくれた覚えがあった。
が、すでにその頃から空手一筋に生きてきた真樹は、世界の最先端であろうと興味すら向けず、ひたむきに己を空手に捧げてきた。おかげで、荒木が告げた名前を聞いても、今ひとつピンとこなかった。
「むぅ。有名なゲームなのですか?」
「……予想はしてたけど、実際そう言われるとショックだな、うん」
正直極まりない真樹の一言に顔をひきつらせながらも、荒木は一つ咳払いをして仕切り直す。
「オホン……いいか真樹。こいつは、いま世界中にあるVRMMO……その頂点の一つに立っていると言っても過言ではないゲームだ! 何しろ、世界中百万人以上のプレイヤーが一度にプレイしているんだからな!!」
「はあ。すごいことなのですか、それは」
「……いやまあ、一昔前のMMOでも、割とこれくらいの人数はプレイしてたんだけどな」
いまいち乗り切れない様子の真樹を見て若干テンションが下がりながらも、荒木は健気に説明を続けた。
「だが、今は世界中にVRMMOは存在する。十万二十万もプレイヤーが加入すれば御の字と言われる業界で百万だ! すごいことだと思わんか! うん!」
「……なるほど、確かにすごいですねそれは」
具体的な数字を出され、少しイノセント・ワールドというゲームのすごさを理解する真樹。
そんな真樹に畳み掛けるように、荒木は前のめりになった。
「そうだろ、うん! それだけの人数がいれば、一人や二人くらい、お前と気の合う奴がいるかもしれないだろ! そしてこいつはVRMMO、つまりほぼ現実と同じだ! ちっとはお前のコミュ障回復の役に立つに違いないだろ、うん!」
「……仰ることはおおむね理解いたしました」
つまりは、遊びの中で人との付き合いを覚えろと言うことなのだろう。
恩師の心遣いに感謝しながらも、真樹はヘッドギアをわずかに荒木へ通した。
「ですが、俺にこのゲームを買うような余裕はありません。先生にお支払いしていただくというのも、申し訳ありませんし……」
基本的に両親からの仕送りのみで生活している真樹に、金銭的な余裕はあまりなかった。
まあ、少し遊ぶ程度の余裕はあったが、VRMMOの筐体を購入するような大金は、さすがに持ち合わせていない。
の、だが。荒木はグイッと力強くイノセント・ワールドの筐体を真樹へと押し付けた。
「金の事なら気にするな! こいつはお前さんの教材……ってことで、経費で落とす! うん!」
「いや、間違いなく経費では落ちないでしょう」
無体なことを力強く言い切る荒木を、真樹は呆れたような眼差しで見つめる。
荒木はそんな真樹の気の緩みを逃さず、そのまま真樹の側へとヘッドギアを押し切った。
「お前はそういう細かいことを気にせず、イノセント・ワールドを楽しめ! うん! 俺もいるから、安心していいぞ!」
「それはむしろ先生の事が不安になるのですが……」
すっかり押し切られてしまい、困り果てた真樹。
だが、ここまで言われれば、恩師の顔を潰すわけにもいくまい。
真樹はイノセント・ワールドのヘッドギアをしっかりと抱え、頷いた。
「……わかりました。そこまでおっしゃるのであれば、ありがたくこのゲームを頂くことにします」
「おお、そうか! よし、じゃあ必ず一日一回、最低でも一時間以上はログインしろ! うん! ちょっとだけ入って、すぐ出るなんて許さないからな!」
「はあ、わかりました……ところで、先生」
「うん!? なんだ!?」
真樹がイノセント・ワールドを受け取ったことでテンションが上がった荒木の様子に若干引きながら、真樹はポツリと問いかけた。
「……このゲーム、説明書はどこについているのでしょうか?」
「……お前、ホントにこういうのやったことないのな」
余談となるが、VRMMOの取扱説明書は、各筐体の中にデータとして取り込まれているのであった。
辺りが夜陰……いや、闇に染まった森の中、一人の男が走っている。
がさがさと音を立てて、木を蹴り折り、必死の形相で森の中を駆け抜ける。
「はっ……! はっ……! はぁっ……!」
男は何かから逃げるような形相で、血走った眼で背後を見据える。
「な、なんだったんだ……! は、っはぁ!」
男の体には、板金鎧の様なものが纏われている。
薄赤色に染め上げられ、過度でない程度の装飾を施されたそれは、無残に砕け、かろうじて男の体に引っかかっているだけのようにも見える。
そして男の右手には、半ばからへし折れた剣が握られている。……いや、折れたというよりは、蝕まれたというべきか。
折れた先端は、光の帯が解れているかのようにも見える。キラキラと粒子が零れ輝く様子は、幻想的ですらあった。
やがて男は体力が尽きたかのように、巨木の傍らにへたり込む。
「はっ……! はっ……! くそっ! くそっ……!」
男はへたり込み、そして拳を地面に打ち付ける。
「くそったれ! なんなんだよ、あれ……! あんなエネミー、ありかよぉ……!」
男はうわ言のように何かを呟き、何度も地面に拳を叩き付ける。
……その音にまぎれるように、男の背後で何かが立ち上がる。
「くそ、くそぉ!」
いや、立ち上がる、というのは正しくない。
泥の塊が、ひとりでに立ち上っている、というのが正しいのだろうか? 少なくとも、無形のままに盛り上がり、ゆっくりと男に近づいていくそれは、人でも獣でもないように思える。
音もなく、男の背後へと近づいてゆくそれは、ゆっくりと男に覆いかぶさろうとした。
「くそ、ったれ……?」
月も星も輝かないその大地で、男が背後に迫るそれに気が付いたのは、まさにそれが男に覆いかぶさった瞬間だった。
「う、わぁぁぁぁ!?」
男は無様に悲鳴を上げ、慌てたように手にした刃を振るい、それを斬り払おうとする。
だが、剣の刃は泥にも似たそれの中をぐずりと通り抜けるだけで、効果はない。
それは男の抵抗など意に介さぬように、男の体にまとわりつき、飲みこもうと体積を広げていく。
「う、うわぁ!? な、なんなんだよこれぇ!?」
己が晒されている状況を受け入れられず、男は叫びじたばたと手を振り乱す。
だが、それは非情にも男の体を、手足の先まですべて飲み込む――。
シュポンッ!
と、見えた瞬間。
何かが勢いよく燃焼し、空を切る音が男の耳に聞こえる。
そして、男の体に何かが突き刺さり、爆炎と衝撃を撒き散らした。
「のわぁぁぁぁぁ!!??」
いきなり己の身を襲った不条理な暴力に、男は悲鳴を上げる。だが、男の五体は満足であり、むしろ爆発のおかげで男の体を襲っていたそれが引き剥がされる。
泥にも似たそれは、爆発の衝撃に飛散することはなく、血のつまった臓物が叩きつけられたような音を立てて木にへばり付いた。
ぐずりと、それが鳴いたような音を立てる。
「あ、ああっ……?」
男は自らの体からそれが引き剥がされたのを信じられないのか、夢に浮かされたように自らの体を見下ろす。
そんな男の耳に、音が聞こえてきた。
「んっん~。そこの君ぃ、大丈夫か~い?♪」
ギターをかき鳴らしながら、歌を歌うように喋る男の声だ。
ギターの音は、ゆっくりと男の傍へと近づいてきた。
「危なかったねぇ~♪ だけどもう大丈b」
「アイスコフィン!!」
どこか調子っぱずれな男の声を遮るように、次は女の声が聞こえてくる。
どこまでも冷徹な女の声に従うように、木にへばり付いた黒いそれを蒼い氷が覆い尽くした。
「うおっ!? 上級魔術……!?」
目の前で起きた現象を見て、男は驚きの声を上げる。
目の前の蒼い氷は、命が生きることを許さぬかのような冷徹さで目の前に存在する。
それは美しささえ伴った光景だったが、蒼い氷の中で黒いそれはまだ蠢いていた。
「まだ、動いてやがる……!?」
「ちょ、エイスぅ。最後まできっちり言わせてくれよぉ」
「黙りなさい、カネレ。とっとと、ケリをつけるのよ」
「はいは~い。まったく、おっかないんだから~」
それがまだ動くのを見て慄く男の背後に、二人の男女が現れる。
男はギターを。女は剣を。
それぞれ手にし、まっすぐに黒いそれを見据える。
男は振り返り、二人の姿を見る。
「あ、あんたは……!?」
男はことさら女を見据え、そしてその名を叫ぼうとする。
だが、女は手にした刃を男の目の前に振るい、男の叫びを遮断した。
「黙ってなさい」
女のただならぬ様子に男は口を噤む。
女は男の様子にすぐに興味を失い、今にも氷の中から這い出そうとしている黒いそれを見て、刃を振り上げた。
「そのまま……終わらせてやるっ!!」
女の叫びと共に、刃が振り下ろされた。
氷が無残に砕け散る轟音が、漆黒の森の中に延々と響き渡った。
なお、病院に送られた患者の中には肋骨全損者がいた模様(身長2M、体重100kg越えの巨漢)